記述27 遡行する栄華と黎明 第3節
臭いも温度も感触も、あぶん痛みもわからないのは、これが夢の中の出来事だからなんだとは納得することができた。そのうえで改めて己の現在の状況を確認するために周囲を見回す。今目の前に広がっているのは、くすんだ青緑色の大きな大きな水溜まり。その上に浮かぶ一隻の小船。始めは池か湖なのかと思ったけれど、風も大して吹いていないのに揺れる水面の様子を見て、どうも違うと気付かされる。
「ここってもしかして、海?」
「知らずにあのようなところで寝ていたんですか?」
「全くもってその通り。でも、気付いたらあの場所にいたんだ。本当に、何があったのかわからない」
「……それだけ不思議な姿をしているのですから、そんなこともあるのかもしれませんね」
海。人伝に話を聞くには聞いていたけれど、実際に自分の眼で見るのは初めてだ。もしこれが夢の中のことでなかったとしたら、潮の香りや海水の味も体験することができていたのだろうか。先程潜っていた海の中の記憶を思い出してみても、そんなものは少しも感じなかった。少し損をしている気持ちになる。
海とそう一言教えられてから改めて見つめる、大海原というものの景色はなんとも異様なものに見えた。青緑色に水がくすんでいるのはたぶん水質汚染のせいで、本来ならば万全な汚染対策をしていなければ入水することはできないのかもしれない。そして、そんな海の真ん中に浮かんでいるなんとも頼りない形状をした小船。そのエンジンがガタガタと歪な音を立て、稼働する。
「岸へ上がりましょうか」
操縦席で舵を握る彼がこちらに声をかけるとともに、船が海面の波が流れるのと同じ方向へ動き始めた。船が通った後の海には波を切り裂くようにしてできた白い線が無数の泡をたてながら引かれていた。
揺れる船の上で、見知らぬイケメンと二人きり。その間彼は常に丁寧で親切な態度で俺に話しかけてきてくれた。いや、親切というより、好奇心旺盛な人柄だったのかもしれない。彼はほとんど幽霊同然の俺の姿を前にしても物怖じせず、初めて見る現象を前にしていたく楽しそうな様子を見せていた。
「どこから来たのか」「何をしていたのか」「記憶はハッキリしているか」「その体は一体どうなっているのか」会話の一つ一つに答えていくうちに、自然に自分の状況を整理することもできた。記憶は無事で、五体も満足。状態も健康すぎるほど健康で、ちょっと前まで砂浜の神殿で巡礼の儀式をしていたという前後関係もハッキリとしている。
けれど神殿の話をしたところで目の前の彼は「あの海中遺跡は神殿と言えるのでしょうか?」と腑に落ちない言葉を発した。「何か知っているの?」と質問してみると、どうやら俺が見つかった場所から少し離れたところに海中遺跡と呼ばれるものがあるそうで、そこと俺が言う神殿が同一のものなのかどうかハッキリしないという。そもそもこの青年は、もともとその海中遺跡の調査のために海に潜っていたところで、俺を発見したらしい。情報が不自然に交錯していて混乱する。どういうことだろうと考えてみると、そういえば大陸の南東部に初めて来た時にブラムがこの地域一帯の砂浜はもともと海の底に沈んでいたと言っていた。何か関係があるのだろうか。
「何か不安に思うことでもありましたか?」
「不安だらけだよ。仲間たちともはぐれてしまったし」
「それは確かに困りますね。連絡手段などは持っていましたか?」
「通信端末を持っているはずなんだけど……自分の体も触れないから取り出せないんだ。これじゃあ服も脱げないよ」
「なるほど……しかし何か、これらの一件にはオカルト的なものを感じますね」
「オカルト?」
「はい。実は、こういったことに詳しい人物が知り合いにいるのです。陸にあがったらすぐに会えると思いますので、もうしばらく待っていてくださいますか?」
「ありがとう、すごく頼りになるよ」
感謝の言葉を伝えると、彼は少し照れるように一度視線を逸らしてから、改めてこちらを見て真っ直ぐに微笑んだ。操縦席に座っている間の背筋も伸びているし、言葉遣いも丁寧。育ちの良い家庭の人物なんだろうなと何となく思った。
それからしばらくして小船が海岸とおぼしき場所に到着する。そこには青年の仲間と思しき人たちがいくらか集まっていて、小船を岸に引き上げる手伝いをしてくれた。
「こちらへどうぞ」
青年に進められるままに船を下りて周囲を見回す。海が関わる場所ということで初めてみるものばかりなのだが、それでも何の変哲もない海岸であるということがわかる、平穏そのものな場所だなと思った。
「誰に話しかけたんだ?」
後ろから聞こえてきた声に反応して振り返ると、背の高い中年の男が不思議そうな顔で青年に質問をしていた。
「誰にと言われましても、そこに人がいらっしゃるでしょう?」
「どこに?」
どうやら自分のことを話しているらしい。
「……なるほど。すみません、今の言葉は聞かなかったことにしてください」
それから彼は仲間たちに今回の調査の報告を軽く行い、「拠点に行く」と一言告げてからその場を後にしようと歩き出した。付いていくべきか迷っていると、彼は他の人たちにはわからないタイミングでこちらを振り返り、手招きをしてくれた。俺は砂で敷き詰められた海岸を歩くでも飛ぶでもない低空飛行でふわふわと漂いながら、彼の後を追っていった。
そうして海岸から少し離れたところで彼が振り返る。
「どうやら貴方のことは私以外の人間には見えないようです」
さっきの会話はそういうことだったのかと腑に落ちる。
「そんな、一体どうして?」
「何か……私と貴方の間に縁のようなものでもあったのでしょうか」
言われてから改めて目の前を歩く彼の姿を見つめ直す。そこでふと、彼の容姿に既視感のようなものがあることに気付いた。灰色の髪に緑色の眼。整った目鼻立ちに、肌の色もよく見れば似ている。そういう外見をした人間を、自分は今までに二人ほど会ったことがある。
「もしかして君、トラスト家と関係があったりするのかい?」
「え?」
彼は虚を突かれたように歩いていた足の動きを止め、こちらを振り返る。
「なぜおわかりになったのですか?」
なんとなく口にした推測に肯定の言葉を繋げられ、言ってみた自分の方が驚いてしまった。
「君によく似た人に会ったことがある。言ったらビックリするかもしれないんだけど、ダムダ・トラストっていう名前の人で」
「それは私の名前ですよ?」
「……?」
「そうでしたね。お互いに喋ることに夢中で自己紹介をしていませんでした。私はダムダ・トラスト。大陸南部辺境地区を領地に持つトラスト家の生まれの者ですが、現在はワケあってアルレスキューレ王制国家国軍第四部隊赤軍に所属して、世界各地を調査して回っているものです。以後お見知りおきを」
「…………?」
もう一度確認のために彼の外見を見る。長めに伸ばした灰色の髪に、少し暗い落ち着いた色味の緑の瞳。一度見たら早々忘れることがない丁寧に造り込まれた色気のある男性の顔立ち。気品に満ちた立ち振る舞い。しかし外見年齢はどこからどう見ても二十代前半で、俺と変わらないくらい。
なのにどうしてか、納得している自分がいて。それがなぜかとたずねられると……この、今自分がいるはずの大陸南東部の地形が、かつて海の底に沈んでいたという話を思い出してしまう。とてつもない予想が一つ頭に浮かび、俺はおそるおそるといった調子で、目の前にいるダムダ・トラストを名乗る彼に、質問をすることにした。
「あの、今の暦って、どうなってるの?」
「それは……」
三十八年前。
彼が教えてくれた暦とは、自分が生きていた時代から三十八年も前のものだった。言葉だけでは信じられなくて、「本当に?」と何度も何度もたずねてしまうが、その度に彼は「間違いありませんよ」と少し困った様子で応答をしてくれる。他に答える選択肢など一つも無いといった様子を見せる彼を前にして、さらに頭が混乱する。嘘を言っている様子にはまるで見えない。混乱する頭で考えて、言葉以外に証拠として理解できるものを求めて彼にまた問いかける。
「あの、地図とかもってるかな?」
「ありますよ」
彼はズボンのポケットから小さく折りたたまれた紙の地図を取り出し、俺に見せてくれた。その地図を開いてみて、さらに驚く。大陸の真ん中に中央雪原があるではないか。それは世界改変が起こるより前の地図ということで、そんなものはもうウィルダム大陸には一つも残っていないと思っていた。しかも、次に自分がいる大陸南東部の地形も確認してみると、歪に削り取られた後のように欠けていて、大半が海の底に沈んでいる。そして何より気にすべきところは、大陸の西部にあるグラントール公国がまだ存在している。こんな地図、俺は今までの旅の中で一度も見たことがない。
本当に三十八年前の世界なのか?
海中で目覚めるより前の自分の状況をもう一度思い返す。神殿の前で手を合わせ、龍に会いたいと念じて眼を開いたら周囲に誰もいなかった。それからさらに地面から水が湧き出てきて、溺れて、夢の中でまたあの赤い球体と出会い、何かを会話した。
そうだ、自分はまだ夢の中にいるのだ。そのはずなのだ。だから体は宙を自由に飛び回れるし、幽霊みたいに何にも触れることができない。夢の中だというのならば納得できる。できるのだけど……それにしたって限度のある現実味が目の前に展開されている。
「あの……」
「あっ、ごめん。ちょっと驚きすぎて黙ってたみたい」
「いいんですよ。それより、何かお気づきなことでもありましたか?」
「……君は、俺が三十八年後の未来の世界から来た人間だって言ったら、どうする?」
試しに冗談めかしく聞いてみると、トラストさんにそっくりな彼は顎に右手を当てて少し考えた後に、宙にふよふよと浮かんでいる俺の姿を改めて上から下まで見つめ直し、口を開く。
「これだけ不思議な風貌をしているのならば、そういったこともあるかもしれませんね」
流石トラストさん、大物の器だ。
感心しながらも、俺は内心で困った困ったと頭を抱える。とにもかくにも時代が違うというのならば、この世界にはウルドもライフもフライギアも存在しない。旅に持ってきた道具一式、常備薬を含めた食糧から何から、持つべきものが何もない。これから何をするにしても、頼りになるものが何もないということになる。
いや、頼りになるものがあるとすれば一つ、今目の前にいる、俺の姿を唯一認識できるらしい彼だけだ。彼に見捨てられてしまったら、それこそどこで何をすればいいのかわからなくて、途端に不安で仕方なくなってしまうだろう。考えた末にひとまずはこの親切な彼の厚意に甘えて、彼とできる限り行動を共にしたいという思考に至った。
「とりあえず、俺はどうやらどこにも行く宛てが無いはぐれものになっちゃったってことがわかってしまったから、しばらくの間は君に付いていくことにするよ。それで……いいかな? やっぱり迷惑?」
「いえ、私は全く構いませんよ」
「いいの?」
「はい。それに……先にも話した通り、こういったことに詳しい人がいると話したでしょう。まずは落ち着いて、その人に会ってみませんか」
「その人ってどういう人なんだい?」
「かなりの変わり者ですよ。いつも何も無いところを見つめてはブツブツ会話をしたりしているので、今の私の状態とよく似ています」
「ごめん、俺って今、君にかなり変なことをさせてしまっているみたいだね」
「構いませんとも。今は周囲に誰もいませんからね。ただ、もうじき到着する赤軍の調査拠点に入ったら、しばらく会話は控えましょう」
「わかった。君の言うとおりにするよ。それに、色々相談に乗ってくれてありがとう。なんだか、色々変な状態になってしまって困っちゃってるけど、最初に会ったのが君で良かったと思う」
「ふふ、あまり買いかぶらないでくださいね。私は誰にでもこのように親切に接するわけではありませんので」
「? どういうこと?」
「貴方のように美しいお方には初めて会ったということです」
「し、下心!!」
そこで俺は元の世界で会っていたダムダ・トラストが自分に向けている感情がやたらと好意的であったことを思い出したのであった。