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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述1 楽園は遥か遠くまで
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記述1 楽園は遥か遠くまで 第1節

 曇った薄紅色の落陽の下を一人で歩いていた。生まれたばかりの夜風と共に、冷たいビルの間を一つ二つと通り抜けていく。どこかに行きたい場所があったはずなのだが、いざこうして家を飛び出してみると目的が見つからないことに気付いて途方に暮れる。

 空が薄ぼんやりと紅に染まった朝。徹夜明けのまま家を出た。もしかしたら外出すること自体が目的だったのかもしれない。そう気付いた頃には群青色の陰が街を覆い始めていた。うっすらと浮かぶ半透明の月を見上げていると、居たたまれない気持ちになる。懐かしい思い出に責められているような、憐れまれているような気がするからだろう。

 丁寧に整備された歩道の脇に立つ街頭に、灯りが点る。薄暗い夜のとばりに情緒を感じる隙もなく、街は夜に向けて静かに姿勢を変えていく。雨が降ったら傘をさすのと同じように、夜が来たら眠りにつくのだ。昼間は聞こえていた人の営みや話声はなりを潜め、代わりにロボット達が工場のラインをせっせと稼働させる音がすきま風のように耳へ届く。それは甲高い金属音。パイプラインの中の流水音。機械のエンジン音。電子掲示板の通知音。

 機械都市フロムテラスでは耳を澄ませばいつでも遙か昔に栄えた先人たちの知恵の鼓動が聞ける。この狭苦しく老成した世界のことを『探求者たちの夢の果て』と呼ぶ知識人のコラムを読んだことがある。言い得て妙だと思いはしたが、なんの解決策も見当たらない風刺小説の一つにすぎないと、笑って放り捨てた。

 フロムテラスは道に迷わない街だ。完成された電子マップに、やたら多い道路標識、全ての道に配備された動く歩道、四六時中働く迷子センターの職員と、衛星軌道上から安全を見守る監視カメラ。全寮制の学校教育も、栄養士が決める毎日の献立も、誰かが困らないためにある。

 だから俺たちはすれ違う人と会話せずに生きられる道を選べるようになっていった。俺たちは俺たちの思う美しいものを守るため、人と心を通わせれば生まれる煩わしさを否定する。暖かな情愛。手を伸ばせば届く所にあるソレを、都会の電子の海に沈めて目を逸らす。見なかったことにしたいわけではない。醜いと拒絶したかったわけでもない。きっとただの怠惰だ。

 でも、たまには優しいものを求めることだってあるさ。苦いお茶と甘いお菓子を一緒に食べたくなる時みたいに、愛情という欲深い海の底に身を沈めたくなることもあったんだよ。昔はね。昔だよ、ずっと昔。でも実際はほんの二、三年前の自分のことだったかな。

 溢れかえる群衆の中からたった一人を選ぶだなんて、疲れるだけだろう。子供の頃に憧れた友情も愛情も案外大したものではなかったし、脆いうえに手のひらには馴染まない。ほんのりと感じる虚しさ、不甲斐なさ、物足りなさはゴミ収集車に積んで焼いてもらった。そのはずなのに、まだ心の中には何かがカビ屑みたいにこびりついて残っている。どうすれば自由になれるのだろう。二十三歳の誕生日を越えた今更になっても、まだ答えが見つからない。

 無意味でも止められない足を、前へ、前へと進めながら、ぼんやりと考えるのは未来のこと。これから俺は、どこへ行けばいいのだろうか。

 今日は久しぶりに貰った休暇の日だった。

 来る日も来る日も公務と称し、家にも帰らず書類の文面や電子データと向かい合うだけのルーチンワーク。それはふと正気に戻れば人生に嫌気がさすほどつまらないもので、そもそも飽きっぽい性分の俺には始めから向いていなかったように思える。一口に言えば刺激が足りない。生き延びるためならこんなことでもやらなきゃなぁ、なんて真面目に向き合っていたあの頃の気持ちは何だったのだろう。

 そのもっと前は「嫌だ」「面倒だ」と、親の薦める政治や国務の仕事から逃げていたこともあったっけ。もはやそんな過去の自分にすら若さを感じてしまうのだから、心も体も、随分成熟してしまったものだ。感慨深いことこのうえない。

 とはいえそんな俺も世間的にはまだまだ若造のはずだから、こんな話を誰かにすれば「まだまだこれからじゃないか」と笑われてしまう。人生踏んだり蹴ったりというヤツだろうか。自分の境遇に文句を言うつもりは無いけれど、人と比べられるとチクチクとした痛みを感じる。俺は何故こんなにも急かされてばかりなのかと、できれば忘れていたかった悲哀の情が胸の内から溢れ出る日も、確かにあった。今の気分としては、わりとどうでもいいことではあるが。

 ああ、忘れよう。遊びの金ならいくらでもあるのだ。数年前の俺ならほんの少しの小遣いだけでも夜通し遊び惚けていられたではないか。何処にでも行けばいい。できれば遠くに行きたい。そうだろう。ずっと遠くへだ。

 そんな風にロクにできもしない虚しい皮算用を頭の中で繰り返しながら、もう一度空を見る。いつもとなんら変わりない夕暮れが広がっていた。

 早く明日がくればいいのに。

 ここから逃げ出したい無意味な焦燥感が、俺にそんな言葉を押し付ける。前向きすぎるのはただの罪だ。

 溜息を一つ吐いた後、ふと周囲の街並みから人影が消えていることに気付いた。遠くまで歩き過ぎたのだろうか。後ろを振り向くと人が行き交っていたビル群が、ずっと遠くの方に霞んで見える。時々見かけるのはどこにでもいる警備員とか巡廻ロボットくらいなもので、他には誰も。警備員たちは、ぶらぶらほっつき歩いているだけの若い男の姿になどさほど今日がないようで、黙々と決められたルートを行ったり来たり歩き回っている。

 今いるここは倉庫街だろうか。珍しく馴染みのない景色に遭遇してしまい、戸惑いながらも心をわずかに躍らせる。どこにあったか見つからなかった子供心が急に刺激され、気付けば警備員の眼を盗んで立ち入り禁止の柵を跨いでいた。一度だけ振り返ると、こちらに気付かず路地を通り過ぎる警備員の後ろ姿が、どんどん遠ざかっていくのが見えた。

 少々の不安を感じて「そろそろ帰るか」と何となく口ずさもうとしたが、なぜか声が出ない。それでもう帰宅することなんてどうでも良くなって、後戻りをしないことを決めた。理由なんて特にない。行き先の無い夜の散歩に楽観的でいられるのは、この都市が体感よりずっと小さくて狭いことを知っているからだ。

 いつかの昔に今はどこかへ行ってしまった友達と二人で『冒険』と称した家出をしたことがある。子供だった俺は好奇心に胸を弾ませながら夕暮れの後に窓から飛び降りた。小さなリュックに色々なものをたっぷりと詰め込んで、お気に入りの靴を履いて、たった一人の旅の友の手を握りしめて、電飾が照らす色鮮やかな夜闇の真ん中を走り抜けていった。

 少し走ればそれだけで既知の世界は流れ消え、見るもの全てに好奇の眼差しを向けられることに歓びを感じた。大きな子供の瞳を輝かせ、大事な友達の手のひらの温もりに安堵を感じながら小さな冒険を楽しんだ。ほんの少しの勇気を胸に、もっと遠くへ、もっと遠くへと走り続けた。もちろん休憩しながらね。どうしても自分の足で走りたいと駄々をこねて友達を困らせたのは、自分の可能性を信じていたからだ。

 よく覚えているよ。いつもは見るだけだった森林に入ってみただろう。小さな水道橋の上を駆け抜けていっただろう。知らない人の住む建物の横をいくつもいくつも横切っただろう。夜に住む人に出会ったのは初めてだったか。本当の夜の光を浴びたのも初めてだったか。夜の街で呼吸をするのも初めてだったか。

「あれがぼくらの世界だ」

 真っ黒の空を指差して無邪気に笑った。

 幼い自分が暮らしていた領域を、ほんの少しだけ越えた先にあった丘の上。俺たちはそこで世界を見下ろした。広かっただろう。だから期待に胸を高鳴らせ、もっと見たいと急かす足を止められなかった。

 色んなモノを見て、触って、語って、歩いて、走って、転がるように駆け抜けて。

 楽しかっただろう。だからこそ……次の日の夕刻に、いつもの公園に辿り着いた時の気持ちを、なかなか忘れられないままでいるのだ。

 二人は真っ直ぐに、もう二度と帰ることはないんじゃないかと真剣に悩むほどの覚悟で家を抜け出した。なのに、その旅路の果てにいつもと変わらぬ風景へ帰ってきてしまった。そこからはずっと、見知った景色。

 俺たちが生きるフロムテラスの敷地が、大人の足なら半日で一周できる程度の広さしか持たないことなんて、子供が知ってはいけないことだったんじゃないかな。

 どうして同じ景色の中に帰ってきてしまったのか分からなかった二人は顔を見合わせ、首を傾げながら誤魔化し混じりにはにかんだ。小さな二人の世界は、どこまで行っても小さいままなのかもしれないと謝る俺に「それでもいいよ」と言ってくれた君の優しさに、生まれて初めての悔しさを感じた。

 それから当たり前のように家へ向かい、窓から部屋に戻り、かなり大袈裟に騒がれてからいつもと同じベッドに潜り込んで眠りについた。そうしてまた次の朝と出会う。

 二人の子供の最初で最後の冒険は幕を閉じた。あの時の思い出は、今も心の奥底で炎となってチリチリと照り続けている。こうしてたまに行く宛ても無く街を彷徨いたくなるのも、この思い出を忘れられずにいるからかもしれない。いくら歩いても視界を覆い続ける日常。残酷だと思いはしないか。だとしても、変化が欲しいなら前へ進むしかない。

 シャッターだらけの倉庫街を通り抜けると、草花の茂る植林地帯に迷い込む。空はもう真っ黒だ。

「暗いな……」

 まだ街灯が幾つかあった倉庫街と違い、林の奥には光が何もない。こんな所を灯りも無しに一人で意味なく徘徊するなんて正気の沙汰ではないのだが、多分今の俺は正気ではないので突き進む。

 木々の間から差し込む僅かな満月の光だけを頼りに、何度か足をもつれさせて転びそうになりながら歩き続けた。さっきよりもずっと冷たさを増した夜風が頬の横を切り裂くように、びゅうっと通り過ぎていく。バラバラとなびいた髪を手で押さえながら、強風に耐えるべく目を瞑る。その目をもう一度開いたら、真っ暗な夜の林のずっと向こうに蛍火のような人工の光がポツリと灯っているのが見えた。

「不思議な人だ」

 思いの外すぐ近くにいた誰かが俺に向かって声をかけた。

「光というものは、見ていれば目を傷めるものだろう」

 しわ枯れた老父の声だ。

「光?」

 立ち止まり、声がした方をじっと見つめていると、その光は徐々に近づいて来る。やがて太い木の幹の間から、ほっそりとしたシルエットの老人が、たった一人でポツリと現れた。

 外見の老衰ぶりにそぐわない凛とした立ち姿だ。体中をボロ布みたいな服で包んでいるが、みすぼらしい印象はあまりなく、むしろミステリアスな魅力をたっぷりと身に纏っていると思う。服の隙間から僅かに垣間見えた真っ青な光が彼の瞳の色だと気付いた時、この人は只者ではないんじゃないかと、妙な期待に胸を躍らせてしまった。

 浮浪者然とした恰好をした見ず知らずの老人が、人を惹きつける強い力を持っている。そのギャップが心に響いたからだろうか、俺は老人が放つ次の言葉を静かに待ち、その一言一句に耳を傾けようとした。

 老父はぼやくように言葉を溢す。

「陽光は我らの生きる道の上に無くてはならないものだろう。それが例えこの身を焦がす灼熱の塊に過ぎないとしても、炎熱があればこそ我らは闇ばかり続くこの世界を自由とともに徘徊できる。陽の光を恐れてはならない。そして私は貴公の中に光を見た。ならば貴公は多くの光を見聞きするべきであろう」

 俺は声に出して尋ねた。

「この世界には、別の色の陽があるとでもいうのですか?」

 老父は答える。

「そうだとも」

 不躾な会話の成立。くつくつと喉を鳴らす音が聞こえる。

「それは遠いのですか?」

「ああ、遠いよ。私には」

「そんなものがあるなら、俺にも見せて下さい」

 ふと零れた言葉は正直で、こんな俺の毎日を掻き乱すには十分なものだった。恐れを飲み込み、久しぶりに訪れた童心の果てに見た夢物語みたいな光景に気をよくした。

 心の奥底からふつふつと湧き上がる好奇の心にどっぷりと浸かれば、老人の目はますます青く輝いて見えるのだ。

「私の名前はアデルファ・クルト。この地の門番である」

「俺は、ディア・テラス……公務員をしている若造です」

「青年ディアよ。貴公に世界をお見せしよう。それが汝の世界の終りであり、真理であり、始まりである」

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