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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述27 遡行する栄華と黎明
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記述27 遡行する栄華と黎明 第2節

 体が沈んでいく。ゆったりと、ゆっくりと、動いているのか静止しているのかわからないほど緩慢に、水の中に沈んだ我が身が底へ底へと沈んでいく。

 あぁ、またこの感覚だ。閉じたままの瞼の裏側に、淡い赤色に染まった幻想を描く。その真ん中に揺蕩っている自分の姿を俯瞰する。冷たくも温かくもない、淡い羊水の中。見えた景色の中に、またあの赤い球体がある。

 赤い球体はふわりとした視線をこちらを向けて、また声をかけてきた。

『     』

 耳では聞き取ることが出来ない不思議な声。

「君が俺をここに呼んだの?」

『        』

 球体は答える。その音にならない言葉の意味を、心を通じて感じ取る。

「確かに願った。龍に会いたいって」

『    』

「知りたいよ。俺はいつだって、知らないことを知りたがっている」

 でも、嘘では満足できない。だからできれば真実がいい。

『       』

 赤い球体の中にある何かが俺に向けて笑いかける。

 それから何も無い空間から、誰のものとも知れない手が伸びてきて、俺の胸にそっと手の平を当てた。すると、服の下にしまっていた何かが熱くほてり始める。熱く熱く、熱を増していくそれがこれ以上熱くなるより先にと、俺は急いで懐からそれを取り出して、目の前の虚空に浮かべた。それはあのラムボアードの崖の底、龍の墓場と呼ばれる場所で手に入れた、琥珀色の小結晶だった。

 取り出した小結晶は熱を帯びるとともに光り輝いていた。赤とも青とも白ともとれない、七色の光、輝き、恐らくそれは目に見えてわかる神秘のかたち、奇跡のすがた。

 見つめていると、その光が弾けるように強さを増した。

 幻想からは目を逸らせず、瞼を閉じることも出来ない。眩しさを眩しさのままに受け入れて行く内に、己の意識が光の中に溶けて、混ざり合い、同化する予感が実感とともに頭の中をよぎっていった。それからは初めて味わう感覚だけが後に続いて、全てが、暖かくて冷たい穏やかな微睡みの中に、また、落ちていった。

 

 

 そして暗闇の中、意識が再び浮上する。

 体が軽い。痛みも苦しみも感じない。夢の中にいる感覚がまだ残っている。

 そろそろ目を開ける時であると誰に言われるわけでもなく心で感じとり、瞼をそっと開ける。すると、視界いっぱいを覆い尽くしていたものは、濁った青緑色の景色。

 これは何だろうと不思議に思った。それから自分が水の中に沈んで溺れてしまったことを思いだし、ここが水の底であることに遅れて気付く。でもそれにしたって、体が濡れた感覚がまるでない。むしろあの赤い夢の中にいる時と同じような、全能感にも似た心地よさと浮遊感が体全体を満たしている。今なら鳥になって空でも飛んでしまえるんじゃないかと思えるほど、体が軽い。痛いところも苦しいところも、どこにもない。こんな都合のいいことがあっていいのだろうかと奇妙に思い、そしてそこで、はたと思い至る。そうか、死んでしまったんだなと。

 何も無い水の中にただ一人浮かんだまま、冗談っぽく笑う。ほら笑えた。違うじゃないか。

 死んでいたとしたら自分の思考も意識もここに無いわけで、だとしたらやっぱり生きている。でも、じゃあこの手足の軽さと、体全体を包み込む浮遊感は何だろう。重力を感じない。それに、呼吸が全然苦しくない。この世に存在するありとあらゆる肉体的しがらみから解放されたような心地よさが体の奥の奥まで通じていて、なんだかとても快適だ。

 瞼を閉じ、開き、瞬きを何度かしたところで、意識がまた一段階明朗になっていく。

 さて、これからどうすればいいのだろう。意識がハッキリとしてきたところで途方に暮れて、考え込む。ここが水の中というからには、まず陸に上がってからじゃなければ何も始まらないような気がした。でもどうやってそこまで行くのか。

 眼を開けて、まばたきをまた一つ。指の神経に意識を向けると、指が確かにするりと動いた。水の中なのに何の抵抗感もない。あぁ、やっぱり軽い。何もかも羽根のように軽やかに、自由に動く。ならば体の向きは変えられるだろうかと、寝返りを打つような動作で仰向けに遠い水面を見つめていただけだった体の姿勢を動かしてみる。

 すると、ぐるりと変わった視界の先、俺が浮かんでいる場所のすぐ目の前に、何かがあった。浮かんでいた?

 こんなに近くにいたのに存在に気付いていなかったことにまず驚いて、それから、それが人の形をしていることにも気付いて、さらに驚いた。驚いたのは俺だけではなく、俺を見つめていた相手もまた驚いて、水中の中でぐらりと体を左右に大きく揺らす。本当に人なのだと感じ取り、その姿を観察する。

 まず目に付いたのは大きな丸いヘルメット。太い管が一つ通っていて、背中にせおった酸素ボンベらしきものと繋がっている。水中なのだからそういう装備にもなるのかと納得し、さらに視線をヘルメットの下に続く胴体の方へ向ける。ゆったりとしたボディラインを持つゴム製の衣服。恐らくは深い深い水の底を探索するために構想された、特別な潜水服。足の先には大きなヒレがついていて、ゆらゆらと手足を動かすことで姿勢を保っている。

 潜水服の人物は水中に浮かんでいる俺の姿を真っ直ぐに見つめ、何かジェスチャーのようなもので意思疎通を試みてきた。俺は何が何だかわからないまま手を振り替えし、たぶん心配されているのだと感じ取って、とりあえず「自分は無事である」という旨をこちらもまたジェスチャーだけで伝えてみた。

 すると相手は足に巻いたバンドの一部を外して、そこに装着していたボードのようなものを取り出し、何かを始める。間もなくして白いボードの平らな面をこちらに見せてきたと思ったら、そこには「付いてきて」という文字が書いてあった。俺は相手に伝わるように大袈裟なほどしっかりと首を縦に振って「わかった」と意思を伝えた。

 了承を確認した潜水服の人物は、最後にもう一度手招きをしてから、水中を泳いで移動し始める。背中にしょった大きな酸素ボンベが遠ざからないように、自分もまたその後をついていくように動いていく。

 不思議なことに、俺は泳ぎ方なんて少しもわからないのに、水中を思うがままに自由に移動することができた。右に行きたいと思えば右に行き、上に行きたいと思えば何の抵抗もなく体が浮上する。まるでずっと宙に浮かんでいるだけのような浮遊感だけがあって、何とも奇妙。いや、今自分が置かれている状況の全てが奇妙極まりない。自分はまだ夢を見ているんだなと思うことでなんとか整合性を保とうとしているが、それにしたって、随分とリアルな夢のような気がした。

 潜水服の人物は頭上に広がる、キラキラ光った水面に向けて慣れた調子で泳いでいき、やがて一つの小船のようなものの側まできたところで水面から顔を出した。俺もその後に続いて水面から顔を出してみる。青緑色に濁っていて、ほとんど何も見えなかった視界が急にクリアになって、視界いっぱいに灰色の曇天が映り込んだ。見慣れた光景に安心感を覚えたところで、相変わらず自分に呼吸をしている感覚がないことに違和感をもった。

 潜水服が小舟の端に手をかけて、船上によじ登る。その姿を真似して自分も小船に手を伸ばす、が、手が、船の表面を貫通して何も無い空をきった。体が透けているような妙な感覚があって、そんなまさかと思いながら、何度もまた触れ直す。けれど何度やっても結果は同じで、何にも触れることができない。

 潜水服の彼が舟の上から「早くおいで」とジェスチャーをとばしてくるけれど、俺は困惑するばかり。困った様子の俺を見て、良い人らしいその人物はこちらへ向けて手を差し伸べる。その手に触れようとしてみたが、伸ばした手の先は実態の無い幽霊みたいに相手の手をすり抜けて、やっぱり何も掴めない。

 幽霊……?

 そうだ、自分は今、そういう霊的なものになっているのではないだろうか? 背筋に寒気にも似た錯覚が走る。本当に死んでしまったんじゃないかという不安が急激に真実味をおびてきた。けれど、だとしたら今見ているこの光景は一体何なのだろう。改めて両目を開いて目の前に見える光景を確認する。船の上からこちらに手を差し伸べていた潜水服の人物は、俺の体に触れられないことを知って驚いているように見えた。

 驚いているのは自分もまた同じ。水面に上半身を少しだけ浮かべた体勢のまま、どうすればこの親切な人物のもとに行けるかを考える。そこでふと、今だったら空だって飛べるんじゃないかという、先ほど抱いた妄想のことを思い出した。あの時感じた全能感は、今もある。水中では思った方向へ自由に体が動いてくれた。ならば、宙へ浮かび上がるくらいのことはできるかもしれない。だって今の俺は、幽霊だから。

 思いついたアイディアを実践する。水中を泳いでいた時と同じように、上部へ浮上する自分の姿を思い描く。水から出て、宙を浮かんで移動して、船の上に降り立つ。そうしてみると、なんとその想像力のおもむくがままに、自分の体が水中から浮かび上がって、小船の上にポトリと落ちた。

 何がなんだかわからないまま呆然としていると、すぐ横から何か音のようなものが聞こえてきた。振り返ると潜水服の人物がこちらを見て、たぶん、ヘルメットの下で声を出して笑っていた。

 不思議そうにそのヘルメットをまじまじと見つめていると、その人は自分の首回りにあった固定具らしき部分を、グローブをした指でいじりはじめる。ガコリと小さな音がして、ヘルメットがとれて、その下から人間の頭部が顔を出した。

 まだ年若い男性だった。少し長めに伸ばした灰色の髪に、緑色の瞳を持った、顔立ちがやけに整った爽やかな風貌の好青年だ。そんな彼が表情に笑みを浮かべて、俺の姿を見つめて言う。

「ビックリした。それ、本当にどうなっているんですか?」

「それが……俺にもさっぱり」

 これが彼との、正真正銘初めての出会いということになったらしい。


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