記述26 機械仕掛けの神妃 第5節
翌日、病室の窓から日光が差し込む眩しさとともに目を覚ました。椅子に座った体勢のまま、ベッドに顔をうずめて眠ってしまっていたようだ。
部屋の中にはエルベラーゼの姿が無い。丸めていた背中を伸ばして立ちあがろうとすると、何かがカサリと音をたてて床に落ちた。一枚の紙切れだ。拾って見てみると、それは几帳面そうな文字と真っ直ぐな線とで書かれた手書きの地図だった。目的地と思われる場所の下には「おはようございます」と「彼はここで儀式をしようとしています」とのメッセージが添えてある。おそらくラングヴァイレが残したものだろう。早く来ていたのなら起こしてくれればいいのにと思ったが、そこまで都合よく彼らは動いてくれないのかとも思い直した。
壁にひっかけられたデジタル時計の数字はまだ早朝まもない時間を示している。窓の外から見える景色も、まだいくらか霧がかっている。彼らは随分早くに出発したらしい。
手書きの地図を手の中に握り込み、病室を後にする。鍵はかけなくてもいいだろう。そもそも持っていないからな。
地図に書かれていた場所はイストリアの街から南にしばらく進んだ先の海岸だった。病院を出てからすぐにバイクをまたぎ、指定された場所に向けてタイヤを走らせる。
街を出るとすぐに何も無い荒野に出た。高低差の激しい大地の内、バイクでも走れる道を選びながら、南へ、南へと進んでいく。しばらくして前方に背の高いダムか塀のようなものが見えてきて、海が近いことを察した。バイクの速度をあげる。高い塀は海が満潮になった時に荒れ狂う波を防ぐために造られた堤防だ。
堤防のふもとにバイクを駐めて、近くにあったタラップ形式の梯子を使って堤防の上部へ登る。堤防の上に立つと、南の方角から強い風が吹き抜けてきて、髪が大きく波打った。それとともに潮の臭いが混ざった異臭が鼻の中へ入り込み、生理的な吐き気がこみ上げてきた。生物が腐った後のような、嫌悪感をもよおさずにはいられない臭いだ。それは海の底から絶えず漂ってくるもので、この大陸を蝕む環境汚染の象徴だった。
長城のように規模が大きな堤防の上から見据える『海』は相変わらず記憶の中のものと変わらず、滅びの気配に満ち満ちている。嫌悪と拒絶の感情を吐き捨てるような気持ちで顔を逸らし、走り出す。ラングヴァイレが置いていった地図にはこの堤防の場所が記されていた。近くにイデアールがいるだろう。
そう思った矢先、西に向かって長く続く堤防の果ての方に黒い影がいくらか見えた。人間が立っている。姿がバレないように柱に身を隠しながら近付いていった。人影の正体はアルレスキュリア人の集団だった。黒い軍服を着ているものもいれば、着ていないものもいる。白衣もいた。彼らは皆一様に同じ方向を見つめている。視線の先に自分も目をやり、そこにあの二人の姿を見つけた。
お綺麗なドレスを身に纏ったエルベラーゼが堤防の端に立ち、海を見つめていた。あの長い氷色の髪が強風に吹かれてざわざわと無造作に揺れている。そして彼女の少し後ろにイデアールが立っていた。
柱の影に身を隠しながら、様子を見守る。それからしばらく、彼らは身動きもロクにしないまま、ただ静かに堤防の上に立ち続けていた。違和感のある沈黙が続く。
「何のつもりだ」
沈黙をやぶったのはイデアールだった。
「お前に正誤を定める権利などない」
心ない罵倒が一つ、静かに佇むだけのエルベラーゼの白い背中を叩いた。
「何も望まない。何も願わない。ただ従う。人の意思に、自然の流動に、時の経過に。誓ったはずだ」
イデアールの足が前に出る。彼はエルベラーゼのすぐ後ろまで近付くと、腕を伸ばして彼女の長い後ろ髪を鷲掴んだ。さらに掴んだ腕を引き、無理矢理彼女の体を自分の方へ向けさせる。エルベラーゼの顔に表情はなかった。血の気というものを感じさせない、精巧に造られた人形のように綺麗なだけの顔をしている。その真ん中にある輝く青の宝石が二つ、イデアールの顔を虚ろに見据える。
「そうすれば楽になれる。心を病む必要も、傷める必要もなくなる。全てを他者に委ねろ」
イデアールの肩から伸びた機械の腕がエルベラーゼの首を掴んだ。そのまま腕を上に掲げると、身長差のために女の軽い体が易々と宙に浮く。「うぐり」と小さな声が漏れて、首を掴む握力が増したことがわかった。
「お言葉ですが、イデアール様」
白衣の男が無機質な声でイデアールに話しかけた。
「先にも発言させていただきました通り、分析結果では人造白龍の神経を介した神力の発動が上手くいかなかった原因は他にございます。それに仕様上、王妃様がご自身の意思で反抗の意を示すことはできないはずです」
「仕様など神力を持つ本人の望みさえあればいくらでも変えられるだろう」
「それは……」
「私にはわかるぞ。この女は今、何かを惜しんでいる」
宙に浮かぶエルベラーゼの体がビクリと痙攣する。首を絞める力がさらに強くなった証だ。王妃の顔は酸欠のために青白く変わりつつあり、口からはその美しさから発されるものとは思えない歪んだ嗚咽が漏れた。
「この荒れ果てたドブ色の海を前にして、何を今更思いとどまる必要があるというのか!」
「陛下、このままでは首の骨が折れてしまいます!」
見守る軍人たちの中から一人の人間が前に出て、イデアールに制止の声をあげた。赤い服を着ていなかったから一瞬わからなかったが、テディ・ラングヴァイレだ。ラングヴァイレはエルベラーゼを庇うように二人の間に果敢に割って入り、イデアールが掲げる機械の腕に手を添えた。
「また繋げればいい。所詮は人形だろう」
「痛みは感じています!」
「ヤツは耐えられると私に言った。全てを託した」
「ですが……」
「お前はやけにこの女に入れ込んでいるようだな」
ラングヴァイレの表情が固まる。
「赤軍隊長などという立派な役職を捨ててまでして専属護衛になりたがる理由など、他に何がある。気に入られようとしているのか? よもや王の妃に手を出そうと企てているわけでもなかろうに」
イデアールが王妃の首から手を放す。ドサリと崩れ落ちた体がそれ以上倒れないようにラングヴァイレが咄嗟に支え、助け起こす。そうしている内にイデアールは腰に引っ提げた鞘から、銀色に閃く長剣を引き抜く。
「貴様如きが口を挟むことではない」
銀色の刃がラングヴァイレの脳天に向けて振り下ろされた。一連の動作は流れるように素早かった。そこには一片の躊躇も含まれていない。ラングヴァイレは咄嗟のことに驚きつつ、なんとかして刃が己の頭をかち割るより先に体を後方へ傾けた。刃の切っ先が彼の胸当たりの衣服を縦に切り裂く。血は出ていない。しかし、体を傾けた方向は悪かった。ラングヴァイレとエルベラーゼが立っていた場所は堤防の端で、そちらの方向には壁どころか足場すらない。ゆえに、体勢を崩したラングヴァイレの体は宙へ放り出され、落下する。
イデアールがフンと得意げに笑うのを見て、俺は隠れていた柱の後ろから飛び出し、落下するラングヴァイレの方へ飛びついた。
空中で羽根を広げ、人体が落下するより早い速度で飛行し、彼の体を腕の中へ抱き留める。
助けられたラングヴァイレは驚いて仕方ないといった表情で俺の顔を見つめ、衝撃のために絶句していた。