記述29 恩恵に与る 第3節
ガチャン と、何かが落ちる音がした。振り返った先にはソウドが立っていた。彼の足元には今まさに落ちたばかりの小さな機械が転がっている。表情は、時が止まったように固まっていた。感情に言葉が追いつかず、何も言えないまま口を一文字に閉ざし、奥歯は噛みしめる。
ポッドから流れ出る白い冷気が機械をつたって床に落ち、足下を白く染めていく。室内は強迫的な沈黙に支配され、誰一人として言葉を発することも、動くこともできなかった。そんな中で、床に落ちた機械が転がる小さな物音がした。ソウドの足が動き、足下のそれを靴先でこずいたのだ。
歩き出したソウドは部屋の中央へ近付いていく。俺の横を通り過ぎ、ポッドの前までやってきて、そして、そっとのばされた指先で冷たいガラスの表面に触れる。手の平でなでるように、緩慢な動作で、何かを確かめるように何度も触れて、それで……
「これが、エッジなのか?」
確認する一言。ソウドの唇が、彼の名前を発した。震えた声色だ。真っ直ぐに目の前に横たわっている、エッジらしき何かを見つめている。釘付けになってしまった視線はどこにも揺れることができず、まばたきもできず、瞼は震え、乾燥した瞳の端から生理的な水滴が滲み出る。
違うと言ってくれと訴える。しかし、ラングヴァイレは首を縦に揺らした。
「この部屋はもともと、人造白龍を研究するために作られたものでした」
人造白龍……それは以前にホライゾニアのアジトで灰軍隊長から聞いた、あの人型兵器のことか。以前の歴史では十年前にグラントールを滅ぼす原因になったという、あの。
「始めは五十年前に死亡したエルベラーゼの肉体を保存するためという名目でしたが、しかしその肉体がどれだけ経過しても劣化せず腐敗しないことが判明した後は、アルレスはこの不気味な死体の管理を神話研究学者のもとへ委ねました。その後は研究者たちの手によって重要な研究材料として扱われ、長い年月が経過しました。その研究の果てに生み出されたものが、人造白龍」
アルレスの研究者はエルベラーゼの死体を機械で補強し、脳死した頭部の代わりに人工脳を搭載することで人造白龍と呼ばれる兵器を生み出した。しかし膨大な力をもった人造白龍の能力を研究者たちは制御しきれず、グラントールにおける実戦投入では暴走を引き起こし、国一つを破壊する悲劇を巻き起こすに至った。
なぜ上手くいかなかったのか。研究者たちは考え、推察する。それは恐らく、神の奇跡が発動する際のとある特性に関わってくるものだと考えられた。アルレスの神話学者たちは、神の奇跡の力の根源は『祈り』だと提言していたのだ。願い、祈り、信じる力によって世界は変わる。それこそが神の奇跡。ならば必要なものとは、不足しているものとは、その祈りを作用させるスイッチのような器官であり、それはつまるところ人間の意思決定能力を管理する大脳を始めとする中枢神経のことであると考えた。人工脳では管理しきれていなかったために暴走を引き起こしたということだ。ならば、次は何を使えばいいか考える。その最中に、アルレスキュリア城にエッジ・シルヴァがやってきた。
中枢神経移植。肉体から脳を始めとした中枢神経を抜き取り、別の体に移植する外科手術。脳の機能、人格、思考力、記憶などをそのまま移し替えるこの行為をアルレスキューレの神話研究学者は『魂の転移』とすら呼んでいた。本来はフロムテラスの発展した技術力をもってしても実現が難しいとされている医療行為なのだが、実現したのは、使用した肉体の両者に濃密な血の繋がりがあり、もともと遺伝子が非常に似通っていたため拒絶反応が最小限に抑えられたためだろうか。あるいは『神の奇跡』による必然的成功。後者の方が説得力がある。
当時、アルレスにやってきたエッジは自身の体に宿る神秘の詳細を調べるために研究所にて検査を受けた。その結果、自分に神の奇跡を発動させる能力が備わっていることを知った。しかしこの力は本来制御できないもので、エッジの脳の働きによって自動で作用し、世界に影響を与えるもの。願えば叶う。祈りが届く。自分の意思とは関係なく、全て実現する。その現実を知ったエッジは過去の自らに起きた様々な悲劇のことを思い出し、涙し、この力を手放すことをなかば縋るような気持ちでもって選択した。
結果が、これだ。
詳細を話し終えたラングヴァイレの視線がソウドの横顔へ向けられる。ソウドはずっと、ポッドの中に横たわる、死体同然になったエッジ・シルヴァの抜け殻を見つめている。物言わぬまま、静かに。
「わかりますか?」
ラングヴァイレがソウドに話しかける。ソウドの視線はエッジの姿を見つめたまま、首だけが横に揺れる。
「無理もありません。ゼウセウト様がエッジ様のことを覚えていらっしゃらないのは……エッジ様本人のご意思によるものですから」
「……エッジの?」
「知ってしまったそうです。あなたがレトロ・シルヴァを殺したことを」
エッジのことを一心に見つめていたソウドの視線が横に揺れ、静かにラングヴァイレの顔の方へと向けられる。
「自分のために記憶を思い出すことを望んでくれたことを喜ばしく思っていました。それは、ゼウセウト様の中に重く残った欠落が無くなり、自由になってほしいが故の想い。だからハイマートに行くことを止めなかった。けれど、本当は止めたかった。思い出したらきっと、またあの時のように自分のことを思って苦しむだろうと思った。それだけは良くない。だから……エッジ様は移植の手術を受ける前の最後の瞬間に、ゼウセウト様の中から自分の記憶だけを抜き取ることを願いました」
祈りは天に届き、報われ、奇跡と化して地に降りて、ソウドの心に一時の自由と新しい空白を与えた。
「それが……アイツの……エッジ、シルヴァの……ねがい?」
ぽつり、ぽつりと途切れ途切れに、小さな声で、ソウドが苦しそうな言葉を吐く。エッジ・シルヴァの名前を呼び、混乱した記憶を遡り、一つ一つ、欠落を埋めていく。
「……ぐっ……」
静止していたソウドの左腕が不意に動き、手で額を押さえる。何があったのか、痛みに苦しむように顔を歪め、体を屈ませる。
「ど、どうしたの、ソウドさん……」
心配したマグナが近付こうとして、それをライフが止める。そうだ、今は安易に近付いてはならない。
「頭が、痛い……いた、い……?」
低い声。呻くように、唸るように、ソウドが苦し気な声をあげる。頭痛、だろうか。痛いのだろう。よほどの激痛なのだろう。彼はそのまま床にしゃがみ込み、倒れるようにうつ伏せになりながら、息を荒げる。
苦しい。苦しい。痛い。痛い。
やがて彼は俯いたままの姿勢で咳き込み始める。ゴホゴホと喉が弾ける音が静かな室内に響き渡る。そしてついには……ごぽりと、黄褐色の胃液を床にまき散らした。
「ねぇ、ちょっと。大丈夫?」
流石に放っておけなくなったウルドが床に這いつくばるソウドへ近付き、腕を伸ばす。肩に手が触れ、名前を呼ばれ、反応したソウドが顔を上げる。今まで見たことがないくらい呆然とした、心ここにあらずといった顔で、ほとんど開ききっている瞳孔の形から、よほどの異常であることが見て取れた。
「……れは……だ……せ、に……」
「……何か、思い出したの?」
ソウドが首を振る。ぶるぶると、まるで拒絶するように言葉を否定する。そのうえで彼は苦渋の滲んだ表情のまま、言葉を吐く。
「何を、まちがえた……?」
「……そんなの、アンタたちにしかわからないよ」
「わからない。わからない。わからない……わからない。じゃあ、なんで、こんなに……」
「苦しいって、バカだなソウド。そりゃそうだよ。だってアンタ、エッジくんのこと、好きだったでしょ」
「…………好き?」
「じゃなかったら、こんなこと……」
ウルドがそう言うと、ソウドは咳き込むことを止めて、動きをまた止める。数分の間沈黙。それから、ソウドは機械の端を手で掴みながらよろよろと立ちあがり、どこかへ向けて……部屋の出口の方へ向けて歩き出した。
「どこ行くのさ!?」
ウルドが止めるために彼の腕を掴んだ。しかしソウドはウルドの手を振り払った。そのまま彼は入り口の扉に手を付けるところまでゆっくりと歩いていき……けれど、そこで力尽き、床に倒れ伏した。マグナが駆け寄って彼の体を助け起こそうとしたが、どうやら意識を失ってしまったらしく、体は酷く重かった。