記述24 現人神と感受の旋律 第2節
ひとまず話に聞いた湖を一目見ておかなくては始まらない。そう話し合ってから、動物の元気な鳴き声が絶えず聞こえてくるにぎやかな家畜小屋を後にした。
湖がある町の北側へ向けてしばらく歩いていると、煤色の煉瓦屋根が建ち並ぶ穏やかな景色な中に鮮やかな色彩を持つ赤い輝きが混ざり込むようになってきた。その赤い輝きに見覚えがあった俺たちは、すぐにそれがアシミナークの湖の周囲を取り巻いていた赤水晶であることに気付いた。
白い森も集落の様子も変わり果ててしまっているが、この湖の方はどうだろうか。近くまで来たところで湖の全貌を見渡し、以前に見た記憶の中の景色と見比べてみる。大きさは変わっていないが、先に聞いていた通りに湖の中央に小島があり、古びた石の建造物があった。
「あの湿っぽいカンジがしなくなってるね」
ウルドが一言呟くのを聞いて、試しに顔に付けていたマスクを外してみた。すると、確かに空気が適度に乾いていて、異臭もしない。爽やかと表現すればいいものなのか、周辺に生え茂る植物の草葉の隙間から漏れる自然な香りが瑞々しく、風もひんやりとしていて心地よい。そよ風が一つ吹く度に波間に反射した陽光がきらきらと輝いていた。
地面から突き出した赤水晶の柱を避けるようにしながら、湖の水に靴底が浸るところまで近付いてみた。さらにその場でしゃがみ込み、手袋を外して湖の水に触れてみる。混ざり物が少ない、透明な水の感触は柔らかかった。
遠くで見た時には空の色を移し込んで群青色に染まっているように見えた水面は、すぐ近くから覗き込むと赤く見える。水底には赤水晶の欠片でできた小石がたくさん沈んでいて、濁りがないおかげでその一つ一つがよく見えた。
「ブラムが封印されていた、あの不思議な場所と似ているわね」
ライフが皆が思っていたことを代表するように発言してくれる。視線が自然にブラムの方へ集まった。
「あちらの小島に神殿が建っているのが見えますね。その手前の広場に、石像があります」
ブラムが小島のある方を指で指し示すので、ゴーグルの望遠モードを使いながら確認してみる。確かに神殿の建物の前に奇妙な生物の像が建っている。
「あれは神の姿を象った御神像です。私も実物を見たことがあるわけではないので整合性はわかりませんが、わかる限りでは守護龍ウィルダムを祭り上げるためのもの。この場所とウィルダム龍に深い関係があるのは確かなようです」
ブラムはそれだけ言って、すぐに口を閉じてしまった。つまりはそこまでしか自分にもわからないということだ。
「何にせよ、あの神殿に行くのが一番手っ取り早いってことか」
神殿に入るのは弔いの儀式が終わってからということになっている。だが、それまでの時間にもできることはあるだろう。そう思いながら湖のほとりをもう一度見渡してみると、陸地から湖に突き出した桟橋の近くに一隻の小舟と渡し守と思しき男性が立っているのが見えた。
「こんにちは」と声をかけながら近くまで寄ってみると、相手はかぶっていた大きな帽子を片手で軽く持ち上げながら「こんにちは、ルベラ・ジアーゴ」と挨拶を返してくれた。先に会った住民と同じように自分たちが外からの旅人であることを伝えた後、その流れで「アデルファ・クルトという人物のことを知りませんか?」と質問してみた。すると渡し守の男性は表情を大袈裟に変え、「君たちはあの人の知り合いなのかい!?」と驚きまじりの大声をあげた。「そうなんです」と素直に伝えると、男性はさらに気分をよくしてこう言った。
「だったら大神官様へ一度挨拶に行くといい。今日は儀式の予定があって神殿には入れないけど、大神官様なら町中の家に住んでるからね」
親切に家の場所まで含めて教えてくれた渡し守に「ありがとうございました」とお礼を言ってから、早速その大神官様という人物に会うためにその場を後にした。
教えられた通りの場所までやってくると、他の家とは少しばかり佇まいが異なる古めかしい一軒家が建っていた。表札などは無いため一見すると誰が住んでいるかわからないが、玄関前には立派な呼び鈴が一つ吊るされていた。早速その呼び鈴を鳴らしてみると、しばらく待った後に家の中から白い服に身を包んだ妙齢の女性が顔を出してくれた。
「私たちは今日、この町にやってきた旅人です。とある件でこの家にいる大神官様のお話を伺いたいのですが、お時間はよろしいでしょうか?」
「とある件といいますと?」
女性が不思議そうに顔を傾ける。それを見て、隣にいたライフが俺の代わりに質問に答える。
「私の名前はライフ・クルトと言います。昔、この町に私の祖父であるアデルファ・クルトという人物が滞在していたと聞いて、その時の出来事について詳しく教えて頂きたいのです」
「あのアデルファ様の……!」
女性は驚いた顔をしてから、「ならばどうぞどうぞ」と喜んで俺たちを家の中へ歓迎してくれた。
それからすぐに客間に通され、木製の椅子に座って待っていると、垂れ布で仕切られた奥の部屋から年老いた男性がよたよたと歩いて出てきた。
どこかで見たことがある顔だと思ったら、以前にアシミナークに来た時に世話になった集落で長老と呼ばれていた人物と同じ顔をしていた。ところが相手の方は初対面のような素振りを見せており、丁寧な自己紹介をしてくれる。彼はこの町にいる神官の中で最も高齢な人物で、今は隠居しており神官の仕事には携わっていないが、住民たちからは敬愛の意をこめて大神官と呼ばれている。
白服の女性が机の上に人数分のお茶を並べる。俺が小声で「私の分はなくても大丈夫です」とやんわり伝えると、女性は少し申し訳なさそうな顔をしてから、ティーカップの数を一つ減らした。
机の上に温かいお茶が必要な数だけ揃ったところで、大神官はアデルファの話を語り始めた。彼は世界を放浪する度の中で、何度もこのアシミナークの湖に足を運んでいたらしい。
「もうご存知のことかもしれませんが、この町では遥か昔から、ウィルダム神という大陸と同じ名前を持つ守護神を祭っているのだ。ところが過去にアシミナークの民がウィルダム神の怒りに触れる行いをし、神が住むという湖の水が暗く濁る禍が起きた。その際に町に訪れたアデルファは、なんとウィルダム神の怒りを一晩の内に沈め、湖を今も見た通りの美しいものに戻してくれた。それ以来うちの村の民たちはアデルファのことを英雄として扱うようになったのだ」
どこかで聞いたことがあるエピソードのような気がする。しかしこの老人の話しぶりや、今までに見てきた住民たちの好意的な態度を見るに、作り話や何かではないようだ。
「最後にアデルファが来たのは確か八年ほど前だったかな。湖の近くでずっと何かをしていた後ろ姿が記憶に新しい」
「八年前というと、比較的最近ですね」
「逆にそれ以降は一度も姿を見せていない」
「実は、私たちはアデルファさんの遺品である、とある書物を探しているところなんです。その八年前の滞在の時に、彼はそれらしいものを持っていなかったでしょうか?」
「預言書のことだな」
「ご存知なんですか?」
「あやつとの付き合いは長いからな。しかし……残念ながらここには無いよ。ただ、八年前の滞在の時には確かに持っていた」
「それでは、彼がこの町を出た後にどこに向かったかはわかりますか?」
「未来を切り拓くために、最も可能性の高い場所へ行くと言っていた。つまり、後継者を探すという意味なんじゃないかと思う」
大神官はしわがれた顎に手を当て、少し考えこんでから改めてアデルファについて話し始める。
「先にも言ったが、この町ではアデルファのことを英雄視している者が多い。これはなぜなら、アシミナークには古くから言い伝えられている伝説があるからなのだ。湖におわせられる偉大な龍神様と、その使者と呼ばれる聖人がアシミナークの民を導く物語。世界の終わり、あるいは新たな始まりの時。使者は赤い龍の化身とともに湖の底から現れ、摩訶不思議な魔法の力でもって、民たちを滅びの運命から救いあげる。その力は読心術のようなものとも、千里眼のようなものとも云われており、己の思考を言葉にせずとも相手に伝え、逆に外から伝わる全てを理解するという。アデルファ・クルトという男はな、それを持っていたんじゃないかと思うのだ」
つまりは、伝説に謳われる湖の使者の再来。
ライフの祖母はアデルファがアシミナークのことを自分の真の故郷のように思っていたと言っていた。確かにこの場所には、アデルファにとって大事な意味のある何かがあったようだ。
「神殿に行って、他の神官の者たちに話を聞いてみると良い。残念なことに今日の内には舟は出せないが、明日になったら問題はない。その時にまたここへ来なさい。神殿を案内するための人を用意しておこう」
「お心遣い、ありがとうございます」
こうしてアデルファの古い友人という大神官との話を終え、俺たちは弔いの儀式が始まる日没を待つことになった。