記述28 定命のその先へ 第5節
「それで、元の世界へ戻ったら、まず何から行うのですか?」
盤上に配置された駒を手の平で崩しながら一か所に集める動作をしながら、ラグエルノがたずねてくる。俺はその手の動きを見つめながら考え、答えてみる。
「まずは……エッジくんに、会いに行きます。全部はそれからのことだと思うので」
するとラグエルノの手が止まり、盤上に向けていた相手の視線がこちらの方を見る。
「そのエッジとは、どういったお方なのでしょうか?」
この世界のラグエルノはエッジ・シルヴァのことを知らない。そりゃあ、ブラムも知らないことだったのだから自然なことだろう。
教えるべきか否か。ブラムは……エッジのことを知った時の彼女は、エッジを殺すべきだと俺たちに言ってきた。迷いのない、第三者から下されることで与えられた真っ当な提言だ。世界の秩序を支配するものに不穏な影が落ちているというのなら、正すべきなのだと彼女は言った。そして今目の前にいる神様も、同じことを言うのだろう。
わかっているのならば、少しでも違う答えが出てくることを期待して教えてみても良い気がした。俺は少々の黙考の後にラグエルノにエッジ・シルヴァという人物が知り合いにいること、彼が人間であった頃の時空龍の実の息子であることを話してみた。するとラグエルノは納得して言う。「その人物こそ、現在のウィルダム大陸を支配する神に違いない」
さらに忠告する。
まず、この世界が現在滅びに向かって進んでいるのは、世界を守護すべき神が恵みを与えることをやめてしまったから。怒り故か、悲しみ故か、そもそもそんな感情がかの存在にあったのかも今となってはわからないけれども、とにかく神はこの世界を見捨てることを選び、全てはその意に従い滅び去る運命を強いられてしまった。
「すでに滅びの直前にあったラグエルノ大陸を、わざわざ別時空のウィルダム大陸と融合させた真意も、神の失意と破滅願望によるものだったことでしょう」
「でも、実は俺、未来の世界の中央雪原でその時空龍と会って会話をしたことがあるんです。世界改変の力を持った時空龍はそもそも殺されていて、もうこの世にいないはずなのに」
「なぜ殺されたことを知っているのですか?」
「それは……少し前にバスティリヤで出会った、ステラという少女から聞きました」
「ステラですか……なぜその人物がそんな次元の話を知っているのかは知りませんが、確かにその通りです。しかし、現に時空龍は死後も各所に出現している形跡を残しています」
「どうして……」
「私の推測では、ラムボアード大渓谷の底、あそこが怪しい」
「え? そこなら、俺も行ったことがあります」
「何がありましたか?」
「……」
「アルレスキューレの民はあの場所に細断したレトロ・シルヴァの死体をばら撒いたとされています。これは事実で、だとすれば……誰かがその死肉を集めて埋葬してしまったのでしょう」
「埋葬されると何かが変わるんですか?」
「はい。神は信仰を得るからこその神。故にこの世に少しでも神を心の底から神として敬意を持って扱うものがいる限り、何度でも蘇ってしまいます。それこそ神の本位すら超越して作用するこの世の摂理です」
思わず後ろで話を聞いているアデルファに問い詰めたくなったが、ラグエルノの手前、何が起こるかわからないため、今はやめておくことにした。
「ですがディア・テラス。私が今話したいのは、もはやすでにこの世界を見捨てた時空龍ではなく、その後にある、継承者の方です。それこそ先程貴方が教えてくれたエッジ・シルヴァに違いありません」
「エッジくんが、神の力を継承しているって?」
ラグエルノはうなずく。そして言う。
「よく聞きなさい。今世界が破滅の一途を辿っている理由。それは、現在この世界の支配を任されている継承者の状態が、酷く不安定であるためだと考えられます。これはもう、いつ自暴自棄にかられて暴走しだすかわからないくらい。世界とは神の意志一つで簡単に覆され、滅び、無かったことになってしまいさえする。ですが、この世界であるウィルダム大陸にとって、その滅びは時期としてあまりに早すぎて、誰にとっても良くはありません。これを私は阻止したいと思っています」
未来の世界で初めて出会った時のブラムと交わした会話を思い出す。
『世界の均衡を脅かす災厄の権化』『止める方法は無いんですか?』『殺せばいい』
ラグエルノは、やっぱりあの時のブラムと同じことを言っている。
「時が来るのは早い。いつになるかもわからない。だからこそ、できることをしなければなりません。ディアにはそれが何なのか、わかりますか?」
首を横に振る。ラグエルノはそれを見て、目を閉じる。
「この世界の……ウィルダム大陸の名を持つ本来の支配者を見つけなさい。真なる主、それは未だ全てが謎に包まれた、微睡みの神、守護龍ウィルダム。この大陸に時空龍が干渉するより遥か昔、時の流れ始めから世界を支配していた存在。その守護龍ならば、きっと世界を正しい方向へ導くための力を持っています。そして、もしも貴方がそのウィルダム龍を見つけることができたのならば、もう一度この場所へ……ラグエルノ龍が眠るグラントールの地の底へ来てください」
「ですが、あなたが封印を望むのは自身の死のためだと言いましたよね?」
「つまらない文句を言わないでください。私は罪人ですが、心の芯まで悪に染まった覚えはないということですよ。悪いことしかしたくないわけではない。世界寿命の正しい在り方……それは本質的に美しいもので、私にとっては実に好ましい均衡状態と言えるものです。昔々に伝わる物語。神が創り出したこの世界。しかし……世は終焉の時であり、再びこの地が神の手により蘇ることはありません。そんなことは、あってはならない。阻止するためならば、一時の目覚めとともに力を貸してあげることも、やぶさかではないと、約束しましょう」
「……え?」
ふと改めて、ラグエルノの顔を見る。黄金の輝きに、美しいエメラルド色の光を持つ双眸を持った、華々しい立ち姿のラグエルノ。それを確認してから、俺は後ろを振り返り、アデルファの方を見た。
何も気にしていない様子でいる。仮面のように大きなゴーグルのせいで表情は読み取れない。ラグエルノと俺の会話が止まったことに気付いて、少し反応したように見えたが、たったそれだけの変化だった。ラグエルノの言葉に対して何か思ったような様子は少しもない。
でも、確かに今の台詞は……旅立ちの前にアデルファから聞かされた、あの龍の言葉の一片に似ていた。あの時アデルファが出会ったと言っていた龍は確か、黄金の輝きを持ったラグエルノ龍。でも、これって……
「どうかしましたか?」
ラグエルノの会話から脱線するように視線を動かした俺を不思議に思ったトラストさんが、声をかけてきた。
「ねぇ、トラストさん。小結晶をアデルファさんに渡してみて欲しいんだ。あの人と、話がしたい」
「わかりました」
トラストさんは言われた通りにアデルファに小結晶を渡す。その様子を見て、彼が俺の姿を視界に入れたことを確認してから、声をかけてみる。
「あの……アデルファさん」
「何か御用でしょうか?」
素知らぬ顔だ。けれど、このタイミングで俺が自分に関心を向けてきたことを不思議に思っているようには見えなかった。
「せっかく目当ての龍に出会えたんだから、あなたも何か会話することはありませんか?」
「いえ、私は存在を確認できただけで十分なのですが」
「そう言わず、こちらにもっと近付いてみてくださいよ」
「ふむ……」
遠目に俺たちの様子を見ていたアデルファが近付いてくる。
すると、今までずっとトラストさんやアデルファにさほど関心を持っていなかったように見えていたラグエルノが、アデルファの顔を見る。
「貴方はアデルファ・クルト。かの末裔、クルト家の者ですね」
「末裔?」
耳慣れない言葉を聞き、思わず口に出してたずねる。
「はい。今のクルト家は自分たちの歴史のことをほとんど忘れているようですが、彼らの一族には古来より続くとある使命がありました。それが……」
「守護龍ウィルダムの巫女として、かの存在の御意志を伝えること」
アデルファが答える。
「おや。貴方は知っているのですね」
「はい。先祖返りと言いますか、突然変異と言いますか……私には昔から、赤龍の巫女の力が備わっていました。女性ではないですし、今の時代にこのような抽象的で原理不明の能力を与えられたところで、信じてくれる者などほとんどいませんが」
龍の声が聞こえるという、彼が預言書にしたためていた身の上話があった。『物心ついた頃から、不思議な声と共にあった』、と。
「龍よ……美しき黄金の輝きを纏う龍よ……貴方は、私の主ではありません。私が生涯の愛を誓った彼女ではありません。ですが、それでも、私は貴方にお会いできたことを喜ばしく思います」
「アデルファね……私には、貴方がどのような人物で、どのような縁があって私の前へ辿り着くに至ったのか、まるで見当がつきません。なにせ、貴方は赤龍の支配下にある者。私の持つ全知の能力における、数少ない観測範囲外の存在です。その赤龍の巫女たる力が実際にどのようなものであるかすら、私は知りません」
「全てを世界そのものから教えてもらえるだけの力です。しかしそれは、貴方の力のように詳細いで明朗な情報としてではなく、感覚として、ぼんやりとすらも形のない概念として伝わってくるだけのもの。それを私は言語化し、書物にして形に残しています。例えば……」
『 龍に出遭え 真の龍に
全てを知るもの 全てを得たもの
もしこの世の生ある者が龍に出逢えたならば
私は世界を もう一度救ってみせよう
此の地の上で この世の全てを捧げると
契りを交わそう 汝らに一時の安息の地を 』
「それは……?」
ラグエルノが怪訝に首を傾げる。
「本来ならば、貴方がそこにいるディアに伝えようとしていた言葉です。ですが、それはかつて、かの世界線では私に言い伝えられた預言でした」
「世界線?」
「ディア・テラス」
「な、何ですか?」
「貴方がこの世界に来たことで、本来の歴史の流れが切り替わったことには、もう気付いていらっしゃいますよね」
歴史が、変わる……?
「この世界を支配する全なる存在、時空龍の能力の本質はタイムパラドックスに似ていると表現できます。今こちらの世界に元来存在しなかったはずの貴方の魂があって、それにより何かが少しでも変わったとするならば、それは神の奇跡の具現であり、発露であると言えましょう」
「アデルファさん……もしかしてそれを、最初からずっとわかってて、黙っていたんですか?」
「……だって、私が話していたら、また別の変化が起きてしまうでしょう? それは良くないことだと思いましたので」
「変化って……つまり、俺は」
「これから、先の会話の通りにラグエルノ龍を封印して元の世界に戻ったところで……その世界にはどのような『改変』が起きていることでしょうね」
絶句する。それを、他でもない自分自身が起こしてしまっていたことに驚き、体中の血が引いていくような心地がした。
そんな俺の動揺に構わず、アデルファは言葉を続ける。
「いいですか、ディアよ。私はこれから生涯をかけて何冊かの預言書を書き上げます。その内で最も重要な意味を持つ物。この生命の最後の一瞬までを書き記した、最も特別な一冊を、貴方に授けます。それはきっと、元の世界に戻った後に自然と貴方のもとに届くことでしょう。私と貴方がかの最果ての都市で出会い、未来の話をした時と同じように……この運命を祝福しましょう」
そして……
不意にだ。アデルファの手の中に収まっていた小結晶が光を放ち始めた。
「アデルファさん?」
異変を感じて名前を呼ぶ。彼の顔を見る。素顔を覆い隠した彼の表情はまるで読み取れない。けれど声には、どこか楽しげな感情が感じ取れていた。
ラグエルノが身を乗り出し、声を上げる。
「お待ちなさい! 貴方、まさか今すぐにその小結晶の力を使うつもりなのですか!? そんなことをすれば、どんな世界改変が起きるかわかったものではありませんよ!!」
ラグエルノの澄ました表情に焦りが滲む。
「いいえ、これで良いのですよ、ラグエルノ龍。我が主はいつだって、世界の未来が明るく照らされる方向へと我々を導いてくださいます」
「理屈がさっぱりわかりません!」
「トラストさん、あの人を止めて!」
俺は隣に立つトラストさんに助けを求めるが、今の彼は小結晶を持っておらず、意思疎通ができないことに気付かされた。それでもラグエルノとアデルファの異様なやり取りを前にして何かを察したらしいトラストさんは、俺の声が聞こえていなくても、アデルファの方へ向かい、手の中で光る小結晶を取り返そうとしてくれた。
走り、近付き、手を伸ばす。しかしそこで、
「おっと、危ない」
パンッ
と、乾いた音が静かな空間内に素早く通り過ぎた。
何の音なのか、すぐにはわからなかった。
アデルファの体にもう少しで届きそうな距離にあった、トラストさんの動きが止まった。そして、その体がゆったりとした動作で崩れ落ちる。床に伏した彼の体。その奥に見えたアデルファの左手にはいつの間にか拳銃が握られていた。
「トラストさん!?」
俺はトラストさんの側まで急いで駆け寄った。床に俯いた彼は胸に手を当てているが、その指の隙間から赤い血がたらたらと流れ出ているではないか。
撃った? アデルファが、部下であるトラストさんを?
「アデル、ファ……?」
トラストさんが目の前で拳銃を握る上司の顔を見上げる。
「死ぬような箇所は狙っていませんので、ご安心ください」
「どうして、こんな」
痛みに耐えるトラストさんの代わりに、俺自身がアデルファに訴える。
「すでに宣言した通りでしょう。全ては、我が主の御心のままに」
アデルファは見えない表情の端で微笑み、手の平の上でころころと小結晶を転がす。すると小結晶の光が強まり、彼の手の中で眩しいくらいに輝き始める。力を使うつもりなのだとすぐにわかった。一体何に?
彼が何を言っているのかさっぱりわからない。彼が何をしようとしているのかわからない。
何が起きているのか、何が正しいのか、何が悪いのかわからなくなってきた。
その一方でアデルファの手の中に収まる小結晶の輝きはどんどんと増していき、辺りが眩しいくらいに照り返っていく。
「何が、何が目的なんですか、アデルファさん!!」
叫ぶような声でもってもう一度追及をする。すると今度は気まぐれ故か何なのか、アデルファは答えを口にしてくれた。
「私の全ては私が愛するウィルダム龍のため。あるいはこの大陸の滅びなく明るい未来のため。私は私の愛するものにとって、日夜哀しみにくれた歌を紡ぎ続ける愛しき龍にとって、最も正しく、最も良いとされる選択を取り続ける。それがどれだけ途方もない所業であろうとも、どれだけ多くの悲劇を齎すとしても、構いはしません。私は私が愛した神のために、この身を捧げ、魂に誓って行動をするまでのこと」
瞬き、輝き、暗闇に沈んでいるはずの大穴の底に光が満ちる。
いけない、と思った。このままでは俺はこの状況下で何もしないまま、現世に帰ってしまう。そう直感した。
「トラストさん!!」
傍らにいるはずの彼の名前を呼ぶ、眩しくてほとんど何も見えなくなった視界の中で、傷付いたトラストさんの姿を探す。けれど返事がない。彼は今俺の声を聞くための小結晶を持っていない。
そんな、そんな。このままお別れなんて、あまりにも……
「そうですね、ディア・テラス。貴方には最後に一つ預言を残しましょう」
満ち満ちていく光の中、アデルファの抑揚のない平坦な声が怪しいくらい真っ直ぐに鼓膜を震わせた。
「預言?」
思わず問いかける。これ以上何をするつもりなのかと、やめてくれと、半ばすがるように声に耳を傾ける。
「貴方はいずれ、神の座に手を触れ、世界を導く救世主になることでしょう。だからこそ、私はあの時、貴方に声をかけたのです」
初めて会った時のこと。けれどそんなことを、どうして今? 何のために?
「では、また未来でお会いしましょう」
そう言って、小結晶から発される極彩色の光が一際強まり、全てをまっさらに照らし上げた。
それが最後。俺の意識は何も無い世界に放り出されるように宙に浮いて、それから、小さな結晶が硬い岩盤の上に落ちる コツン という軽い音だけが聞こえてきた。
世界に、光が満ちていく……