記述27 遡行する栄華と黎明 第5節
陽が暮れるより少し前に調査拠点のベルが鳴り、それとともに拠点の内外から赤軍の調査兵と思われる人々が続々と集まってきた。調査書をちょうど書き終わるタイミングだったトラストさんがその様子を見て「夕食の時間ですよ」と俺に教えてくれた。お腹が空いていないことを説明すると、それもそうだと納得されて、彼だけが一人分の食料を受け取ってくることになった。
配給品を受け取るための列に並ぶと、すぐ前に並んでいた体格の良い軍人然とした男が振り返り、トラストさんに気楽な調子で話しかけてきた。
「一緒にどうだ?」
食事を一緒に取ろうという誘いの言葉だったようだが、トラストさんはそれを断り、言葉を返す。
「今晩は早めに食べてしまって、やりたいことがありますので」
「また例の小難しい本を読むのか?」
「はい。遠征中に読み込むつもりだったのですが、今日になって急に撤退が決まったでしょう」
「急なことだが、隊長がアレになってからは珍しい話でもないしな。ま、勉強熱心なのはいいことだ。がんばりなよ、トラストの坊ちゃん」
最後にそう言い残して、配給係からレーションボックスを持った調査兵はキャンプファイアが燃える拠点の中心へ歩いて行った。周囲を見渡すとたくさんの調査兵たちがそれぞれキャンプ地の好きなところに腰を下ろし、早速と他愛ない会話をしながら夕食の時間を楽しみ始めていた。
前の人に続いて小振りのレーションボックスを一つ受け取ったトラストさんは、自分のテントがあるらしい方向へ歩いていく。テントの入り口を一つくぐると、トラストさんはすぐにこちらの方を振り返り、俺に声をかけてくれた。
「ここなら人の目を気にせずに会話できますね」
何も無い場所に向かって会話を始める人間が組織に二人もいるのは流石にまずいですよとトラストさんが笑う。それに合わせて俺も笑い返す。
「口が開けるってだけで随分と気分が楽になるね。この体だと呼吸をする必要もないから、何もしていない時間がとても退屈だよ」
アデルファのテントを後にしてから今の時間になるまで、俺は業務を進めるトラストさんの少し後ろを黙ってふわふわ浮いているだけで、大層に暇であった。
「慣れてくるということはあるのでしょうか?」
「どうだろうね。まだ初日だから何にもわからないや」
そこでトラストさんがテントの中に視線を向けるのを見て、自分もつられてテントの中を見る。広さは全く無い、寝るための機能だけが用意された狭いテントだ。骨組み部分に紐をひっかけて吊したハンモックが面積の大半を占めていて、その横には机代わりの空き箱が一つ。筆記具、開いたままの書物、走り書きのノート。ハンモックの下には衣類を始めとした軍人一人分の装備が押し込まれるようなカタチでしまわれていた。
「一人用のテントなんだね」
「辺境とはいえ古い貴族家系の立場にありますから。みなさん、気を遣ってくださるのです」
「俺も気を遣った方がいいのかな。トラスト様とか」
「貴方は見たところ私より育ちが良いでしょう?」
当然のように言われて、俺はどうしてわかったのかと首を傾げた。
「よくわかったね。確かに、俺は今までの人生で俺より育ちの良い人間に会ったことがないや」
「断言できるところがいかにも本物らしいですね」
からりと笑い、それからトラストさんは空き箱の上に出しっぱなしになっていた本やノートを片付けてから、空いた場所にレーションボックスを置いて、開封した。色彩という色彩が存在しない無味簡素な外見をした、材料不明の四角い食べ物を口に含める。乾燥していて食べにくいらしく、食事中は合間合間に何度も水筒の水を口に含んでいた。
食べる速度が妙に早いことを感心しながらじっと見守っていると、視線を気にしたトラストさんが口の中の咀嚼物を全て呑み込んだ後に話しかけてくる。
「食事が必要無いことも、空腹感が無いこともわかるのですが、睡眠はどうするのでしょうか?」
「確かに疑問だ。この調子だったら何にも必要ないだろうし、君が寝てしまった後は随分と暇になるかも」
「本の一冊でも読めたら楽になるでしょうに、触れないとなると、ページもめくれませんね……そうだ、ラジオでもかけましょうか」
「ラジオ?」
「おや、まさかご存じない?」
食べ終わったレーションの袋を軽く丸めてから空き箱の上に置く。それからトラストさんはハンモックの下から手の平くらいのサイズ感をした機械を一つ取り出した。表面に取り付けられたボタンとノズルを少しいじってから、それを空き箱の上に置く。するとガガガッと何かが擦れるような電子音がした後に、スピーカー部分から誰かの声が聞こえてきた。少し聞いてみるとわかる、どうやら明日の天気の話をしているようだ。
「端末でデータベースにアクセスする権限を持たない人たちに向けた娯楽ですね。チャンネルがいくつかあり、音楽やニュース、音声ドラマやためになる講座の話などをスケジュールに基づいて配信してくれています。映像がないことをつまらなく思う方もいらっしゃいますが、私は気に入っているので、よく勉学のお供にさせてもらっています」
へぇー、と思いながら機械から聞こえてくる音に耳を傾けていると、トラストさんがボタンを一つ押す。すると聞こえてくる音が人の声から演奏音に代わり、緩やかに鼓膜を響かせる音楽が狭いテントの中にひっそりと響き渡った。音質はあまり良くないが、これはこれで不思議と赴きがあるし、何より好奇心がそそられるところが気に入った。
「ラジオって言うんだね。うん、うん。とても良いと思う。今晩早速使ってみるよ、ありがとうトラストさん! あ、でも寝る時に音が邪魔になったりしないかな。外に出た方が良い?」
「音を少し小さくしてくれるだけで構いませんよ。雑音が気になって眠れない程度では立派な軍人とは言えませんので」
「そういうものなのか。じゃあ、君の厚意に甘えることにしちゃうよ。でもごめんね、なんだか何もかもお世話になっちゃってるみたいで」
「気にしなくても良いのです。今の貴方は私にとって、大事な客人のようなものだと思ってください」
「……トラストさんは、俺が未来から来たことを、信じてるの?」
「そこは……まだ少し、半信半疑なところがありますね。時空龍の力だとはお聞きしましたが、私はその時空龍とやらがどんなものなのかをまず知りません。神などという抽象的な概念、あるいは存在についての知識に明るいわけでもありません。まるきり想像できないというのが、正直なところです」
「それもそうだよね。じゃあ何か、証拠のようなものがあったら良いのかな」
自分が生きていた時代の世界について考えてみて、そこっで真っ先に頭の中に思い浮かんだものは、今目の前でこちらを見つめている彼自身のこと。未来のダムダ・トラストの姿。でもそんな将来の姿のことを昔の彼に伝えたところで、実感なんて何も湧かないだろうなと思って、考えるのをやめた。
「何か思いついたら話そうかな」
笑って誤魔化すと、彼の方も笑い返してくれた。上品に頬を綻ばせながら笑うその表情の機微が、やっぱり同じだなと改めて思わされた。
ラジオから聞こえてくる音楽が別のものに切り替わる、そのタイミングで、トラストさんは止めていた食事を再開させる。数分も経たないうちに残りの全てを食べ終え、ゴミをレーションボックスの中に詰め込んでから、脇によけて置く。
「美味しかった?」
「美味しいと思うことにしています」
「この後は何をするのかな。さっきは勉強をする、みたいなことを言ってたけど、嘘とかじゃなくて本当にするの?」
「もちろんしますよ。毎日の習慣でもありますので」
先程片付けた本とノートとを再び机代わりの空き箱の上に戻しながら、トラストさんは言う。それから手元にあった分厚い本の表紙をこちらへ向けて、「今はコレです」と見せてくれる。本の表紙には『貿易理論』という言葉が大きく書かれていた。
「俺が勉強したことがない分野だ!」
思わず出てしまった楽しげな声を聞いて、トラストさんの方は少し驚いた様子をみせる。
「ご興味がありそうな反応ですね」
「前から気になっていたんだ。俺の生まれ故郷は閉鎖的だったからか『国際貿易』って概念についてあまり広く知られていなくてね。でもやっぱり、複数の国を持つ大陸での生活にとっては欠かせない知識になると思うし、一度は学んでみたいなって考えていたんだ」
なるほど、と少し納得した様子のトラストさんにねだり、少しだけ中のページを開いて見せてもらう。一つ一つのページに隅から隅まで眼を這わせ、前置きを読みきり、興味深げに紙面を見つめる。
「そんなに興味があるなら、概要をご説明しましょうか」
「え、いいの? 勉強の邪魔にならない?」
「内容自体は最後まで読み切っておりますので、むしろ、ちょうどいい復習になります」
「本当に? 何から何までありがとうトラストさん!」
それから俺とトラストは一つの参考書を挟んで向かい合い、あれこれと質問や会話をしながら夜を待った。陽が暮れてからはカンテラ照明の明かりを切り、明日の朝に向けてトラストさんは就寝する。
ラジオから聞こえてくる小さな音声の中では、DJを名乗る一人の男性が最近の城下街で流行っているコンテンツについての話を繰り広げていた。
俺はテントの外へ出て、ラジオの音がギリギリ聞こえるところまで歩いたところで、真っ黒に染まった夜空を見上げる。一面を覆い尽くす雲の流れが速い様を見て、風が強く吹いていることに気付かされた。耳を澄ますとテントの幕が風に当たってバタバタと揺れる音がする。そのさらに遠く、海があった方角からは、潮騒と呼ばれるらしい海の波が揺れる音。そして、声。誰の耳にも届くはずのない、俺にだけ聞こえる神秘の声が、ここでもまだ聞こえていた。
ラジオのDJが話に区切りを付け、曲名をあげる。間もなくして、知らない音楽がスピーカーから聞こえてくる。風が強いけれど、喧噪というものは無い静かな夜にぴったりな、落ち着いた演奏音と女性の歌唱が響く、美しい曲だった。