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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述27 遡行する栄華と黎明
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記述27 遡行する栄華と黎明 第7節

「無音と無心、永遠に続く静寂、不変の空虚。がらんどうで真っ暗闇な世界の真ん中に、光が差した。それは私を私と定める一つの願い。見つけてくれた、誰かが私に光を差して、反射とともに私は私を視認する。そして音が届く。遠く遠く、無量大数の時空の果てから聞こえてくる、心を奮い立たせる小さな音。それがたった一人の少女の声であると気付いた時、神は人の心を手に入れることを望み、人格を得た」

 

 天啓。

 幻想と時元の狭間。人の想像力が生み出す力が奇跡を呼ぶ。

 石造りの塔に幽閉された一人の少女は、龍の夢を見る特別な才能を持っていた。

 幻想と虚構。信仰から唱える虚言は人を惑わし、非難された末に少女は現実を知る。けれど受け入れない。真実を知っているのは自分の方であると訴え続け、故に、狂気を与えられた。

 狂った少女は療養という名目で故郷を追われ、都から遠く離れた冷たい土地に幽閉されていた。

 三階建ての小さな塔。少女は今も、毎日のように龍の夢を見続ける。いつかその美しい瞳がこちらを振り向いてくれる。いつか、迎えに来てくれる。少女は信じて疑わなかった。

 それが真実。それが始まり。


「いつのことかはわからないけれど、ある時不意に、ささやかな一人の少女の夢が、世界の真理を捕らえたの。ほんの些細な事故だった。大きな体の表面に張り付く鱗一つに小さな擦り傷を付けられたような。大いなる流れたる神は不変であるために傷付いた鱗を切り離し、時空の最中に放り捨てた。それが私たちの世界、私たちの宇宙、私たちの時空が大いなる流れから切り離されて、正しい運命を狂わせた最初の瞬間。人間の感性を手に入れた神の誕生」

 

 鍵がかかっていない入り口の扉を片手で押し開け、ステラ・シルヴァは石造りの塔の中へ入っていく。証明の無い塔の内部は薄暗い。ガラスが嵌められていない窓から入り込んだ雪が床に積もっていて、室内の空気は外となんら変わらなかった。雪景色と同じ静謐が薄暗闇の中に沈んでいて、その中で少女の靴がコツコツと音をたてる。酒瓶が転がる机の横を通り過ぎ、ステラは迷わぬ調子で二階へ続く石階段の一つに足を踏み入れた。振り返り、こちらへ来て、と無言で伝える彼女の姿を目にしてから、俺とトラストさんはその後をまたついていく。

 ステラはその間も、不思議な詩のような物語を話し続けた。


「人格を手に入れたはぐれものの神様、時空龍は、誕生とともにほどなくして気付いた。自分の内外を途方もないほど強大な孤独が取り巻いていることに。無情不変の在り方は人間の心を望まれた時空龍には耐え難い。人なればこそ、幸福を欲する。快楽を欲する。平穏を欲する。そこに少女の夢がまた届く。振り返る。何億何兆も続く時間の連鎖の中にある、ほんの一時の瞬きこそ彼女であった。無量大数の時間の流れから彼女を見つけた途端、龍は何かを思うより先に彼女のもとへ駆けつける。時を越え、空間を越え、世界を越えて、私を見つけてくれたあなたの元へ」


 二階を通り過ぎ、塔の最上階である三階に辿り着く。大人一人分の幅しかない小さな廊下をステラが軽やかな足取りで歩いて行く。

 廊下の先にあった場所は、一つの牢屋だった。鉄格子で遮られた向こう側の空間には放ったままにされたベッドが一つあるだけで、それ以外には目立ったものは置かれていない。アルレスキューレならばどこにでもありそうな普通の独房だ。

 この鉄格子にも鍵はかかっていなかった。ステラは檻の中へ簡単に入り込むと、壁に取り付け得られた小窓のそばまで近付き、窓を覗き込む。窓の外に何かあるのかと思ってその様子を見つめていると、「あなたも見てご覧なさい」と進められた。

 何の変哲もない、雪ふるバスティリヤの景色が広がっていた。まだ昼前という時間のせいか、白ばかりで塗り潰された世界は太陽の光が反射して随分と明るく感じられた。

「彼女は何を思ってこの景色を見つめていたのでしょうね」

 ステラがベッドに腰かける。俺とトラストさんはその正面に立ち、鉄格子に背をもたれかけさせながら、彼女の次の話を待った。少女は俺たちの大人しく話を聞く姿勢を見て、優しく微笑んでから、また口を開いた。

 

「少女と龍が最初に出会ったのは、この場所よ。石造りの小さな窓から身を乗り出して、少女は両手を広げ、歓迎した。そんな彼女に向けて、龍は生まれて初めて口にする人の言葉で声をかける」

 

 

「私を呼んでいたのはあなたか」

「待っていたの」

「約束をしていない」

「信じていた」

「それはどうして」

「愛しているから」

 疑問に思う龍。戸惑い、不安に思う。その一方で少女はどこまでも純真に真っ直ぐに、龍を想う。

「私、あなたのことを愛しているの」

 龍は答える。

「私には愛がわからない」

 少女は答えを知っている。

「あなたは私を愛しているわ。だって私のために、約束をしていないのに来てくれた」

 龍は少女を愛しているが故に、全てを受け入れた。

「私の中に愛というものがあるというのならば、私はあなたに何をしてあげられるだろうか」

「そばにいて」

「そばに?」

「私が死んでしまうその瞬間までずっと、私のそばにいてほしい」

 龍は王女の願いを聞き受ける。そばにいたいと願ったのは彼女だけではなかったから。

 

 

「それから龍は少女の約束を叶えるために、人の姿を持って現世へ転生することを望んだ。でも、彼女が生きている時代にアンカーを合わせて生まれ落ちるためには、彼女とよく似た道標の存在が必要不可欠だった。それもそうよね。龍にとっても時元世界とは広大で、その中に生きる私たちという個の生命は矮小すぎて、指の先で触れることも、眼で見ることもできない。そこで白羽の矢が立ったのが、この私、ステラ・シルヴァという一つの存在。ステラはあの少女の平行世界における、同一存在。故に目印としてちょうどよかった。龍はまず思い人が生きる世界の一つ隣に転生し、それから世界と世界を一つに混ぜ合わせることで少女のいる世界へ渡っていった」

 

「それじゃあ、君という存在は……?」

「もうどこにもいないわよ。そういう契約だったの。どうしても叶えたい願い事を叶えるために、私は私の存在そのものを、人生を神に捧げた。後悔は少しもしてないの。でも……彼は上手くいかなかったみたい」

 ステラが牢屋の床に視線を落とし「ほら、見て」と指を差す。そこにはよく見ると黒い染みのようなものが広がっている。一目見てわかる。血液の痕だ。

 

「神様の愛って、重たいものよ。想像してみれば、すぐわかるでしょう。彼って何でも出来るから、何でも与えてしまったの。ただの少女が王女になったのも、彼が幸福を願ってしまったためのこと。不自由ない暮らし、平和な日常、隣人からの祝福、愛される才能、そして美しい容姿まで、全部用意してあげた。そのうえで少女は王女として生まれ直し、龍は少年として生まれ直し、二人は出会った。初めては身分違いの関係から、次は友人、さらには思い人、恋人、そして人生の伴侶へ変わっていく、その過程、歪みに気付くのが遅すぎたの。

 人となった神はどこまでも無垢に純真に、ただ少女の幸福だけを思い、愛し続けた。けれども人にとっての愛とは、願いとは、欲望とは、誰にとっても到底自らの力量によって調節できるものではなかった。そのことに気付いた頃には、少女は……重すぎる愛を一身に受け続けた少女は、狂いすぎていた。いえ、むしろ始めから愛されるためだけに生まれ直した少女は狂っていた。だから気付くのが余計に遅くなってしまったのかも知れない。神は少女が狂っているからこそ愛していられた。

 けれど、大事なのはその『狂気』がどんなものなのかというところにこそある。神たる少年は考え、そして気付く。今の彼女が自分の望みを叶えるための人形に過ぎないことに、気付く。自分の意思を持たず、神から与えられた愛だけを一身に受け入れ、愛のためだけに生きる、おかしな生き物になっていた。愛とは無限。願いとは無限。欲望とは無限である。故に少女の狂気は無限そのもので、彼がそうだと気付いた時にはもう、少女は個人の意思を喪失していた。

 己の心の乾きを潤すただそのためだけに愛する少女の心を狂わせてしまったことを、龍は悔やみ、こんな不条理な力なんてもう二度と使わないと決意する。けれどその途端、それまでずっと上手くいっていたことが、ダメになってしまった。駆け落ちしていた自分たちの居場所がバレて、子供を人質にとられて捕らえられ、仕舞いにはあのアルレスキュリア城の一室で殺された。

 人としての生命を奪われた神は人ではない神の姿でもってもう一度人々の前に現れ、復讐を遂げる。それがあの王族大虐殺事件。さらにその場で二度目の死を受け入れた彼の体はズタズタに切り刻まれて谷の底に捨てられた。それで、全部終わったはずだった。でも……」

 

「誰かがその肉片を集めて、神に信仰の力を与えてしまった……?」

「知っているの?」

「はい。この目で見て、弔ってきました」

「じゃあ、あなたは未来の世界から来たのね。通りで、懐かしい気配を纏っていると思ったわ」

「そこまでわかるんですか」

「うん。私、レトロ・シルヴァだから、わかる。エルベラーゼとも、記憶は交わらないけれど、魂は同じだから、想いは伝わってくる。おかしくなっていたのは私も一緒。ずっと、目に見えない幻想を追い求めながら生きていた。憧れだったの。どうにもならないくらい大きな、夢だった」

 目を閉じて、ここではないどこかへ向けて思いを馳せる。ステラは少ししてからまた目を開き、その綺麗な青い瞳を瞬かせながら、また話を続けた。

「ラムボアード大渓谷の底から蘇ったレトロ・シルヴァが最初に向かったのは、エルベラーゼが待つ牢獄塔。運命は収束するとよく言うけれど、奇しくも初めて神と少女が出会った時と同じ場所、同じ時間。牢屋の中に姿を現したレトロ・シルヴァの亡霊を前にして、エルベラーゼが真っ先に口にした言葉は「待っていたの」だった」

 

 

 

「エルゼ!」

 塔の周囲を取り巻くように揺蕩いながら、そこにいる思い人のもとへ届くように精一杯の声をあげて名前を呼んだ。今まさに壁一枚越しの塔の外に浮遊する時空龍の存在に気付いたエルベラーゼは、心の底から嬉しそうな、今にも泣き出しそうな表情で、小さな窓枠から身を乗り出して両腕を広げた。

「レトロ! あぁ、私のレトロ! 待っていたの。私、本当に、あなたのことをずっとずっと待っていたわ!」

 久しぶりに会ったエルベラーゼは長い間自分たちのことを放ったままにしていたレトロのことを非難するでも追求するでもなく、ただ歓迎して受け入れた。

 その恋人のかよわい人間の体を抱きしめるために、レトロは今一度人間の姿をとり、彼女がいる牢屋の中へ滑り込むように入り込んでいった。

 両腕を広げて迎え入れるエルベラーゼの体を抱き寄せ、彼女がまだ生きていることを実感して涙する。

「突然いなくなってしまって、ごめんな。一緒にいられなかったこと、一人にしてしまったこと、どれだけ謝っても謝りきれないだろうけど、けど……俺はまだ、お前のことを愛している」

「レトロ……大丈夫よ。どうか自分を責めないで。私は待っていただけだもの。あなたと出会う前と同じように。待っていただけ。そして信じていた。あなたは絶対に私のもとへ帰ってくるし、本当の意味で私のそばから離れたりはしない。だってあなたは私を愛していて、私はあなたを愛しているんだもの」

 抱きしめた腕の中でエルベラーゼは頭を上げ、レトロの瞳を真っ直ぐに見つめる。あぁ、なんて愛しいんだろう。二人は久方ぶりの口付けを交わし、手指を絡ませることで何度も存在を確かめ合う。不安だからじゃない。満たされたいから確かめ合う。愛の言葉を囁き、愛の口付けを交わし、愛の告白をする。

 そして、愛を伝えた唇と同じそれから、レトロは謝罪の言葉をもう一度溢す。どうしても話さなければいけないことがあった。

「でもね、エルゼ。ずっと一緒には、いられないんだ」

「どうして?」

「気付いているんだろう。俺はもう、君と同じ世界に住んでいる人間ではなくなってしまった。今の俺は亡霊だ。一度殺されてしまった命は、何があっても生き返ることができない」

「どうして? 今もここにいるじゃない」

「足先が透けているのが見えないのかい?」

「そんなことはちっとも気にならないわ」

「気にしなくてはいけないんだ。なぁ、エルベラーゼ。俺たちは一体どこから間違えてしまったんだろうな」

「間違えてなんかいないわ」

「人をたくさん殺してしまった」

「私、あなたが人殺しでも構わない」

「子供を一人喪った」

「また生み直せばいいじゃない」

「君を、苦しめてしまった」

「私なにも苦しくなんてない」

「嘘を吐かせてしまって、ごめんな」

「嘘なんて何も……ねぇレトロ、私、わがままを言っているかしら」

 不安になったエルベラーゼがレトロの体を抱きしめる腕の力を強める。確かにここにいると信じて抱きしめた、その腕が不意に、虚空に触れた。レトロの体がすでに消えかかっている。

「今日はエルゼにお別れを言いに来たんだ。今までずっと、俺を愛してくれてありがとうって」

「レトロ……あなた、いなくなっちゃうの?」

「責任を果たさなきゃいけないんだ。神が人を愛してしまったために狂わせてしまった何もかもを修繕するための、責任を……」

「じゃあ私、あなたを殺すわ」

「……エルゼ?」

 そう言った彼女の手には、いつの間にか一本の大振りなナイフが握られていた。どこから出したのか、なぜ牢屋にいるはずの彼女がそんなものを持っているのかわからない。けれど確かに持っていた。

「ねぇレトロ。私ね。あなたと再会したら何がしたいか、ずっと考えていたの。考えて、考えて、いっぱい考えて、そのうえで、ね? 一番幸せな方法を見つけたわ」

 エルベラーゼは手に持ったナイフの刃先を自分の腕に当て、力を入れる。鋭い刃は彼女の白い肌をすんなりと切り裂き、真新しい切り口から赤い血液をはらはらと流れさせた。痛みを感じていないように見えた。

「ずっと不安だったの。あなたと離ればなれになっている間に、あなたと違って弱くて小さな私の方が先に死んでしまったらどうしようかって。それだけが不安だった。だってもしも私が死んでしまったら、あなたはこの先、私がいない世界で暮らさなければいけない。嫌でしょう? 悲しいでしょう? 私もそう、とても切ない。あなたの命の最期の瞬間まで、伴にいられないことが、とても苦しいの。それはあなたが先に死んでしまった時でも同じ。だって私はあなたを愛しているし、あなたも私を愛しているんだもの」

「何が言いたいんだ……エルゼ?」

 エルベラーゼは柔らかい笑みを見せ、刃の切っ先をレトロの胸に押し当てた。冷えた刃の温度が衣服の布越しにでも伝わってくる。背筋がゾッとする冷たさだった。

「わかるでしょう、レトロ。だから、あなたは私に全てを委ねて。私の願いはあなたの願い。あなたの希望は私の希望。幸福はいつだって私たち二人の間にあるの」

 凶器を手にするエルベラーゼの腕をつかみ、力を入れて反発する。

「エルゼ、お前……っ!」

「止めなくてもいいのよ、レトロ? あなたも私と同じじゃない。愛しているのよ。愛しているじゃない! ならば一緒に行くことも怖くなんてないわ。この道は正しいの。こうすればもう、私たちはもう二度と、悲しい思いなどしなくていい。愛し愛され幸せの絶頂の中で命を捨てれば、私たち、愛し合ったまま、ずっとそのまま! ずっとずっと、一緒にいられる! ずっと一緒にいたことになる! それって素敵よ、とっても素敵。私たちの愛はこんなにも素晴らしい! さぁレトロ、一緒に行きましょう。大丈夫。痛くはしない。私があなたを苦しませるわけがないじゃない。あなたの心臓の位置ならば、目を閉じていたとしてもわかるわよ。だってあなたはいつでも私を優しく抱きしめてくれたから、包み込んでくれたから……あぁ、なんて幸せなのでしょう。あなたに出会えて、巡り逢えて、本当によかった。こんなに満たされて、最期まであなたのそばにいられたこの幸福。幸せ、私は今、とても幸せ。愛している、愛しているわよ、レトロ。私の愛しい、私だけの愛しいあなた」

 エルベラーゼの言葉はレトロの心に大きく響いた。理解が追いつかない現実に対する動揺と、信じられないものを目の当たりにした衝撃とが彼の脳を支配して、体に力が入らなくなる。

 制止を求める腕の拘束がゆるんだことを感じ取ったエルベラーゼは、それを了承と思い込み、迷うことなく手に握ったナイフの切っ先をレトロの胸に突きつけた。

 血が噴き出る。愛する人の胸に穴が空き、血が泉のように湧き出てくる。レトロの体はすでに亡霊と化しているはずなのに、血が出るなんておかしい。それなのに血が、おびただしいほどの血液が流れて、エルベラーゼの長い髪と、白い肌と、投獄用のドレスが赤く赤く赤く赤く赤く、染まっていく。

 エルベラーゼはレトロの瞳から光が無くなっていく過程を子供のような表情で嬉しそうに見送った後に、間もなくして自らの胸にも同じ刃を突き立てて死亡した。

 

 


 床にこびり付いた血液はエルベラーゼのものに違いない。彼女の死後、この牢獄の中で発見された死体は一人分だけで、レトロ・シルヴァの姿はどこにもなかった。全てはエルベラーゼが最後に見た幻覚だったのかもしれないし、本当の『神殺しの瞬間』だったのかもしれない。 

「エルベラーゼという自分が愛した存在そのものに生きることを否定されたレトロ・シルヴァは、彼女が選んだ結末を受け入れた。人としての死に続く、神としての死。もう二度とこの世界に現れ、干渉しないことを誓い、またあの何も無い虚空だけが広がる時空の果てに戻ることを決めた」

「けれど……一つだけ心残りがあったのでは?」

「その通り。あなたはあの日、逆さ氷柱の夜にレトロ・シルヴァの口から直接頼み事をされていたわね」

「願いを叶えてみせろと……」

 随分前に顔を合わせたきり会っていない、エッジ・シルヴァの姿が頭に浮かんだ。

「最後の願いが果たされた時、その時こそ神は死を正しく受け入れ、世界は愛情という歪んだ干渉から脱却し、本当の自由を得ることが出来るようになる」

「その世界は良いものなのでしょうか?」

「やすらかな死へ向かっていくだけの世界に戻るの。あるべき姿に戻るって、そういうこと」

 俺が返事に詰まって口を閉じていると、ステラは隣でずっと話を聞いているだけだったトラストさんの方へ視線を移した。

「ディアさんはもう色々なことを知っていたから良いけれど、あなたはどうかしら、ダムダ・トラストさん」

「私は……あなたが聞かせてくれた物語の全てが現実であることを受け入れ切れていません。ここで見つかったエルベラーゼ王女の死体だって一人分だけだったことも知っています」

「レトロの死体はもともと亡霊だったから、消えてしまうのはおかしくないことよ」

「それはわかりますが……私はもとより、神というものが何なのかをほとんど知りません」

「にも関わらず、信じてしまったから今困っているのね。そうでしょう?」

「……その通りです」

「ここで聞いた話全て、今なら忘れて帰れるわ。私なら少しだけ時間をいじって、あなたを私と出会う前のあなたに戻せる。どうする?」

 トラストさんはしばしの間黙り込み、それから俺の方を一度見つめてから「覚えていたい」と、一言だけ返した。

「真なる神話を知るものには相応の運命が待ち受けることになる。認知することを選んだ以上は、今まで通りには生きられないこともあるでしょう。どうか本当の自分を見失わないよう、前を向いて生きてくださいね」

 そんな言葉を伝えるステラの表情は達観した慈愛に満ちており、物語の中に登場する聖女のように見えた。

 この人は、もともと人の身でありながら、どれだけ多くのこの世の真実を知っているのだろう。そう疑問に思ったところで、ふと、彼女ならば自分が元の世界に帰る方法も知っているのではないかと思った。

 俺は思い立つや否やすぐにステラに問いかける。するとステラは短い言葉で簡潔に「小結晶の力を使い果たせばいい」と教えてくれた。あるいは壊してしまうこと、と。

「壊すって、そんなに簡単な方法でも元に戻れるんだ」

「でも……ディアさんには、元の世界に帰る前に、この世界でやっておくできことがあるはずよ」

「やっておくべきこと?」

「この世界に来てしまった理由があるはずだもの。たとえばそう、今の世界でしか出会えないものに出会うとか、今しか知れないことを知っておくとか」

「それって……もしかして、グラントールに行けってことですか?」

「グラントール公国。そうね。あなたが知る三十八年後の世界には存在しない、滅亡を約束された国。そこには何でも知っている賢い龍、ラグエルノがいる。せっかくなんだから、会ってらっしゃいな」

「そんなに気軽に会いに行けるような相手なんでしょうか」

「あなたなら出来るわ。私、信じてる」

 ステラに信じていると言われてしまうと、自然にできるような気がしてくる。心底不思議な女性だと、改めて思った。

 

 それから俺たちとステラ・シルヴァは赤軍のフライギアがバスティリヤを出立する予定の時間ぎりぎりまで、様々なことを話し合った。他愛も無い昔話もあれば、トラストさんにとっては衝撃的なグラントールが滅びた未来の話まで。

 そして別れの時が来た時、俺たちは彼女ともう二度と会えないことを悟りながら、石造りの牢獄塔を後にした。一時的に小結晶からもらった力を使い果たしたステラの姿は再び始めに見た時と同じ真っ白なものに変わっていた。

 塔の三階にある窓から顔を出し、遠ざかる俺とトラストさんの姿を見つめながら、彼女は純白に染まった雪景色の中に溶けるように消えてしまった。





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