記述23 広い大地にひとりきり 第2節
ラングヴァイレが用意してくれた隠れ家の部屋角で一晩を過ごした後、陽が出てまだ早い内に外へ出た。
ツンと冷えた朝の空気が呼吸とともに喉を通り過ぎる。やや肌寒い気はするものの、雪はふっておらず、外套がなくても平気で活動できる程度の気温だ。冷気の代わりに空気中に漂っているのは、夜の内に街中を覆い尽くしていたであろう夜霧のしっとりとした残り香。まだ誰の姿もない大通りの車道には淡い家屋の影が重なり合うように伸びている。
早朝の空は薄紫と黄金が繊細に混ざり合った華やかな色彩をしていた。朝焼けが作るグラデーションの中に黒々とした煙のようなシルエットを作り出しているものがあるのだが、あれは恐らく小さな雲の塊だろう。今まではずっと空一面を覆い隠していたはずの雲というものが、密集するでもなく個別にちりぢりになって浮かんでいる様子を見ていると、落ち着かない気持ちになってしまう。だけどどこか綺麗だと感じてしまうところも確かにあった。不謹慎な話である。
だけどどうだろう、この朝焼けの輝かしい様を無心に眺めていると、不愉快な気持ちなど抱く方がおかしいような気もしてくる。素直な心というものからはなかなか目をそらせないもので、自分はいつかこの美しさを安易に受容するようになってしまうのだろうと……そんな予感をもってしまった。
そうなる前に、元に戻せることなら戻してしまわなければならない。
イデアールが行う人為的世界改変を阻止し、エッジも救い出す。そのために必要なのが、アデルファの預言書。行動するならば早い方がいい。昨晩の内に行った仲間との話し合いの結果、まずは今日の内にすぐできることとして、アデルファの情報を得るためにクルト家の屋敷を訪れてみることになっていた。
方向音痴なところがあるライフに道案内を頼むのは心配だったが、実際に街中に出てみると、ライフ個人の心配をするより以前に城下街の建物の配置がごっそりと変わってしまっていることに困らされた。一同はあまりの変貌ぶりに唖然とさせられ、結局仕方ないからと、たまたま外を出歩いていた住民に声をかけて道を尋ねることになった。住民はクルト家に行きたいと言うと一瞬だけ表情を歪めたが、すぐに人の良さそうな笑みを浮かべ直して道を教えてくれた。世界改変があった後もクルト家の評判は悪いままであるらしい。変わっていないことがあることを確認する度に安心させられるなんて、奇妙な話だと思う。
それから教えられた通りの道を進んでクルト家の屋敷まで移動する。その途中で、ふと大きな違和感に気付いて足が止まった。後ろを歩いていたマグナが「どうしたの?」と背中にぶつかりながら声をかけてきた。
街の景色が違うのはもちろんだけれど、何か大きなものが欠けているような気がする。少し考えて……答えがわかったところで、思わず声が出た。
「コロッセウムが無くなってる……!」
街の中で一際大きな存在感を持っていた建物、あのコロッセウムが無くなっている。
「コロッセウム?」
ライフが聞き慣れない言葉を聞いたかのように、不思議そうな様子で言葉を繰り返す。嫌な予感が加速して、俺は急いでマグナに質問をしてみた。
「マグナくん。アルレスキューレの城下街の目立つところに、コロッセウムっていう建物があったことは覚えている?」
問いかけられたマグナの表情が不安げに曇る。彼は自分の周囲の景色をぐるりと一度見渡した後に言う。
「街の様子が変わったことはわかるけど……ころ? コロッセウムってもののことは、ちょっとわからないよ?」
嘘だろ?と思いながら、質問を増やす。
「マグナくんって、旅に出る前は何をして暮らしていたんだっけ?」
「んっとね? 貴族様のお屋敷で、下働きっていうのをしてたよ」
「……そっか。変なことを急にきいてごめん。ちょっと確認したかっただけなんだ」
それ以上は何も言い出せず、黙り込むことしかできなかった。わけもわからず不安げに首を傾げるマグナに「気にしないで」と再度伝えてから、再びクルト家がある方へ向けて歩き始めようとした。そこで不意に、来ている服の端を誰かに横から引っ張られた。どうしたのかと思って振り返ると、難しい顔をしたブラムが何か言いたげに俺の顔を見上げていた。耳を貸してほしいと身振りだけで訴えられ、言われるがままに姿勢を低くした。
「どうやら今回の異変、個々人によって認識に差異があるようです」
ブラムは昨晩の内に全知の力を使ってアルレスキューレの民たちの動向を調べていたらしい。アルレスには自分より上位の神格を持った何者かの影響が色濃く存在しているため、わかる範囲のことまでだが、それでも重要な情報はいくつか手に入った。
「空の色が変わったことや、気候が穏やかになったことについて話しているものは多いようですが、隣人が失踪したことや、建物の配置が変わったこと、見知らぬ植物がいたるところに生え茂り始めたことなどについて言及しているものはほぼいません。多くの人々が、ごく自然に受け入れられる範囲の変化までしか認識できておらず、それ以上の変化については前からそうであったと思い込んでいるようです」
「だから、あれだけのことが起こった直後なのに、街の人たちの様子が落ち着いているの?」
「恐らくは、その通りかと」
「ライフとマグナは街の変化に気付いてるみたいだけど」
「龍の加護を持つ者と縁を結んでいた関係で、他の人々と比べて世界改変に対する耐性があったのでしょう。その認識もどこまで私やディア様と同じであるかわかりませんが」
「本人には説明した方がいいのかな?」
「混乱を招くだけかと思われるため、あまり推奨はできません。判断はディア様の誠実性に委ねます」
そう言われてしまうと黙っていることになってしまう。困ったな。
「ともかく、これは由々しき事態です。神の力が人為的に行使されることなど、決してあってはならないこと。早急に手を打たなければ、もっと酷いことが起きてしまうことでしょう。そのためにも、私はあのラングヴァイレが依頼してきた預言書探しを当面の目標にすることには、大いに賛成いたします。アデルファ様の本にならばきっと、私ですらわからないことがたくさん書いてあるはずですから」
「わかった。君がいてくれて本当によかったよ、ブラムちゃん」
「本当に。こんな問題を一人で抱え込むなんて、まっぴらごめんですね」
「ディアーーーっ!!」
相槌を打とうとしたところで、突然上の方から自分の名前を大声で呼ぶ声が聞こえてきた。顔を上げると、すぐ正面にある建物の屋根の上に、見知った黒い影が仁王立ちをしながらこちらに向かって手を振っている。しばしの間別行動になっていたウルドで間違いない。ウルドはこちらが顔を上げて姿を見つけてもらったことを確認するや否や、すぐさま屋根の上から大きくジャンプして、俺の目の前の地面まで着地した。
「無事で良かったぁ!」
端正な顔面いっぱいに安堵と喜びの感情を浮かべたウルドが、俺の体をぎゅうぎゅうと強めに抱きしめてくる。
ウルドとはクルト家の屋敷の前で合流するように連絡していたところだったが、どうやら待ちきれずに周辺を探し回ってしまっていたらしい。離れていた時間はほんの半日程度にすぎなかったはずだが、それでもウルドにとっては不安で不安で仕方なかったようだ。
一生懸命に俺の体に抱き着いて無事を確かめているウルドの背中を、俺は手の平でポンポンと叩いた。そして「俺は大丈夫だよ」と教え込むように、何度も耳元で言い聞かせた。