記述26 機械仕掛けの神妃 第2節
黒軍兵との戦闘から離脱した後、しばしの間草葉の影に身を隠してからさらに場所を移動するために歩き出した。やたらと広い病院の外庭には身をひそめるための障害物が多く、おかげで戦闘が起きた個所から誰にも見つからずに遠くまでやってこれた。
さてこれからどうするか。ホライゾニアに協力を求めず一人でここまで飛び出してきた傍ら、できることには限りがある。武力で蹂躙してしまおうと思えば簡単なのだが、一般人も過ごしている病院で必要以上に暴れてしまってはこちらの名誉に傷がつく。どうにか戦闘を最小限に抑えてイデアールに接触したいのだが。
思案を巡らせていたところで、不意に前触れもなく目の前の草叢から物音が聞こえてきた。こちらへ着実に近づいてきている。誰かいるのかと思って身構えたところ、姿を現わしたのはなんと見知った顔。気だるげに垂れた緑色の両目に、一つにまとめた灰色の長い髪、飄々とした雰囲気をまとった男。
「一波乱あったみたいだねぇ、ソウドの旦那」
愉し気に話しかけてくる様子を見てこちらも警戒が解け、肩に入っていた力が抜けた。
「なんでこんなところにいるんだよ、ディノ・トラスト」
「この辺りにいれば旦那が通りかかると思って先回りしてたのさ」
「さっきの戦いを見てたんだな? あの黒軍兵は一体何なんだ。またオマエの父親の仕業か?」
「戦力強化のために黒軍の一部に戦闘能力を増強する魔改造を施したっぽいねぇ。まぁ、先に龍の加護に手を染めたのはそっちなんだから、この辺はお互い様さ」
やっぱり龍が関係していたのか。
「まさかオマエも何かされてないだろうな?」
「俺はほら。見ての通り今は黒軍の制服を着ていないでしょう?」
そう言われてみれば確かにいつもの黒い服を着ていない。
「黒軍を裏切って逃走中。今はテディのためにこうして暗躍しているところさ」
何ということでもないようにニコリと笑って全てを誤魔化す。黒軍を敵に回すということは、この大陸で最も恐ろしいダムダ・トラストを敵に回すということである。いくら血縁者とはいえ、とても簡単に選択できる道ではない。
「オマエ、本当にラングヴァイレに甘いんだな」
「十も歳の離れた幼馴染みってのは誰の眼から見てもかわいいもんだぜ」
「だから結婚できないんだ」
「それは旦那も一緒でしょ」
「なんだと?」
「逆ギレしなさんなって。ところでそんな、記憶喪失で長らくお相手さんに恵まれなかったソウドの旦那に、朗報が一つある。今回はそれを伝えに来た
「は?」
「旦那の見立て通りイデアール様は確かにこの病院の一室にいらっしゃるが、見ての通りメンテナンス中で取り合ってもらえない。逆にいえばメンテナンスをしている間は何か変なことを起こすこともない。時間があるということさ。旦那からしても、横になって何も言わない国王陛下の寝首をかいて満足するようなワケでもないでしょ?」
ディノにたずねられ、「まぁその通りだ」と返すことしかできない。
「だったら空いている時間の内に、ソウドの旦那に来てほしいところがある。絶対に損な思いはさせないさ」
「オマエの言っていること、死ぬほど胡散臭いぞ」
「まぁまぁ、罠だったとしたらそこで俺の首でも飛ばしてスッキリすればいいだけだ」
「俺はそんなに物騒な性格をしているように見えるか?」
「少なくとも、罠くらいでは怒ったりしないかな。だから大丈夫でしょ、いいからついてきな」
話を勝手に終わらせるとともに、ディノはスタスタと歩き始めてしまう。その背中が少し離れるのを見送ってから、自分も仕方ないなと思いながらついていくことにした。
庭からまた病院の中に入り、ごく普通の調子でエレベーターを使って階層を移動する。建物の中は先ほどの戦闘に気付いたのかいくらか騒々しくなっているが、警備が少し慌ただしくなった程度で一般通院者たちはまだ暢気に廊下のソファでくつろいでいた。そんな彼らの横をディノは素知らぬ顔で通り抜け、自分もなるべく自然な調子を装いながらついていく。
そうして辿り着いたのは、一見して他の病室と変わらない、何も警備の一つも見当たらない扉の前。ディノが立ち止まり、病室の扉をノックする。中にいる誰かが立ち上がる気配がして、少し待った後に扉が開く。
「お待ちしておりました」
扉を開けたのは、あのテディ・ラングヴァイレであった。まぁディノがいるということは出てくるだろうなと思っていたから、ここまでは予想の範疇である。しかし開いた扉の間から見えた、部屋の奥にいる人物の姿を見て、驚く。真っ白なベッドシーツに身を沈め、豊かな氷色の髪を枕の上に広げて横たわるその姿はまさしく……エルベラーゼ・アルレスキュリア。
「じゃ、俺はここで」
と言って、ディノは口笛でも吹きそうな調子で立ち去ろうとする。ちょっと待てと声をかけようとしても、彼はこちらに背を向けたまま、ふざけたように手を振って別れの挨拶をしてくるだけだった。
「中へどうぞ」
ラングヴァイレの誘導に従い、俺は黙って病室の中へ入っていった。