記述26 機械仕掛けの神妃 第4節
ぎこちない空気を流したまま、しばらく無言の時間が続いた。
目の前にはあのエルベラーゼ・アルレスキュリア。本人かどうかは不明。絶世の美女と謳われるに十二分な美貌を持ち、今は淑やかにただベッドの中に半身を沈めてこちらを見ている。
窓から射し込む陽の色は徐々に鮮やかな朱に変わり、色素が薄い彼女の長髪を後ろ側から火でもくべるように赤く燃やした。
静かすぎるほど静かな病室の中。空の色が変わった後の夕焼けの色は、かつてのそれとさほど変わらず、だから視線を逸らす対象としては適切だった。そんな風に俺が窓の外ばかり見ていることに気を遣ったからだろうか、ずっと静かにそこにいただけの彼女が、沈黙の中、ついに口を開いてこう言った。
「窓を開けましょう」
驚くほど可憐な旋律をもった女の声が、しっとりと鼓膜を震わせた。
「大丈夫。逃げ出したりなんてしないから」
口角をわずかに湾曲させて、エルベラーゼは俺の方を見て不器用な笑みを浮かべる。
それからベッドの中でごそりと物音をたてる。自分でする気なのだと気付いて、急いで俺は椅子から立ち上がる。
「俺がやる」
動くことをやめたエルベラーゼが瞬きを止めて、俺の顔をまた見つめる。その表情を横目に見てから部屋の窓に近づき、鍵を開けた。からりとスライド式の窓がサッシの上を滑る音。部屋の中に涼しげな空気が入り込み、それとともに遠く反響する街の賑わいがこだまするように聞こえてきた。少し前に飛んでいった鳥の鳴き声はもうどこにもなくて、代わりに窓の外には茜色の空が広がっていた。
しばし立ち止まって窓の外の景色にまた目をやっていると、すぐ後ろから「ありがとう」の声が聞こえてくる。
振り返り、窓と夕焼けを背にして立ち尽くす。窓から入り込んできた柔らかい風がエルベラーゼの細い髪をふわりと揺らし、白い肌の上を撫でるように転がった。ふとその肌の露出が少し多いことに気付く。
「その格好じゃ寒いんじゃないのか?」
「平気。寒くなったら布団の中へ入ればいいの」
それもそうかと思いつつ、意外に会話できるヤツなんじゃないかと考え直した。
「ねぇ、話し相手になってくれるのでしょう?」
長い髪をベッドの上にたらしながら、彼女は少しだけ首をかしげる。
「ラングヴァイレが勝手に決めたことだけどな」
「私のこと、怖い?」
急に困る質問がきてしまった。
「怖くはない」
「でも、とても緊張しているでしょう?」
そうだろうか?と内心で思いながら、口では「気のせいだ」と答えた。
扉の前まで戻り、椅子を持ち上げてベッドの側に移動させる。そこに腰掛け、近くなった距離からエルベラーゼにたずねる。
「これでいいのか?」
エルベラーゼは大きな宝石色の目を薄く細めた。その無防備な表情の変化に戸惑いを感じた。
「オマエの方こそ、俺が怖くないのか?」
「怖がるところなんてどこにもありませんよ」
「初対面の相手にそんな風に言われることは滅多にない」
「初対面ではないもの」
そこで自分が過去に生前のエルベラーゼと出会い、会話していたことをまた思い出した。しかしあの程度の会話、初対面と同じだ。いやそれ以前に、彼女はエルベラーゼの死体を復元しただけの存在であり、記憶などあるのだろうか?
「オマエはエルベラーゼじゃない。だったら一体、何者なんだ?」
「何なのでしょうね」
率直で不躾な質問をしたはずなのに、エルベラーゼは首を傾げるだけだった。
「もう死んでいるはずなのに」
今度は先ほどラングヴァイレから聞いた『自殺』の言葉を思い出す。
「じゃあ、エッジ・シルヴァは?」
「その話はしないで」
「なぜ?」
「おねがい」
どこか弱々しげに目を伏せるエルベラーゼの横顔を見て、それ以上追求することはできなくなってしまった。エッジでもないというのなら、オマエは本当に誰なんだと、心の中には困惑が浮かぶ。その迷いを賢く察したエルベラーゼが言葉を続ける。
「道具だというのは確か。いいえ、人を殺したから、兵器かしら。私は、イデアール様とアルレスキューレ王制国家が所有する、一つの兵器。それだけなのよ、きっと」
「それにしては随分と人間らしい顔をしている」
「この顔はエルベラーゼのものよ」
「そうじゃない。表情の話をしている」
「……私、ちゃんと笑えていないのに?」
「だからだろ」
腑に落ちない、という様子で僅かに小首をかしげる、その仕草に子供のような赴きを感じ、思わず目を逸らした。
それから次に頭の中に浮かんだのは、あの男の顔だった。
「オマエ……アイツのこと、どう思ってるんだ?」
「アイツ?」
「イデアール様のことだ」
「……お優しい人よ」
「オマエには?」
「手厳しいことを聞くのね」
エルベラーゼが口元に手を添えて、微かに笑う。ここにきて微笑むという言葉が相応しいだけの表情をやっとしてくれた。よりによってイデアールの話をしている時に、というところが、少しばかり不愉快だった。
「でも、本当に優しい人なの」
「……知ってる」
長い付き合いだったから、それくらいのことは知っている。
「なぜ逃げ出さない?」
イデアールのことを頭の中に思い描きながら、微笑むエルベラーゼに問いかける。彼女の笑顔がまた少し色を薄め、冷たい人形の顔に戻る。
「私はイデアール様と、理想を共有しているの。自分一人だけでは叶わない、素晴らしい夢」
「その理想を叶えるために、ただ使われるだけの道具に?」
「……人間になりたいなんて、思ってはいけないの」
その言葉にだけは、何も言い返せなかった。同時になぜ彼女の口からそんな言葉が出てしまったのかと思う。
「なんでも願えば叶う神様が、人間になどなってはいけない」
何も望んではいけない。望めば、全てその通りになる。己の望みが叶った裏側で、己以外の望みが途絶える。祈ること、願うこと、それが誰かを傷付ける。
「私には、自分の理想のために誰かを傷付けるだけの勇気がなかった。でも、あの人にはある」
イデアールはこの歪みきった世界を、美しかった頃の景色に戻そうとしているのだろう。
彼は病床の中で、何度も、何度も、かつて過ごした美しかった世界の夢を見ていた。だから誰よりもよく覚えている。その素晴らしさを信じて、他の誰に何と言われようとも愛し、慈しみ続けることを心に決めていた。
「だがそれは、今ある世界を蹂躙することに違いない。存在が消えることは死んだことと同じ。人であれば立派な殺人だ」
「かつて失ったものを取り戻しているだけ。存在しなかったはずのものを消して、元に戻していく」
「狂ってる」
「わかっている。だからそう、あなたは正しいままでいて。全部覚えていられるあなたなら、きっと私たちが死んだ後の世界を光差す方へ導けます」
「まさか」
冗談めかしく笑いとばす。けれどその後にエルベラーゼは何も言わなくなる。
沈黙がまた続いて。続いて。それから……
「俺にオマエを裁けと言っているのか?」
頭に浮かんだ厭な予感を彼女へ伝えた。エルベラーゼは顎を引いて、わずかに頷いたように見えた。
「いつでも構いません」
「裁くのはオマエじゃない。イデアールの方だ」
「あの人が言う通り、あなたは本当に、優しい人ですね」
囁くように呟く。花弁のように華やかに染まった桃色の唇が揺れて、何か言おうとして、また閉じる。それから彼女はベッドの中に埋まっていた左腕を引き出して、俺の前へゆるやかに差し伸べた。
「ねぇ、手をつないでもいい?」
「なぜ?」
「とても良い夢が見られそうだから」
「イデアールの夢より?」
「悪いことだけど、いいじゃない。今だけよ」
エルベラーゼと手の平を重ねる。すると重ねた肌を伝って、生きた人のものとは思えない冷たい温度が伝わってくる。彼女が指を絡める。握り返してやると、相手はそっと手の力を抜く。されるがままに。
「暖かい手をしていますね」
「オマエはとても冷えている」
「半分死んでいるようなものですから」
それから、ゆったりとした時間が流れた。
窓の外からは賑やかな夜の喧噪が届き始め、茜の空も今や濃紺の中に沈みきった。
あとしばらくは陽光が届く、そんな半端な黄昏時。灯りを付けていなかった室内はすでに暗くなっていて、けれど手を握り合っているために立ち上がれず、蛍光灯の電源を入れることはできない。
暗がりの中でもよく見える。彼女は雪のように白い手をしていた。冷たい。こうして握りしめているだけで、己の熱が伝って溶けて無くなってしまいそうに思えるほど、繊細で、かよわい。
俺は、その手の先に繋がる腕に傷の一つもないことをもう一度確認して、また安堵する。
「その……戴冠式の時は、悪かった」
「何のこと?」
「覚えていないのか?」
「彼が目を覚ましている間のことは、何にもなの」
「そうか……じゃあ、本当に今だけなんだな」
しばしの間を置いて、傷の無い腕を伝った視線が肩まで届き、艶やかな輪郭のところでスッと止まる。彼女は俺の目を見つめていた。
「あなたはとても優しいわ」
顔を見る。自然と、見つめ返すかたちになる。
そして暗がりの中、僅かな光を集めて青く閃くエルベラーゼの瞳が、濡れていることに気付いた。
ハッとして、握った手の平に力を込める。気付かれたことに気付いたエルベラーゼは顔を逸らし、何も無いベッドシーツの上に視線を落とす。長い髪がシルクのカーテンのように彼女の横顔を隠した。その髪に手を伸ばし、そっとかき分ける。
泣いている。
俺は彼女の目元に手をやって、それをぬぐう。そのまま顔に添えた手を動かし、彼女の顎をこちらへ向ける。触れれば壊れてしまいそうな泣き顔に触れてしまった、己の軽率さに感謝した。
深い瞬きを一つして、もう一度開いた景色の中に彼女がいる。確かめてから顔に触れていた手を離そうとした。その手へ彼女は顔を自分から近づけ、頬ずりをする。柔らかい感触が指に触れ、熱をおびる。
「私、あなたのことを愛しているの」
甘い囁き一つ、病室の白いベッドシーツの上にこぼれ落ちる。
それとともに西の果てに太陽が沈みきり、世界は夜闇の中にとっぷりと浸かりきった。
「あなたは私のことを知らないでしょう」
「知らないな。だが……」
「泣かないでって顔、してる。優しいからそんなことを言えるの」
雫が落ちる。頬をつたい、添えた手の平にひたりと染みる。夜風が吹いて、濡れた場所だけに痛みにも似た冷えを感じた。
「オマエだってそうじゃないのか?」
「もう人殺しよ。相応しくなんかない」
「俺も……人を殺したことがある」
「大丈夫。あなたの罪は私が守るわ」
「守る?」
「だから、どうか安らかに」
指先に髪の毛の繊細な感触がこすれて、触れあっていた頬と手の平とが静かに離れる。エルベラーゼは口元と眼差しとに微笑を浮かべ、俺の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。瞳はまだ濡れている。頬にはまだ涙がつたった痕がある。
微笑む彼女の口から言葉が漏れる。優しい響きをもった声だ。けれど確かに、おびえが混じっている。ふるえている。泣いている。彼女は今、何かを求めている。
「あなたは私のことを知らなくとも、私はあなたを愛している」
手に入らないもの。届かないもの。諦めたもの。欲しくて欲しくて、仕方なかったもの。
「だから……」
今だけは欲張りでいさせて。
「迎えに来てくれる時を待っています。あなたの刃が私の胸を刺し貫く、その時を」