記述4 素直な心の裏切りもの 第3節
「今更戦争なんてしたところで何が変わるって言うんだ?」
トンネルの奥へ向けて注意深く耳を澄ましてみれば、聞こえてきたのは二人分の足音、二人分の話し声。会話の内容がやや物騒な辺りは気になるが、幸いにもまだこちらの存在に気付いた様子は見せていない。
マグナの行動に釣られて俺まで柱の裏に隠れてしまったが、はたしてどんな人物が現れるのだろうか。
「延命の道を探しているんですよ。彼らの生き汚さについては今に始まったことではないでしょうに」
聞こえてくる会話の途中、トンネルの壁に設置されていた照明の一つが彼らを捉え、その姿を暗闇の中に映し出した。一人は背の高い男性で、もう一人はやや小柄な体系をした女性のように見えた。黒っぽい服が迷彩色の役割を果たしてしまっていて、この距離からではシルエットぐらいしかまともな視覚情報を得ることができない。
一方で音に関しては、トンネルの中をよく反響してくれているおかげで聞き取るのに不自由がなかった。このまま音を頼りに様子を窺いながら、彼らが通り過ぎるのを隠れて待つことにしよう。
そう思い、柱の裏で大人しくしていると、不意に、何の前触れも無いまま二つの足音がピタリと途絶えてしまった。どうかしたのだろうか。思わず柱の影から顔を出してしまいそうになったが、ぐっと堪えて音だけで周囲の様子を探り直す。確かに足音は止まっていた。けれども会話の方はまだ続いている。
「ゼウセウト様。貴方は大陸滅亡説をご存じですか?」
「俺が知っているわけないだろ」
「知っていてもおかしくないと思っていましたが、言われてみれば確かにその通りですね。貴方が知っている、もとい覚えていることは、さほど多くない。これは失礼いたしました。それで、その大陸滅亡説っていうのは……まぁ、簡単に言ってしまうと『私たちが暮らしているこの大陸は大海原の上にポッカリと浮かんでいるもので、後何十年もしないうちに水の底に沈むかなにかをして、滅びてしまうかもしれない』って、そんな感じの内容をした脅し文句みたいな学説のことなんですけどね。それをまたどういうわけか、この国の支配者たちはまことしやかに噂にしあい、本気で信じている素振りすら見せているんだとか」
「その噂とペルデンテとの再戦に何の関係があるっていうんだ?」
「いえ、関係大有り! なんと言っても、彼らはいつだって自分の命が一番大事なんですから! 先にも言った通りでしょうに、要は、延命処置です。いざという時のために資源の備蓄を万全にしておきたい。彼らにとっては戦争をする理由なんてその程度でも十分すぎるくらいなんです!」
「だとしたら考えが分かりやすくて助かるな。それでオマエの飼い主の方はどうなんだ? このタイミングで使いっ走りを一人よこしてきたってことは、何か俺に言いたいことがあるんだろ」
「誤解はしないでいただきたい。私は貴方の監視を任されていただけなので、今回の依頼については全く無関係で、偶然に…………うーん……信じてくれない感じの顔をしてますね。でもまぁ仕方ないか、いいでしょう! もうそろそろ通信も届くだろう頃合いでしたし。私の口から直接話して良いとも伝えられていましたし」
「話すならさっさと話してくれ。オマエの声は頭にキンキン響いて鬱陶しいんだ」
「ルックスは良いのに愛想が足りなくて台無しですね……って、ああっちょっと、立ち去ろうとしないでください! 話せばいいんでしょう、もう! グラントール人ですよ! グラントール人!! あの暴れん坊さんたちが、今度はコロッセウムで暴動事件を始めたんだとか!」
暴動事件。
二人のうち一人、若く甲高い声の持ち主は、たった今地上で起きている惨劇の概要を目の前の男に軽やかな口調で話し始めた。
「コロッセウムの地下に収容施設があることは以前に確認していましたよね。ほんの数刻前に、あそこで管理されていた反乱者予備軍が内々に結託して集団脱獄を決行したのです! いやはや、ちょうどこの上あたりでしたっけね、コロッセウムがある場所は。すでに事態は死屍累々の大騒ぎに発展しているらしいですよ。なんでもアルレス人を見つけるや否や片っ端から殴り殺して馬鹿笑いしているんだとか。それを金軍が大慌てで止めに入っているようですが、それもなかなか上手くいっていないんだとか」
「金軍が?」
「そう。実に頼りない人選でしょう? お城に住む連中の采配らしいんですが、これには我が敬愛なる主も苦笑い。仕方がないからゼウセウトでも使いますか、と貴方に依頼を回すことになさったそうです」
「つまり、どこの馬の骨とも知れないアブロードの俺に、暴動の鎮圧部隊へ加われと言いたいんだな。ニワカには信じ難い発想だ。相手の口車に乗って裏切ったりしてもおかしくないと思うが」
「天下のダムダ・トラスト様が選択を間違えることなど、万に一つにもございません! ですので、貴方もトラスト様の悪口なんて言っていないで、素直に従うべきなのです。お叱りの雷が落ちてからでは遅いですよー。なんちゃって」
「そいつは恐ろしいな」
「恐ろしいですとも。恐ろしいですとも。ですので、貴方も、従いましょう。後で届く依頼書を既読無視しないよう、よろしくお願いしますね! それでは、この私も懲りない猿どものおかげで忙しい身分になってしまいましたので、お先に地上へ上がらせていただきますね!」
「……いい加減、聞こえているんじゃないのか?」
「わざとですよ」
冷たい嘲笑がトンネル内に響いた。
「こっちはあのお馬鹿集団に散々迷惑をかけられているんですから、ちょっとくらいの罵詈雑言を言わせてもらったところで文句は言わせません」
その弁舌には、この場にいる特定の誰かに向けた紛れもない悪意がふんだんに込められていた。
俺たちが柱の裏に隠れていることなど、彼らはとうの昔に気付いていたということだ。声色からは会話の盗み聞きすら些事にすぎないと吐き捨てる挑発的な態度が感じ取れた。
「あれらは文明の遅れた途上国に住む粗暴な猿の群れです。故郷を失って路頭に迷うところを拾っていただけた大恩を……無下にした。それは裏切りというには十分な悪業でしょう。見捨てて、忘れて、踏みにじって……個々人の欲望に塗れた衝動の赴くままに、与えられた厚意をドブに捨てる…………人間として、どうかと?」
傍らを見れば、物陰に隠れるマグナの体が震えていた。頭に深々と被ったフードの端を小さな手で力一杯ひっぱりながら、抱え込んだ両膝の間に顔をうずめて黙り込んでいる。
仲間のことを好き放題に言われて思うところは多分にあっただろうが、今はとにかく息を潜めて隠れることの方が肝心だ。
無関係な立場である俺の耳ですら嫌悪を催さずにはいられない言葉の数々を、こんな小さな子供に聞かせ続けることは忍びない。けれども諸所の発言の目的が、炙り出し目当ての挑発だったとするならば、下手な行動を取ることは最悪命取りにすらなってしまうかもしれない。
それに恐らく……彼らは軍事関係者だ。マグナにどんな事情があるのかは知らないが、当人が身を隠すことを望んでいる以上、俺も同じように大人しくしていた方が良いのだろう。
俺の中にあるなけなしの同情心がもどかしさを掻き立てる。少しぐらいなんとかしてやりたい。この状況を打開できる方法はないだろうか……などと柱の影でソワソワしていると、しばらく黙って話を聞いているだけだった男が口を開いた。
「俺からすればオマエの口の悪さもどうかと思うが」
全くもってその通り。男はさらに不機嫌そうな声色のまま文句を続ける。
「忙しい身分だったんだろ。無駄口ばかり叩いてないで、行くならさっさと行け」
「はいはい。なんだかんだ言って、貴方はお優しい性格をしていらっしゃいますね」
ケラケラと人をおちょくる享楽的な笑い声。この人物には自分の態度を改めようと思う良心が微塵も残っていないのだろう。
「心が広い? いいや、暢気で鈍感で、緊張感が足りない性格? こちらの知ったことではありませんが、せいぜい足元をすくわれないように気を付けてくださいませ。ただでさえ、失念癖が激しいんですから」
仲間割れ紛いの捨て台詞。それを最後に二人の話し声がプツリと途切れた。
けたたましい毒舌の旋律と入れ替わりになるように聞こえてきたのは一人分の足音で、その音は徐々に遠ざかり、トンネルの中を吹き抜ける風の音と混ざるようにしながら消えていった。
あの厄介そうな人間はどこかへ立ち去ってしまったのだろうか。
頃合いを見計らい、柱の裏から顔を出して周囲を見回してみる。すると、壁際の通路の上に誰かが立っている姿を見つけた。
あれは二つあった人影のうちの一人で、背の高い男の方だ。足音が一人分しかなかったから片方はどうしたのかと思ったが、まさかこの場に一人だけ残り続けるとは。さっさとどっかに行ってくれないかと恨めしげな念を送って見るが、微動だにしない。一体何をしているのだろう。
もう少し詳細に観察してみると、男は壁に背を持たせかけながら手元の小型通信端末の画面を静かに見つめているようだった。
そういえばさっきの会話の中で「依頼書」がどうのこうの、みたいなことを言っていたから、その確認をしているのかもしれない。いや、でもなんでわざわざこんな人気の無いトンネルの中で。
訝しげに思いながら眺めていると、男の手の中に握りしめられていた端末の画面が点灯した。画面のバックライトから漏れるほのかな青緑色をした光が、薄暗い風景の中から男の横顔を切り取るようにライトアップした。
男の顔が見えた。
ただそれだけのことに、深い動揺を覚え、息を呑んだ。
一目見て美術彫刻か何かが動いているんじゃないかと疑ってしまいたくなるくらい……精巧で、完全で、人間離れした容貌。
簡潔に事実だけ伝えようとすれば、男はとてつもなく端正な顔立ちをした美丈夫だった。
顔だけではなく、体も、姿勢も、立ち振る舞いも、声すらも……文句の付けようがない完成度。完全無欠。黄金比。そんな冗談みたいな言葉が似合ってしまうくらい、不自然な調和に満ちた存在。
その美貌の真ん中にある二つのモスグリーンの輝きが、真っ白な眼球の上をするりと流れてこちらを見た。




