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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述29.5 救世主と銀世界
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記述29.5 救世主と銀世界 第3節

「ねぇ、ほら。そろそろ起きてくれてもいいんじゃない?」

 長らく虚空に放り捨てられていた意識の端に、誰かの声が投げ込まれるように聞こえてきた。それから徐々に、鈍っていた体の感覚が起き上がるように神経へ舞い戻ってくる。体が重い。頭が痛い。胸の中がぐちゃぐちゃになっているような吐き気もある。頭痛のせいで平衡感覚が狂った脳に、自分の体が大波の揺蕩う水の中に沈んでいるような感覚が充満している。その揺れが、自分の肩を誰かに揺さぶられていることからくるものであることに気付くまでには、だいぶ時間がかかった。

 誰かがいる? やっとそう思うにいたった脳味噌が、目に瞼を開けるように指令を送る。そうして目を開いてみると、剥き出しになった眼球に飛び込んできたものは、真っ白な人工の光だった。

「あー、ごめんごめん」

 向けられた光が横に逸らされ、それが懐中電灯の光だったことを知る。ゆらりと、不真面目な調子の謝罪をされてしまった。少々の不満を感じながら改めて目の前の光景を見る。暗く、狭い部屋の中。懐中電灯を持った男は床に倒れ込んでいる俺の様子を見下ろして、にやけた作り笑いを表情に浮かべていた。

「……ディノ?」

「そう、そう。ディノの兄ちゃんが助けに来てやったぞー、ゼウセウトの旦那」

 兄ちゃん、と自称するには少し歳を過ぎているように思える、しかし若作りには成功しているらしい灰色の髪の男。ディノ・トラスト。前にも彼に起こされたことがあったな、とぼんやりとしながら、俺は改めて自分の状況を確認するために周囲を見回した。

 暗く冷たい小部屋の中。床には布の一つも敷かれていなくて、打ちっぱなしのコンクリートの上に俺の体が横たわっている。手足に気持ち程度の拘束具が嵌められている様子を見るに、なるほど、「助けに来てやった」という、彼の言葉は本当であるらしい。

「誰に、捕まったんだ?」

「それすらわからない?」

「気絶してたんだ。結構、長い時間だったと思う」

「へぇー、通りで捕まえたって聞いた時に被害規模の話を耳にしなかったわけだ。そうだねぇ、あの時点からってなると、三日は経っている。その間捕まったことにも気付いてなかったってことは、旦那さん本気で不調なんだろうなぁ」

「三日……」

「外、大変なことになってるぜ」

「あぁ、そうかもしれないな……」

「テディも一緒に黒軍に捕まったんだ」

 伏せていた視線をもう一度しっかりと、ディノの方へ向ける。自分が捕まったというだけならまだどうでもいい話と認識できたが、赤軍隊長が、ともなると話が変わってくる。

「赤軍の連中、事情も知らないままこんなことになったから騒ぎ出しちゃってさ。ほら、あの子って赤軍のオッサンたちに孫みたいに可愛がられてたから。今までの鬱憤や不満もあっただろうし、一部の連中は国境警備の任務をストライキしたり、反乱組織に情報を流したりしちまった。要は裏切りだね。そしたらあちらさんはどうしたか? 警備がスカスカになったチャンスをペルデンテが見逃すわけもなく、一番大きな空挺母艦に兵器をたらふく詰め込んで出撃し始めた。それが二日前のことで、今はもうその母艦、城下街の真ん前まで来ていて、残った真面目な赤軍たちと抗争してる……そんな状況」

「戦争か……」

「そういうこと」

 ディノは言うだけ言うと、腕にぶら下げていた何かを俺の前に放り投げた。ドサリと中身の詰まった袋が床に落ちる音がして、暗がりの中、それが鞄であることを知る。俺は横になっていた体を半分起き上がらせ、床に落ちた鞄に手を伸ばして引き寄せる。見慣れたデザインの古びた鞄。見間違えようもなく、自分の荷物だった。

「捕まった時に没収されてたヤツ。武器までは見つからなかったけど、大事なものならちゃんと入ってたぜ」

 大事なもの。そう言われて、また頭がズキリと痛んだ。

「体調が悪いことに心当たりがある」

 俺は鞄を膝の上に抱えながら、静かに頷いた。

「旦那さん……あれを、見たんだろ?」

 沈黙する。ディノはテディ・ラングヴァイレと親しく、あの状況を知らないはずがなかった。あの時、トラスト領で会った時にも黙っていたのだろう。

 ディノが俺の目の前に座り込み、鞄の蓋をゆっくりとした手つきで開ける。そのまま鞄の中のものを漁り、中から一つの古びた本……日記帳を取り出した。ディノはそれを俺の前に差し出す。

「いい加減思い出してやらないと、一生後悔するどころじゃすまない」

 ディノの表情から作り笑いが消えていた。その眼を見て、俺は以前にハイマートで彼に起こされた時のことをまた思い出した。エッジのことを知らない、と俺が口にした時に、それを聞いたディノは驚きながらもどこか軽蔑するような眼で俺を見ていた。今のそれは、あの時のものと同じだった。

 俺は手帳を受け取った。ディノに懐中電灯の光で手元を照らしてもらいながら、一枚、一枚、よれよれになった紙のページをめくっていく。自分らしい几帳面に整列した文字で書かれた、毎日の日記。記憶を取り戻してからは不要になっていたが、それでも何度か開いて見直すことがあった。それは決まって、エッジ・シルヴァという人物のことを知りたいと思った時だった。今も、同じ状況だ。

 

 最初に出会ったのはラムボアード。記憶喪失になったうえ、国王暗殺の濡れ衣を着せられてウルドと一緒に国外逃亡した先で、彼に出会ったらしい。初対面の印象については特に書かれていない。それどころじゃない一日だったから、仕方ないことだろうと思う。色々あって……本当に、色々あって……その後に再会したエッジは、俺に旅の同行を提案してきた。行く宛がなかった俺は彼の誘いを受け、そうして、ディア・テラスたちの旅に加わった。龍探しなんていう荒唐無稽な話は当時の何も知らない俺にとっては笑い話のようなものでしかなかったが、まさに自分自身が龍であると知っている今となっては恐ろしいこともあったものだと思い返せる。

 ラムボアードを出発してからは、しばらく旅のリーダーであるディア・テラスの気まぐれに振り回されながら大陸の北西部を見て回った。そんな中でたまたま立ち寄ったのが、アシミナークの森。ここで俺たちは謎の生物と邂逅して、それが逃げた先の湖で……何かがあったらしい。恐らくこれは小規模な世界改変。龍であり、神性を持つ俺が何らかの状況で命を落とし、それを修正するために起こったものと推測できる。結果、蘇った俺はまた記憶を失った。

 それにも関わらず、この時はエッジ・シルヴァのことだけは覚えていたと、大きな文字でしっかりと書かれていた。なぜなのかは、エッジがレトロの息子であることを知っている今ならわかる。世界改変とは神性を持ったものには比較的鈍く作用する。通常は発生したことすら認識できない改変を、神性を持ったものが認識できることを同じように、本来欠落する記憶が特別な理由を持ってその場に残ることはままあることだ。その時は、そういうことが起きた。

 記憶を喪失して途方に暮れていたであろう当時の俺が、エッジ・シルヴァというただ一人の認知できる存在を眼にした時の反応については……不思議と何も書かれていなかった。

 アシミナークを出た後に向かった場所は、ペルデンテの国境砦。そこでラングヴァイレが俺とエッジの前に現れて、アルレスキュリア城に来て欲しいと言われた。強引な流れでディアたちとの旅を離脱し、二人でラングヴァイレのフライギアに乗ってアルレスキューレへ帰還する。城に帰ると……そこでイデアールと再会。日記帳には当時の俺から見たイデアールの悪印象がここぞとばかりに書かれていた。その後の城内で生活する日々についても、エッジ・シルヴァに対する心配事と、イデアールへの悪態ばかり。自分のことはほとんど書かれていなくて、それほどまでに俺にとってエッジの存在は大切であったように見える。

 そして、あの夜の話が書いてある。顔を合わせて早々に上の空であったエッジが、徐々に力を失うように静かになり、ついには俺の目の前で涙を流し始めた。何があったのかとどうしても聞き取りたい気持ちを必死に押さえこみ、彼の心が少しでも落ち着いてくれることを祈るようにしながら傍らに寄り添った。けれどその内に、自分がいる限りエッジが泣き止まないであろうことに気付いて、俺は彼を一人にして部屋を出た。

 日記帳のページをめくる手が止まる。ここから先の記述には、しばらく、エッジを心配することばかりがつらつらと書かれている。これだけ毎日気にしているような関係であれば、そりゃあ急に「知らない」と言われた時のディノの反応が信じられないものを見るようなものであったことにも納得がいく。

 大切だったのだろう。とにかく、とても、大切で、その気持ちは依存にも近かったことだろう。エッジ・シルヴァという、自分の不安定な記憶を一度でも支えてくれた特別な人が、遠くへ行ってしまうような気がして怖かったのだ。

 この時の俺はまだ、そのくらいだった。何も知らなかった。だから……いや、だから、なんだ? 今の俺は、それじゃあ何を知っている?

 ズキリと、また頭が痛み始める。

 痛い、痛い……それはまるで、俺が彼のことを思い出すことを拒むように、ギシギシと脳味噌の中を締め付けて、動けなくするような痛み。日記帳を持っている手に力が入らなくなり、握力が緩くなった指の間から、古い日記帳がするりとこぼれ落ちる。一度床に跳ねた日記帳はページを開いた状態で静止し、転落した時の衝撃で中に挟まっていたいくつかの紙切れを周囲に散らばらせた。その紙切れの中に……写真が混ざっていた。ディノが懐中電灯の光をその写真の方へ向け、笑う。

「挟んでおいたんだ。見たかっただろ、顔」

 俺は床に落ちた写真を手に取り、じっと、そこに写った一人の人物の顔を見つめる。銀色とも、青色とも言い切れない繊細な色彩を持った長髪を肩まで伸ばした、若い女性。いや、この顔でも男性だと聞いている。白い肌、整った顔立ち、柔らかな曲線を描いた輪郭。エルベラーゼと瓜二つ。それでいて、瞳だけはレトロと同じ、琥珀色をしている。そんな彼が、前を歩いている俺の後ろ姿をそっと見つめている、その瞬間を遠くから切り取った写真。恐らくはディノたちが任務の途中で報告のために撮影したもの。俺が見ていない時の、エッジの表情。

 不安そうな顔色をしていた。それだけで、俺の胸がいっぱいになった。何が彼にそんな表情を作らせるのか考えて、その視線の先に俺がいる様を見て、まざまざと理解させられる。

 写真を見つめる眼の端から、涙が滲み始めた。頭に浮かんできたのは、トラストの領地であるイストリアの王立病院で出会った、あの女性の姿だった。エルベラーゼ・アルレスキュリアにそっくりで、それでいてそうではないことは明らかであるはずの、氷髪の美女。人造白龍……

『人間になりたいなんて、思ってはいけないの』


『あなたは正しいままでいて。全部覚えていられるあなたなら、きっと私たちが死んだ後の世界を光差す方へ導けます』

『まさか……俺にオマエを裁けと言っているのか?』

『いつでも構いません』

『裁くのはオマエじゃない。イデアールの方だ』

『あの人が言う通り、あなたは本当に、優しい人ですね』

 囁くように呟く。花弁のように華やかに染まった桃色の唇が揺れて、何か言おうとして、また閉じる。それから彼女はベッドの中に埋まっていた左腕を引き出して、俺の前へゆるやかに差し伸べた。

 それから二人、手をつないだ。彼女の手は柔らかく、それでいて死者のように冷たかった。戴冠式の時のことを謝り、それにまた彼女は『優しい人』という評価をくれた。

 彼女の瞳が涙に濡れる。泣いてほしくなくて、その涙を無意識に指でぬぐった。その感情の意味を、俺は知らない。

 知らないはずなのだ。

 それなのに、俺は……

 

「エッジ……」

 

 あの時の言葉は全て、エッジ・シルヴァのものだった。俺のために別人を演じてくれていた。それでいて、あの時に見せた涙だけは、恐らくあのアルレスキュリア城の夜に見せていたものと同じもので……彼女は何も言わないことで、ずっと俺を守っていた。

 守られているんだ、俺は。今もまさに。この頭の痛みは、あの人が必死に俺を守っている、その証。

 でも俺は……あんなに切なげな眼をする人に、守られたくなんてない。俺は確かに弱い人間なのかもしれない。それでも、それでも、それでも……守る側の人間でいたい。

 俺は、あの人を、彼女を、彼を、エッジ・シルヴァを……守りたかった。

 救いたかった。

 笑っていてほしかった。

 綺麗な顔で、作りなれない本物の笑顔で、無邪気に、安らかに、笑っていてほしかった。

 大切だったのだ。本当に、大切で。泣いてほしくなんてなかった。

 涙すら清らかな優しい人。本当の優しい人。俺の欲にまみれた作り物の優しさなんかじゃなくて、彼のそれには暖かな温度があった。

 泣かないでくれ。泣かないでくれ。

 そう願いながら……俺はエッジの傍を、ずっと、離れようとしなかった。その涙が俺のせいだと知っていながら。

 

 俺のせい?

 そうだ、俺のせいだ。

 

 思い出した。

 

 思い出した。思い出した。

 全部、全部、全部。

 エッジと一緒に旅をした時のこと。エッジと城の中で過ごした切ない日々のこと。エッジと初めて、あの暗い牢獄の中で出会った時のこと。手を差し伸べたこと。

 守りたかった。救いたかった。救世主になりたかった。

 この小さな命を救いあげることができれば、歪んでしまった世界そのものも救済できると思い込んだ。

 壊したのは俺なのに。彼の父親を殺したのは俺なのに。エッジの人生をめちゃくちゃにしたのは俺なのに。それなのに……手を、伸ばした。

 なんて愚か。なんて傲慢。なんて自分本位で、身勝手な思考。レトロに非難されるのも当然で、結局一緒にいることができなくなって自らエッジの傍を離れたことも当然だった。

 それでも俺は……

 今も、俺は……

 

 エッジ・シルヴァ

 

 見つめる写真の表面に、ぽたりと涙の雫が落ちる。

 ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。視界が滲み、写真の中に写るエッジの姿が涙でぼやける。眼を閉じると、表面に溜まっていた涙が眼の端から一気に零れて、たくさんのそれが頬をつたって流れていった。

「思い出した?」

 横で見ていたディノが声をかける。返事はせず、代わりに俺はしばし黙った後に、日記帳と写真とを鞄に詰め直して立ちあがった。

 手足に付けられていた拘束具は少し力を込めただけで簡単に崩れ落ちる。牢屋の扉はすでにディノが開けてくれている。そうでなくても、鉄格子の檻なんてものは俺には何の意味もない。いつでもこの狭い部屋を出ることはできた。思い出しさえすれば。行く先さえ決めることができれば、俺はいつでも、どこにでも行けた。

 片足を前へ。踏みしめたコンクリートの硬い感触を靴裏に感じながら、檻の外へ出る。

 会いに行かなければいけない人がいる。

 それが今の俺にできる、精一杯だった。

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