記述4 素直な心の裏切りもの 第5節
マグナは地下水路の歩き方を知っていた。幅広な通路の真ん中に無機質なパイプラインが淡々と続いているだけの覚えづらい道程を、彼は迷うことなく真っ直ぐに進んでいく。その後ろ姿を俺とライフは懐中電灯を片手に持ちながら付いて行った。
三人の間にある空気は霜が降りたように冷え込んでいた。あの二人の言葉聞いてからはずっとこんな風で、俺も、彼女たちも、なかなか前向きな方へ気分を切り替えられずにいるのだ。散々な嫌味をぶつけられたマグナはすっかり口数を減らしてしまったし、ライフは何か思うところがあったのか真面目な顔で考え事をしているようだった。交わされる会話といえば「こっちに来て」とか「ちょっと止まって」とか、必要最低限なものだけ。きまずさを感じる。けれど、このきまずさをむしろ好都合だと思ってしまっているのだから、俺だって機嫌が良くないのかもしれない。
「ここだよ」
静けさの中で張り詰めていた空気の膜に、マグナがほんの少しの切れ込みを入れる。かけられた声に反応して顔を上げると、マグナの小さな指が示した先に通気口があるのが見えた。歩いている間にも何度か見かけた、何の変哲もない通気口だ。
通気口は壁の中に埋め込むように設置されている。カバー部分の隙間から奥を覗き込んでみると、機械の内部で大型の送風機がゴォゴォと風を切る音を鳴らしながら回っているのが見えた。カバーは真っ平らな壁面と一体化するようにピッタリと嵌め込まれているように見えていたが、マグナがちょっと触っただけで簡単に外れてしまった。それと同時に送風機の音も止まる。静止した送風機の羽根部分を手の平で押してみると、機械全体が奥へ奥へ、ゆっくりと押し込まれていき……隠し通路が現れた。誰が作ったか知らないが、随分と手の込んだ仕掛けを用意するものだ。
隠し通路の中は真っ黒な煤を塗りたくったみたいに暗かった。少し覗いてみたところで、マグナが何も言わずとも、この通路が地上に続いているんだろうなと直感できる。その一方で空気や風が吹き抜ける音はしない。安全の為に使わないときには出口を閉じるようにしているのかもしれない。
「今度こそ……出られるはず」
マグナはやや自信が無さそうに呟いた。
この二つ目の隠し通路は、一つ目の通路と比べてあまりにも狭すぎる。中肉中背の男性が、ほふく前進の体勢をしながらなんとか通れるくらいの道幅しかないのだ。ともすれば一人ずつ順番に入っていくしかない。三人が入り終わったらマグナがカバーを閉め直さなきゃいけないので、彼が一番後ろを進むことが決まった。そうなると自然に俺が一番手として隠し通路の奥へ入っていくことになる。その後にライフ、マグナと続く。
穴の中はとにかく狭い。暗い。地上に向かっているわけだから足場も急斜面で、両手両足を使ってよじ登るように進んでいかなけらばいけない。これがなかなか疲れる。
さらに、もう一つ文句を言うとすれば、この穴は清潔ではなかった。普段は誰も使っていない、煙突みたいに狭い穴の中を通り抜けるというのであれば、これくらい当然……と、思い切るだけでは足りない程度の障害が穴の内部には待ち受けていたのだ。ハッキリ言って、覚悟が足りないまま潜り込んでしまったことを後悔した。
埃が積もっているとか、蜘蛛の巣が張っているとかなら文句は言わないのだけど、そう、具体的にいうと、動物の排泄物の山とか、やたら大きい謎の虫の死骸とか、ぬるぬるした粘液を垂れ流している蛍光色の苔だとか、いっぱいあった。次々と現れる「そんなもの」から目を逸らし、顔を逸らし、服が汚れるのを我慢しながら暗闇の中を進んでいると、何か、何かだよ? 小さな何かが服の上をスイスイと這うように駆け登っていくこともあった。一匹、二匹、いや背中で立ち止まらないでほしい。やっと闇の中へ消えてくれたと思ったら、次がくる。
深く考えてはいけないんだ。今はこの穴を一刻も早く抜けることだけを考えていよう。
思考停止を駆使しながら、懸命に穴の奥を目指して前進する。とはいえ嫌なものは嫌。ひぇえー、ひえぇー、と心の中で悲鳴を上げているうちに、なんとかかんとか地上に出るためのマンホールの蓋を持ち上げる所まで辿り着いてみせた。
やりきった。ゴールだ。そうやって喜んでいられるのも一瞬のこと。
出口を守っていたマンホールの蓋を、ちょっと持ち上げたところで通路の中に流れ込んできたものは、真っ白に光る夕暮れ前の空の日差しと、濁って汚れて少しだけ乾いた外の空気と、城下街で暮らす人たちの狂乱に怯え逃げ惑う騒ぎ声だった。
人間が集団で走り回る足音が地面を揺らしていた。
「そっちじゃない! 砦の方まで逃げるんだ!!」
「ねぇ、どうしてこんなことになっちゃったの? 私が何をしたっていうのよ!」
「子供ぐらい、また作ればいいだろ!」
「逃げるな!!」
「殺してやる!!」
絶えず耳に飛び込む発砲音。ガツンガツンと金属の刃がぶつかり合う音。巨大な機械がエンジンを鳴らしながら街道を横断する時の走行音。耳障りがよくない。街中に何かが壊れる音が満ちていた。
ぐつぐつ、ぐつぐつ……誰かが耳元で呻いている声が幻聴みたいに聞こえてきたと思ったら、持ち上げたマンホールのすぐ横の地べたに、首から血を流した人間が倒れていた。必死に吸い込んだ空気が、フーッ、フーッ、と首に空いた穴の中から漏れている。その音が、助けを呼ぶ声が、マンホールの下から地上によじ登り切った頃には聞こえなくなってしまっていた。自分で作った血溜まりの上に寝転がっていた肉体は歳の若い女性で、洒落た柄のスカートの隙間には鈍色に光る貨幣が零れるくらい詰め込まれていた。
隠し通路は城下街のどこかにある路地裏に繋がっていたらしい。背の低い小屋を一つ隔てた反対側の通りからは色んな音が聞こえてくるが、マンホールのあった辺りには人の気配もないように窺えた。女性の死体が一つ転がっているだけで、比較的安全と言える場所だ。
少し遅れて地上に出てきたライフは、真っ黒に汚れたスカートの裾をパタパタと手で払いながら周囲を見回す。
「恐らく、商業通りの裏側ね。ディアも図書館に来る途中ですぐ近くを通ったんじゃないかしら」
あの奇妙な商品看板をたくさん並べていた大通りのことだろうか。だとすれば、王立図書館までの距離はそう遠くないはずだ。
「図書館にはライフの他にもスタッフがいたんだよね?」
「流石にとても心配ね。あれだけの揺れだったんだもの、他の部屋の本棚がどうなっていることやら……」
「するのは本の心配なんだ」
「貴族は避難訓練が得意なのよ。だからどうせ無事」
そうなんだ……と心の中で微妙に納得していると、ライフに続いてマグナも穴の中からひょっこりと顔を出した。横に倒れている女性の体にビックリしながらも、おどおどした調子で地上に上がってくる。マンホールの蓋を元の位置にキチンと戻したところで、彼もまた周囲を静かに見回した。大きな目をさらに大きく見開きながら、通路の向こう側から聞こえてくる騒ぎに思いを馳せている。顔色は真っ青だ。
「マグナくんは、どうするの?」
答えのわかりきった問いだったけれど、きいてみた。
「ワタシは…………大丈夫」
震えるような小声で返事をされてしまったけれど、何が大丈夫なのかさっぱりわからない。大丈夫なわけがない。
彼はこの騒ぎの中を、どこへ向かって走り出すつもりなのだろうか。仲間がいるとは言っていたが、再会できる保証はあるのだろうか。安全な場所は? 頼りになるものは? いざという時に使うものは? 俺たちがマグナを安心して見送るに足るだけの準備が、圧倒的に足りていない。そういう風に見えた。
それなのに彼は「どうするの?」という質問に「大丈夫」と答えたのだ。
「私の家まで付いて来てくれれば、あなたを匿ってあげることもできるのよ? この騒ぎが収まるまででも、これからどうするかをちゃんと決められるようになるまででも……」
「……迷惑は、かけられないから」
真っ直ぐに見つめるライフの視線から目を逸らし、俯き、マグナは「ごめんなさい」と続けて言った。かぼそい声だ。泥だらけな服の裾をぎゅっと握りしめ、今にも泣きそうな顔で地面を見ている。
それ以上は何も言わなかった。マグナは黙ったまま身を翻し、路地裏の奥に広がる喧噪の先へ向かって走り出してしまった。
その勇敢な選択を、ライフも、俺も、非難できなかった。
彼の小さな後ろ姿が曲がり角の向こうへ消えてしまうのを見送ったと共に、俺たちは何とも不甲斐ない気持ちを抱えたまま王立図書館のある方へ向かって歩き出した。




