記述28 定命のその先へ 第4節
「ディア・テラス、まず始めに貴方の知識を計りましょう。貴方は……このウィルダム大陸を取り囲む外海の向こう側に何があるのかご存知ですか?」
指先につまんだ小さな駒を盤上の別の場所に移動させながら、ラグエルノが問いかける。一つ動いた盤面に目を落とし、頭の中で次の一手について考える。その一方で会話の返事もしなくてはならない。
「一番右の四角い駒を、左上に三つ」
俺の代わりに対局の席に立つトラストさんに指示を出す。駒が動き、再びラグエルノへ番が回る。
「グラントール人のように、海の向こうからこの大陸へ移住してきた者たちのことを、アルレスキュリア人たちは『アブロード』と呼んでいました。だから、海の向こうには俺たちが知らない別の大陸があって、違った文明が息づいているんじゃないかなと考えています」
「それは間違いです」
駒が動く。番が変わる。
「今から百年ほど前にあったグラントール人の大移住以来、海の外から人が流れ着いたという出来事は一度もありません。これは事実。さて、何故だかわかりますか?」
黙ってラグエルノのエメラルド色の瞳を見つめ返す。それから首を横に振る。ラグエルノは口元に笑みを浮かべながら答えを述べた。
「滅びているからです。何もかも。何もかも。花も川も、土も水も、人も生命も、何一つありはしない。あるのはただ、終わりだけ。世界の果て、大陸の反対側は太陽の光も届かない真っ暗闇、ただそれだけ」
「そんなわけは……」
「無いと言いたいでしょうね。ですが、これもまた事実。貴方は今恐らく、データベース上に蓄積されていた過去の情報や、アルレスキューレの図書館かどこかで見た蔵書のことを思い出していることでしょう。残念ながら、それらは全て、ダミーです」
駒を動かす。今度は相手の番。楽しそうに訳知り顔で会話をしていたラグエルノは俺の一手を見て「ふむ」と口を紡ぎ、顎に手を当てる。
「ダミーって……もしかして、世界改変の影響か何かがあってって、ことですか?」
「聡いですね。その通り」
ラグエルノは盤上の駒の一つに手を伸ばし、動かそうとして、何を思ったか元の場所へ戻す。それから、もう少し考えましょうとばかりに手を引っ込めて、話だけ続ける。
「タイムパラドックス……と言うそうですよ。この世界を支配する神の奇跡の原理とは」
タイムパラドックス。別の言い方をすると、時間の逆説。タイムトラベルという、時間移動を行った際に生じる矛盾的問題のことを示す、少し奇妙な学術用語。時間移動をした先で何か行動を起こした場合、その影響が時間移動を行う前の世界にどのように生じるかということを議論するための言葉である。しかし、実際に時間移動に成功した人などこの世界には存在しないため、思考実験の域を出ることはまず無いとされている。
「しかし、実際に時間移動を成功させている事例がここにあるとしたら、タイムパラドックスも現実的な問題となってくる。そうでしょう、ディア・テラス」
ラグエルノが駒を動かす。今度は迷わず、真っ直ぐに。俺の番になり、思考が空いたラグエルノはさっきよりもさらに饒舌に言葉を紡ぐ。
「この世界は改変を繰り返している。ならば、想像してみてください。とある人間一人、とある建物一つ、とある国家一つが消滅する規模の改変があったとして、それぞれはどれほどの領域に及ぶ矛盾的問題を発生させるのか。もはや、膨大としか言葉の表現のしようがありません。しかしながらこの世界では、その改変をウィルダム大陸以外の全ての消滅として実行しています。故に、整合性を保ちきれなくなった現実は、矛盾を矛盾としてそのままの状態で放逐せざるをえないまでに、追い詰められてしまった。処理しきれていない。それが一冊の図書館の本などにも如実に現れている。本には例えば、大陸の外にある植物の生態などが書いてあるかもしれませんが、そんなものは現実には存在しません」
「ですが、古いアブロードたちの記憶は故郷の景色を語り継いでいるはずです」
「改変とは人間にも及ぶものですよ。彼らは記憶を、存在を、過去を弄り狂わされている。正しい過去を観測できる存在なんて、この世界にはそう多くないのです」
アルレスキュリア城で見た大規模な世界改変の瞬間を思い出す。その後の住民たちの、あまりにも早い変化への適応のことも……改変の際に消滅してしまった人や物のことなど少しも気にとめず、空が青くなったという変化だけを見て、喜びの声を上げていた。それが、俺がこの目で見てきた世界改変の在り様だった。おかしいと思うことを避けるように、禁じるように、人々の思考が何かの強大な力の作用によって操作される。信じたくもないことであるが、自分が見てきたものはそういうもので、今目の前にいる全知の化身が言う言葉もまた同じなのだ。
「もう一度言いましょう。このウィルダム大陸の外には、何もありません。みんな、死んでしまった」
「はい……」
「ならば、次の問いかけがやってきます。さて、外の世界はどうして滅びてしまったのでしょう?」
考えてもわからない問いだった。俺は無言でラグエルノの顔を見つめ、少し迷った様子をわざと見せてから、駒を動かす。ラグエルノは「おや」と、一瞬困った表情をした後に、動いた盤面に視線を落とす。
「何らかの理由があって、滅びたのでしょう。あまりあてになりませんが、皆は世界全体を脅かすほどの巨大な規模の戦争があったと言っていました」
「それも図書館の知識」
「はい。ですので、本当のところは……」
「私が滅ぼしました」
え……、と声が出そうになったところで、ラグエルノは駒を動かし、顔を上げる。何ということはない、ただ真実を口にしただけだとでも言いたげな、涼しい顔をしている。
「正確には、こことはまた別の世界戦に存在する、別の大陸。その名もラグエルノ大陸。それを、私は私の手によって滅ぼしました。そしてその滅びた世界がこちらの世界を支配する神の意図によって、吸収され、同化し、ウィルダム大陸の歴史の大半を作り変えた」
「どうしてそんなことを」
「神の意図と言いました。神は、こちらのウィルダム大陸の寿命が急速に縮むことを求めて、願い、改変を実行した」
「違う。貴方の意図が聞きたいのです」
「私ですか?」
「はい。何故……世界を滅ぼしたりなんかしたんですか?」
「死にたかったからですよ」
「死にたい?」
「ふふっ。手元が止まっていますよ。貴方の番です」
指摘されてから、盤面に視線を下ろす。正直、心境としては全くボードゲームなんてしていられるものではないのだが、この龍の機嫌を損ねるわけにもいかないため、真面目にゲームを続けることにする。
駒を動かすようにトラストさんへ伝え、彼もまたその通りに動く。またラグエルノにターンが回ってくる。ラグエルノは盤面を見つめ、瞳を閉じ、思案する。そうしながら、頭の片隅に残してある思考回路を使って、片手間のように会話を続ける。
「私たちはね、不老不死なのです。不老に不死。老いることなく、死ぬこともなく、つまりは永遠に生きることを続けるより他にない、そういう種類の生命。永遠に、永遠に……考えてもみてください、自分のこととして。考えてみればすぐにわかることでしょう。それは、苦痛でしかありません」
永遠。想像しようとしてみて、できるものではないとすぐに諦めてしまう。それくらい自分にとってはまるで縁のない言葉で、だからこそ、希望と恐怖のどちらとも取れてしまえる響きを持っているような気がした。けれどその永遠の命を持っている当人のラグエルノ龍にとって、この言葉はもっと現実的な意味を持っていて、例えばたった今本人が語った通りに、忌むべき感情を孕んで口にされる。
「故に、私には『死』が必要でした。そして幸いなことに、この世界には不老不死の神が死ぬための方法が二つだけ存在していた。一つは、自分より上位の神格を持った存在に殺してもらうこと。ですがこちらは自分がその世界における最上の存在であった場合、無いも同然となります。ではもう一つは何か。二つ目、それは自らが支配する世界に存在する全ての生命が息絶えた時に訪れる、自然消滅。神は支配することによって成り立つ存在。だからこそ、支配すべき対象が全て無くなれば、自然と役割を失って消滅します。どうでしょう。こちらの方は、よほど実行手段として現実味を持っているようには思えませんか?」
だから私は生きることをやめるために、自分が護るべき世界を滅ぼした。
言外にそう語るラグエルノの表情は静謐で、ほのかな微笑すら浮かべている。そこには怒りも悲しみも、喜びの感情すらも存在しない。ただ、過去に起こった出来事を事実として、淡々と俺に語り伝えている。
一体、何のために?
「神は生きることに疲れ果てると死を渇望し、破壊に走ります。そこに例外はなく、私たちが生きるこの世界以外の無数の平行世界の神々もまた、同じような悩みと苦痛を抱えながら生きています。生きることは、死を待つこと。死の瞬間、それが訪れるまでの間に何をするか、何をしてきたか見つめ、考えること。けれどその時間があまりにも長い生命にとっては、生とはただただ辛いだけ。呼吸をするのが億劫なほど、時間の経過が遅くてたまらないのです。永遠とは、消化できないからこそ永遠。消化できない命なんて、滑稽で堪りませんね? だから、神は何時だって死にたがり。自分が死する瞬間を夢に見て、今か今かと待ち続けながら世界を見つめ続ける。それに疲れた時に、『自殺』について思案する。簡潔に言って、世界寿命とは即ち、神の死への渇望度合いのことを示すのです。世界は神が自殺するのを、静かにずっと、待っている」
語り、伝え、過去を述べる。あの時ラグエルノはゆるやかな死を待つばかりの時を過ごしていた。生命の全てが息絶え、後はもう自分が瞼を永遠に閉じ続けるだけ。そんな中へ、あの黒い霧がやってきた。
黒い霧。黒い靄。黒い闇。滅びたはずの大地を引き裂き、粉々に砕き、全てを暗黒の闇の中へ呑み込んでいく。ラグエルノが自らの世界で最後に見た記憶はそういうもので、我が物としていたはずの世界の全てを突如現れた第三者によって蹂躙され、そして、気付いたらこの世界へ異物として流れ着いていた。
「もう少しで消滅できた……その、ほんの直前での到来でした。絶望したとも。今まで自分が見てきた景色は何だったのか、疑心し、己の存在を見つめ返し、次に、自分が死に損なってしまったことに気付いて、絶望した。そんな絶望の最中、私は衰弱した体を引きずりながら見知らぬ大陸を放浪し、そうして、この深い地下の世界に辿り着いた。静かで真っ暗な、まるで棺の中にいるような闇の中。私はこの深い地下の底でもう二度と目を覚まさないことばかりを祈り続けながら、眠りに付くことを選びました。するとどうでしょう、幾ばくかの時が過ぎ……この地の民たるグラントールの住民たちに発見され、気付けばあれよあれよと彼らの神として祭り上げられるようになっていました」
話の途中、駒が動く。ラグエルノの饒舌な口元が止まり、また思案の時が訪れる。
そこで俺は嫌なことを思いつき、ラグエルノにたずねた。
「もしや、グラントールの人々に生物兵器の作り方を教えたのは、貴方なのですか、ラグエルノ龍」
返答はすぐに返ってくる。
「もしやも何もありません。他に誰がいると言うのですか」
何と言うことでもないように、しれっとした顔で己の罪を薄情する。
「それよりディア・テラス、今の一手は少し姑息が過ぎるのではありませんか?」
「姑息と言われても、そういうゲームですので」
「うむ……」
黙りこくったラグエルノ龍の次の一手を待つ傍ら、頭の中で件の生物兵器についての推測をまとめる。
恐らくラグエルノは自らを信奉するグラントールの民たちに、龍の権能から生じる『情報』を与えることで、彼らの文明を急激に発展させることを企てたのだろう。全ては急激な発展と新兵器の開発、利用による世界寿命の短縮化という目的のために。あえて正しさとは程遠い在り方を示すような言葉をグラントール人に与え、アルレスキュリア人との間に存在する軋轢をさらに大きくするような技術を与え、差別心という加虐的感情を育ませた。滅びのために。自らの死を待ち望むがために。
つまるところ、大層な悪人だ。
今目の前に立ち、盤上遊戯の一手に思案を巡らせているラグエルノの姿をもう一度まじまじと確認する。悪いことなど少しもしていないとばかりの素知らぬ表情。むしろ無邪気で、清廉な印象を受ける、美しい佇まい。背筋をピンと伸ばし、指の先まで丁寧に整えられた、調和と秩序の化身のような存在感。しかしながら、その内には人間ごときには如何とも想像し難い絶望の悪意が籠っている。
恐怖を、覚えるべきなのだろうか。
溜め息のような呼吸を一つ溢したラグエルノが、何かを観念したかのように駒を斜め下へ動かす。
「そんな中へ、貴方はやってきたのですよ、ディア・テラス」
神を殺す二つの条件。その内のもう一つ、自分より上位の神格を持つものによる、死の施し。
最初に顔を合わせた時、ラグエルノは俺に向けて頭を垂れなくても良いと言っていた。
「もしや……時空龍の力が込められた、この小結晶の力を開放すれば、貴方を……殺めることができる、と?」
ラグエルノが頷く。頬を吊り上げ、大きなエメラルドの双眸を細く歪め、綺麗に笑う。
「だから貴方をここへ呼びつけました」
ただ、自分が死ぬためだけに。
「つくづく、自分勝手な人なんですね。ちょっと呆れました」
駒を動かす。ほとんど迷うことなく、自陣営の駒は前へ進んでいく。盤面は極めて優勢。これ以上はよほどのことがない限り負けることは無いだろう。そんな中でラグエルノはもう一度、往生際悪く、駒を隅のマスへ逃がす。今ならハッキリと評価できるだろう。この神は、ボードゲームが下手だ。
「確かに自分勝手です。しかしながら、気を遣わずに全てを投げやりに済ますつもりも、言うほどありません。例えばそう、これからの話をしましょう、ディア・テラス」
「遊戯は続けますか?」
「もう決着はついているではありませんか。好きにしてください」
ラグエルノがそう言うので、俺はトラストさんに声をかけ、盤上遊戯の最後の一手を動かすように言った。盤が動き、相手の駒の数が減り、こちら側の勝利が決まった。ゲーム終了だ。
「……それで、貴方は本当に、このウィルダム大陸の現状全てから目を逸らして、一人で楽々と死を迎えるつもりなのでしょうか?」
「だから、投げやりに済ますつもりはないと先ほど口にしたではありませんか。良いですか、ディア・テラス。私とて自分が死んだ後の世界の変化について、思うところはあります。例えばそう、死後に起きるであろう世界改変の規模や、その内容についてなど。恐らくはグラントール公国そのものが無くなってしまうほどの、巨大な影響を及ぼす改変が起こることは予測できています。滅ぼそうとしていた手前でこんなことを言うのも滑稽ではありますが、できることなら、最小限の犠牲でもって目的だけを果たしたい」
「そんなに都合よくできるものなのでしょうか?」
「譲歩案があります」
「譲歩案?」
「貴方にはその小結晶の力でもって、この世界が滅びるその時まで、私をこの場所に封印しておいて欲しい。どうでしょう、それならば意識の無い私にとっては死んだも同然。世界改変も起きず、諸悪も消え去り、一件落着となります」
「諸悪の自覚はあるんですね」
「あるがままの評価です。それでディア・テラス。貴方には是非とも、この私の願いを聞き届けていただきたい」
「報酬はあるんですか?」
「私を封印したことによって小結晶が力を使い果たせば、貴方は自らの故郷たる時間軸の世界へ帰還することができます。それが十分な報酬と言えましょう」
「報酬と言うか、それ以外に帰る方法が無いんだったら、強迫みたいなものではないですか」
「貴方にはこの世界に留まるという選択肢もあります。どうですか?」
「どうもこうもありません」
そんなものは選択肢に含まれない。
「そうですね……そういえば貴方には、願いがあるのでした」
「……はい」
「『生き延びる』、とは……なんて単純明快で、素朴な願いでしょう。私にはまるで理解できませんが、そういう道の選び方も良いのではありませんか?」
「俺にとってはそれこそ人生の命題です」
「定命というのもまた、難儀なものよ」
「貴方の逆を歩いているだけです」
「なるほど、そう言われれば少しは理解が進みます」
ラグエルノはうんうんとわざとらしく頭を縦に振り、理解したような仕草をする。そうしながら手元では負けた盤上の駒を手慰みに弄び、コロコロと手の平の上に転がしている。つくづく神とはそういうものなのだろうと、考えさせられる。
「それで、ディア・テラス。やっていただけるのでしょう?」
俺は目を閉じ、思案したふりを一時だけしてから、ゆっくりと瞼を上げる。そして返事をする。
「やりますとも。封印でも、神殺しでも、なんでもかんでも。今の俺は、俺が生き延びるためだったら、何だってするつもりでいます」
そう。もう昔のように、未来を諦めたまま生きることなんて、悔しくて悔しくて、とてもできなくなってしまったから。だから俺は、生きなければならないと、そう決めた。
まずは現世に帰って、そこからまた、人生を続けていこう。