記述25 龍の墓場 第4節
即席で結成された大渓谷の調査団は午前中の内に出発の準備を済ませることができた。訓練された調査団員が操縦する小型の探査船に全員が乗り込むとともに、崖底へ向けた冒険が始まる。
探査船は険しい断崖絶壁の間をゆっくりと通過し、みるみる内にほの暗い地底深くに降下していく。船体に取り付けられたライトの明かりを頼りに安全を確認。深くに進み、空からの日光が届かなくなり、周囲が真っ暗な闇に支配されたところで探査船は崖の底まで到達したことを確認し、船体を着地させた。
ハッチを開けて外へ出る。足元には泥と土で濁った水が流れていた。泥水は見たところ南から北へと流れて行っているようだ。中央雪原が無くなった後も雪山から溢れ出ていた水流は途絶えず、別の場所を通って渓谷の底に流れ着いている。そのことに人づてではなく自分の眼で確認したことに少しの皮肉を感じ、同時に不愉快な心地になった。
「この辺りはまだ空気中の汚染濃度が低いようですね」
計測係の調査団員が機械を片手に周囲の環境を調べて回る。間もなくしてある程度の安全が確認されたところで、一同は列に並んで順々に崖底を徒歩で移動し始めた。
道中は探査船が通行できない狭い通路が続く。整列した調査団の先頭には最も体が丈夫なメタルを歩かせ、その後ろに俺がついて彼に指示を出すことになっていた。探検素人のディアたちは調査団の精鋭に挟まれ、守られるかたちで列を守って大人しくしている。ちなみに同行しているのはディアとウルド、ブラムの三人だけで、マグナとライフは付いてくる必要が感じられないということで安全のために地上に残っている。懸命な判断だ。
崖底の探索は危険との隣り合わせ。足元の岩場は高低差が激しく、硬く頑丈な一方で崩れやすいため、上方からは大なり小なり様々な大きさの岩が落下してくる。それゆえ上方からの落下物に頭を割られないよう注意するのは勿論なのだが、一方でこの地においては足元にも注意を向けなくてはならない。いつどこの岩肌の表面から毒の液体が染み出ているかわからないし、軽率に踏んでしまうと靴底が溶けて肌に触れてしまうからだ。
指定されたスポットまでの道程はそれなりに長く、周囲は暗い闇に包まれたまま。調査用の投光照明のおかげで明るさの確保はできているが、光の届かない範囲に何があるかはさっぱりとわからない。できる限り慎重に耳を澄ます。些細な異変も見逃さないように、音と空気の震動に細心の注意を払う必要があった。
「下り道が続くな」
「岩に毒液が付着していないか確認しろ」
「足場が狭い。一人ずつ進もう」
暗い崖底を段差の大きな階段を登り下りするように、ゆっくりと奥へ進んでいく。
周囲を見ると、茶色かった景色が乳白色に変わっている。狭い通路のそこかしこには鍾乳石が地面から天に向かって鋭く伸びている様が散見されるようになっていた。俺たちは気付かぬうちに洞窟の中にでも入っていたのだろう。崖底を大きな音をたてて吹き荒んでいた風も今では随分少なくなり、防護マスク越しに感じるその場の空気もどこかしらじっとりと重たく沈んでいるように感じられた。
その頃には狭かった道も開け、一団は崖の底を二列三列と広がって歩けるようになっていた。
「この辺りで一度休憩するよ」
後方を歩いていたレクトが一団に向けて声を上げる。それを聞き入れ、指示にしたがって各人がその場で休憩を始めていった。投光照明の白い光をキャンプファイヤーのように囲みながら、それぞれが思い思いに岩の上に腰を下ろす。
俺は大振りの鍾乳石に背を預け、背負ってきたカバンの中から小型端末を取り出した。電源を入れてみると、電波が切れている。何の影響か知らないが、位置情報を知らせる機能も壊れていて、地図の確認もできなくなっていた。見れるのは時計くらいなものか。
時間の経過は早いもので、すでに日暮れ前といった頃合い。調査団の面々に疲労が見え始めているのは勿論のこと、空腹の面でも俺たちは制限を受けている。崖底に充満する毒素の関係でマスクを外せないため、探索中は飲食ができないのだ。体力を考慮して長時間の探索は避けたいと、事前の打ち合わせの中でも厳しく話し合っていた。リーダーを務めるレクトは休憩の間に計画を練り、探索を続行するとしても残り一、二時間が限度であると説明する。帰り道分の体力も残さなくてはならないためだ。
「目的の場所までは後どれくらいかかりそうだ?」
俺はその場にいるメンバーの中で一番疲れた様子を見せている人物に声をかけた。
「もうすぐそこだよ」
ディアは疲れた見た目のわりに軽い調子で返事をすると、何もない闇の奥を真っ直ぐに見据えた。
「私も、何か感じます。黒い……影のようなものが、暗闇の中に蠢いているような」
ブラムが会話に混ざって不安げな声を発する。その黒い影のようなものについては、確かに俺自身も感じていた。投光照明の光が届かない天井高くを見上げる。何も無いはずの虚空の間を、おぞましい程の存在規模をもった何かが、今も奔流している。
「ディアのその『感じる力』は本当みたいだな。一体いつから手に入れたんだ?」
思い立ち、質問する。ディアは少し考える間を空けた後に、答えた。
「この間アシミナークの湖に行った時からだ」
「そこで何を見た?」
「……なんだろう。赤い球体に会った」
「赤い球体?」
「何かを言っていたんだ。それに返事をして、目が覚めたらこうなってた」
「夢を見たってことだな」
「単純に言っちゃえばね」
周囲で話を聞いている調査団員たちはディアの言葉を訝しげな様子で聞いている。龍に対する見識を持たない者たちの前で話す内容ではないなとお互いが悟り合い、それ以降は二人して会話をやめた。
けれど会話をやめた後も休憩時間はまだ残っている。そこで、さっき時計を確認するために取り出した小型端末がまだ手の中にあることを思いだし、俺は時間つぶしに画面をいじることにした。
先も確認した通り、時計くらいしか機能しているものがないのだが、メッセージ欄ならばいくらでも見ることができるだろうと思った。直近のやり取りでも見返しておくかと操作を始めた、その指が、ふと、止まる。ディアたちと再会することを決めた、もう一つの理由の方を思い出したからだ。
しかし、それこそ今聞くことじゃない。
雑念にも似た思考を払うように画面から目を逸らす。急に何もする気が起きなくなり、電源を切った端末を荷物の中に放り込んだ。
そこで不意にメタルが「霧が出てきました」と声を発した。
すぐに顔を上げて確認するが、一見しただけでは変化は感じられない。しかしメタルが言うからには本当なのだろうと、さらに注意深く目を凝らしてみる。すると、徐々に、周囲の景色が暗くなってきていることに気付いた。やがて霧らしきものは目に見える煙の形状を持ち、重たく地面にのさばり始める。
休憩をやめた一同は荷物を背負い、その場から離れるように移動する。しかし後退したところで霧の量は減らず、周りはどんどんと煙に包まれて暗くなっていく。
「ロープでお互いの体を繋いで、はぐれないようにしておこう」
調査団員の一人が提案し、賛成する。ロープは各人の体にしっかりと結びつけられ、これで霧の中でもお互いを見失うことはなくなった。
かといって安心できるわけでもなく、そうしている間にも霧はどんどんと濃度を増していき、分厚くなった霧の層は投光照明の光すら遮り、ついに視界全体を暗い闇が覆い尽くすほどになってしまった。
険しい崖下の環境で視界を奪われてしまった以上、闇雲に移動すれば必ず負傷してしまう。一同は体に結びつけたロープが隣の人間と繋がっていることを何度も確認しながら、深い闇の中で霧が晴れるのを待ち始めることにした。
十分、二十分、三十分。
時計も確認できない中、長い時間が過ぎていったことだろう。
しかしどれだけ待ったところで霧は晴れず、むしろどんどん深く、濃く、悪化しているようにすら感じられた。
「これじゃあ埒が明かないな」
思わずその場で文句の言葉を口にする。
「投光照明はどうなっているんだ?」
背後を振り返り、何も無いながらも人がいるはずの方向へ声をかける。しかし、様子がおかしい。
「おい。聞こえているのか?」
誰からも返事が無い。
体に結ばれたロープを引っ張り、手繰りよせるようにしながら移動すると、伸ばした手の先に確かに人がいる感触があった。それにも関わらず、応答がない。同じように直接腕を伸ばして確認してみると、周囲にはきちんと調査団のメンバーは集まっている。
まさか、この霧のせいで何も聞こえなくなっているのか?
だとすればこの状況、視覚の他に聴覚まで奪われていることになり、非情に危険だ。かといってどう対処していいのかも、ハッキリ言ってわからない。凌ぐしか無いのかと思い、全員でその場にうずくまり、霧が薄くなることをただひたすらに待ち続けた。
時間ばかりが過ぎていく。
何も見えない。何も聞こえない。
霧の中に含まれている毒素の影響だろうか、心無しか吐き気に似た気分の悪さがこみ上げてくるようにもなり、頭痛もする。黙って座り込んでいるだけなのに体力はじわじわと消耗する一方だ。
もう二時間近くは経過したことだろう。
消耗しているのは他の調査団の面々も同じ。訓練された彼らはこの危険な状況の中、ただひたすらに待ち続けることが最善であると認識できている、はずだ。だが、辛抱しなくてはならないと頭ではわかっていても、焦りが生じる。
その焦りからだろうか、長く続いた沈黙の中、不意に、体に繋がれたロープが何者かによって引っ張られるのを感じた。誰かが立ち上がった? いや、違う。歩き始めた!
「どうしたんだ! じっとしていろ!」
届かないはずの声を上げる。当然のように応答はない。
一人が何かを始めてしまった。その誰かに続いて、もう一人も歩き始める。何も見えない暗闇の中。しかも足場は悪く、高低差も激しい崖の底。一歩間違えれば地の底に転落することは間違いない。けれど「やめろ」と制止する声は届かず……一方で、体に巻き付けられたロープはぐいぐいと引っ張られる。
オマエもこちらへ来いと、集団の意識がそう言っているようだった。ならばもう仕方が無い。体が縛り付けられている以上、彼らに付いていくより他は無い。
地面に手を付け、見えない足元に細心の注意を払いながら、調査団の面々はそれぞれが持つ危機管理能力のもとに崖の底を光の頼り無く移動する。
少しずつ、少しずつ。地の底を這うように、ゆっくりと、転ばぬように、足を取られぬように、入念に注意を払って先へ進む。
もはや前進しているのか後退しているのかすらわからないけれど、しかし、何故だかこのまま事態を打開できるような気が、不思議と心の内に生まれ始めた。
俺たちは一体どこへ向かっているんだ?
何も無い暗闇の先、命綱が真っ直ぐに伸びる向こう側。心の中で不安まじりの疑問を浮かべ、一方で止められなくなった足を、前へ前へと、慎重に、一歩ずつ進めていく。
そこで ゴオォッ と、何かの音がした。
ずっと静止していた鼓膜がやっとのことで揺れたのだ、聞き逃すはずがない。しかし幻聴という可能性はあるだろう。耳を澄まし、音がした方へ意識を向ける。
ゴオオオオッ
また音がした。さっきより大きい。立ち止まろうとしたところで、巻き付けられたロープはさらに先へ進むことをこの場にいる全員に強い続ける。
歩く、歩く、その足取りが、ゴオゴオと鳴り始めた風の音にも似た何かとともに、徐々に、徐々に、軽くなっていく。
地面の凹凸が少なくなった。硬かった岩場ではなく、踏みしめた靴底の感触には柔らかい砂利が混ざっている。こんなところが崖の底にあるのだろうか。疑問に思いながらも、気付けば俺たちは何のためらいも無く平坦な道を歩くようにして、暗闇の中を一列に並んで、ただ歩くだけになっていた。
ゴオオオオオオ ゴオオオオオオオオオオオ
嵐のような音は進めば進むほどより一層強く、大きくなっていく。
ゴオオオオオオ ゴオオオオオオオオオオオ
やがて俺たちは、それが風の音ではなく、何か別の……あるいは巨大な存在の『声』であることに気付き始める。
ゴオオオオオオ ゴオオオオオオオオオオオ
声は、この谷底にやってきた人間の全てを拒絶しているようにも、歓迎しているようにも聞こえた。
暗闇はまだ続いている。けれどもう、足取りは軽く、俺たちはほとんど迷わずロープが引かれる暗い道の向こう側へ、歩いているだけだった。
そしてついに……
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ
と、一際大きな叫び声が空間全体を支配するように広がり、俺たちの頭上を豪風のように通り過ぎていった。それとともに、霧が晴れる。一瞬にして、黒く重たく充満していた霧がどこかへ消え失せ、投光照明の光が自分たちの体と周囲の景色を映し出すようになる。眼球が役割を取り戻すと共に、耳も、聞こえるようになった。
ワアッと自然に湧き上がる歓声。
その視界の先にあったのは、長く伸びたロープの先端で、こちらを振り返って笑っている、ディア・テラスの姿だった。