記述23 広い大地にひとりきり 第1節
陽はまだ高い真昼の城下街には、クーデターの直後とは思えないほど穏やかな風が吹いていた。
警戒のために見回した視界の端に、薄紅色の布がひらめくように入り込み、思わず目を奪われた。顔を上げてよく確認してみると、それは不用心に開いたままにされている窓の間からはみ出したカーテンの揺らぎだった。窓際には他にも植木鉢などという見慣れない物まで置いてあって、よく見ればその中には小さな花まで咲いていた。場面が違えば「美しい」やら「可愛らしい」やらといった賛美の言葉を口にすることもできたかもしれないが、今はそんな気分にはとてもなれない。むしろ湧き出てくる感情は、得体のしれないものを見た時特有の不安感。いっそ恐怖とまで言っても構わない気すらしていた。
奇妙な光景から目を逸らし、改めて目の前に続く細い路地裏を向き直す。先導するラングヴァイレは反乱勢力にも国軍にも見つかりたくないらしく、慎重に周囲の様子を見回しながらどこかを目指して移動していく。
伏兵がいないことを確認するや否や走り出し、物陰まで辿り着いたらまた立ち止まり、周囲を見回す。走って止まって、時々歩いて。そんなこんなを繰り返すこと小一時間、俺たちはやっとのことでラングヴァイレが事前に用意していた隠れ家まで辿り着いた。
先に入ったラングヴァイレが隠れ家の内部に異常がないことを確認してから、中へ招き入れられる。俺とライフ、マグナ、ブラムとは入り口をくぐったことを見届けてから、ラングヴァイレは扉を閉め直し、厳重に鍵をかけた。
「ひとまずは、ここにいれば安全を確保できます」
「ありがとうございます!」
マグナが俺の代わりに素直な感謝の言葉を述べ、少し遅れてライフと俺も頭を下げる。ブラムの方はまだラングヴァイレを警戒しているようだった。彼女だけでなく、俺の中にもたずねたいことが山ほどあった。
「危ないところを助けていただいて、本当に感謝しています。ですが……一体これは何が起きているのでしょうか? 城で起きたことも、逃げる途中で見たことも、わけがわかりません。赤軍隊長であるはずのあなたが俺たちを助けてくれた理由だって、話していただかなければなりません」
「私はもう、赤軍の隊長ではありません」
「え?」
思いがけないことを言われて、虚を突かれた声が出てしまった。ラングヴァイレはそんな俺のリアクションを横目に見て、表情を変えずに言葉を続ける。
「エッジ・シルヴァ様がアルレスキュリア城にお越しくださった際に、彼のお方の身辺警護をするために隊長の任を降りました。以後はエッジ様専属の護衛として行動をしていました」
「エッジくんの知り合いだったんですね」
「はい。今回貴方がたと接触したのも、エッジ様に関係するとある相談をしたいがためのことです」
そこまで言った後に、ラングヴァイレは俺の横に立っているライフやマグナの方をチラリと一瞥した。それだけで、言葉にせずとも言いたいことはすぐにわかった。
「なぁライフ、マグナ。君たちは少しの間だけ、席を外していてくれないかな。どうやら彼とは二人だけで話をする必要があるみたいなんだ」
ライフとマグナはお互いに顔を見合わせ、不思議そうな、訝しげな表情を顔に浮かべながら「別に構わないけれど」と答える。
「ブラムちゃんも、それでいいかな?」
「……構いませんが、後で話の内容はきちんと共有してください」
「わかってるよ、ありがとう」
少し不満げな様子を残したブラムが振り返り、隠れ家の奥に続く扉のドアノブをひねる。ライフとマグナも彼女の後に続いて移動する。パタンと厚めの扉が閉じ、三人が奥の部屋へ姿を消したところで、ラングヴァイレは静かに頭を下げた。
入り口付近の狭い通路に俺とラングヴァイレの二人だけが取り残されるかたちになった。
「あまり居心地のよい場所とは言えませんので、できる限り手短に話しましょう。詳細については後でいくらでもご説明いたしますので」
椅子も机もない空間の中、二人は壁際に無造作に置かれたコンテナの上にそれぞれ腰をおろして向き合った。
一拍の呼吸と沈黙。その後に、ラングヴァイレは口を開く。
「まず第一の前提として、この世界には『神』という絶対的概念が実在しています」
これから話すべき会話の内容を想定すると、まずはここから話さなければ仕方がないといったような第一声だった。
驚くでも怪しむでもなく、静かに次の言葉を待つ。そんな俺の態度を確認してから、ラングヴァイレは話を続けた。
「神とは、言葉の意味通り、人智を越えた存在です。我々の世界を支配する真なる主。超常の力を用い、万物の在り様すら捻じ曲げる、大いなるもの。アルレスには実のところ、この『神』という空想的な概念の実在を信じているものが驚くほど多いのです。流石に聖女信仰ほどの認知度までは至りませんが、王族虐殺事件の件にしてもそう、あの事件の一部始終を神の天罰によるものであると考えるものはいます。信奉してしまう理由はとても簡単。現在のアルレスキューレには神の所業とでも表現しなければ説明できないほど、非科学的な現象が多すぎたためです。ならば科学を否定された科学者は何をすれば良いか。これもまた答えは明快。この国の科学者たちは王族虐殺事件以来、神についての研究を独自に進めるようになりました。いわゆるところの『神話研究』です」
「科学で説明できないものを研究するって?」
「彼らからすれば、神の所業こそ自然現象であり、自然現象とは原理であり摂理であり、科学なのです。ただ考え方の根本を変えただけ。権能はある、龍はいる、平行世界は存在する、世界寿命は定められているなど、今までにも様々な研究結果が極秘にですが論壇に上げられてきました」
そこまで説明すると、ラングヴァイレはおもむろに右手の手袋を外し、指に嵌められていた複数の指輪の内の一つを取り外し、手の平に乗せた。「見ていてください」と一言声をかけてから、指輪の方へ視線を向ける。するとなんと、手の平の指輪がふわりと宙に浮かび上がり、みるみるうちに形を変えて鉛色の球体に変化してしまった。
「これもまた、研究の成果です」
最初の指輪の大きさからはまるで比較にならないほどの質量と体積。それはさらにリング状の腕輪のような形に変化してから、手の平の上にまたふわりと下りてくる。ラングヴァイレはそれを手首に通し、後にまた手袋をはめ直した。
「あの怖い金色のアンドロイドに襲われていた時に使っていた力も、同じものなのですか?」
「その通り。これはいわゆるところの『貴金属を自由自在に操る権能』です。神の実在を信じ、主と認めて祈り念じることで、机上に転がる一つのネジも純金に変化します」
「制限は?」
「貴金属という点以外には、ほぼありません。あとは個人の能力次第と言えましょう。思考力や想像力を始めとした抽象的な概念を処理する大脳の機能が力の行使に重要な影響を及ぼすとされています。近年になって急激に研究が進んだ部分であるため、まだまだ未解明な要素の方が多いのですが」
ラングヴァイレは腕輪をはめた自分の手首に左手を添え、何かを考えるようにフッと数秒の間だけ目を閉じた。そして彼の両目が再び開いたところで「先の戴冠式についても話さなければなりませんね」と次の話を切り出してきた。
「あの時、民衆の眼前でイデアール・アルレスキュリア様がなさったことは、この金属を操る権能と同じ部類の力の行使です。ただし規模と影響力は比べようもないほど強大な、紛れもない奇跡そのもの。あれは……この世の道理をねじまげる、万能たる『世界改変』の実行でした」
「世界改変……!?」
自分でもそうだろうと思いはしていたが、心のどこかで「できるわけがない」と否定していた言葉が他人の口から繰り出されてきたことに、愕然とした。正確には「できていいはずがない」だ。
「戴冠式のおりに実行するという計画については私も少なからず聞き及んでおりましたが、私には止めることができませんでした。ですが、今からでも……」
「改変って、一体……何が変わったって言うんですか……?」
「……それは……己の眼で確認しなければ、わからないことでしょう。ディア様もご覧になったでしょう。あの、真っ青な空の色。いつの間にか道端に生え茂っていた緑色の植物。心地よい湿度と清涼感を持った空気の味……寂れていたはずの城下街の変わりよう……」
自分がこれまでに経験してきた様々な異常事態のことや、アーツ画伯から聞いた過去の体験のことを思い出す。急に自分の外側に広がる世界全てが流動し、環境が変わる。さっきまでそこにあったものがそこに無く、あるはずのないものがそこに有る。
「そして何よりも……周囲にいたはずの人間の顔ぶれが、変わりました」
背筋に冷たいものが通り過ぎていった。
「そんなの……簡単に言ってますけど、それってもう、大量虐殺そのものじゃないですか」
ラングヴァイレはゆっくりと首を縦に振る。それから彼は、おもむろに壁際に立てかけてあった大ぶりな紙の筒を手に取り、目の前に広げて見せた。何だろうと紙面を見つめ、数十秒の後にやっと気付く。恐らくウィルダム大陸の地図だ。しかし様子が明らかにおかしい。いつもなら地図の真ん中にあるはずの、真っ白な空白がないのだ。
「中央雪原が無くなっている……?」
他にもこれまでに立ち寄ってきた小さな集落や街や、山脈や平野の地形など、多くのものが書き換わっている。焦るような手つきで懐から通信端末を取り出し、中に入っているマップデータの方でも確認してみた。だが、こちらも全く同じものになっている。
ラングヴァイレの方も改変以来初めて現状を確認した様子で、俺と同じように地図のあちらこちらに急いで視線を走らせていた。
「見たところ、まだ大陸の全部分が改変されきったわけではありません。ラムボアードやペルデンテのように、権能を行使した中心地であるアルレスキュリア城から遠く離れていた地域は無事である傾向が強いようです。とはいえ地図上での話ではあるため、現地での変化がどれほどのものかは個別に確認してみないことにはわかりません」
「あの新国王は、大陸の全部を書き換えるつもりでいるんですか?」
「最終目標は世界の全てです。その手始めにウィルダム大陸を改変した。ですが、恐らくあの方はまだ力の全てを使いこなせていないのでしょう。止めるにしても、元に戻すにしても、対処するなら早いほうが望ましいことです」
「対処なんて、一体何をすればいいって言うんですか? 世界を自由自在に改変できるような相手じゃあ、どうやっても抗うことなど無理なのでは」
「神の権能を行使できるからといって、イデアール様本人が神になったわけではありません。そこに付け入る隙ならば、まだあります」
「隙って……?」
「あの力は……もともと、神の化身たるレトロ・シルヴァ様の実子であるエッジ・シルヴァ様にのみ授けられていたものです。だから……あの男、イデアールからエッジ様を取り戻すことこそが、一番の対応策ということになります」
ここに来てエッジの名前が出てきたことに驚くと同時に、納得した。
「だからあなたは、俺たちに接触してきたのですね」
地図から視線をあげたラングヴァイレの青緑色の双眼が俺の顔を真っ直ぐに見つめる。冷たい刃の切っ先のような眼差しだ。それを見て、彼がここへ来るまでの間にどれだけ平常を装おうと努めてきたのかを理解した。彼は今、激怒している。
「理解が早くて助かります。そう、私はあなたに、エッジ様にまつわるとある頼み事がしたくて接触したのです。詳しい部分まではお話できないこともありますが、まずは話を聞いて頂きたい」
「大丈夫。デリケートな事情もあるでしょうし、今話せるところだけで十分です」
「……感謝いたします」
そこまで話したところで、ラングヴァイレは広げていた紙の地図を両手で丁寧に筒状に丸め、もとあった場所に置き直した。さらに心を落ち着けるように小さな溜め息を一つ吐いてから、もう一度こちらへ向き直る。
「まずは……エッジ様の現在の状態について、ですね」
「あの、俺の仲間が言った……誰かわからないっていう?」
「……タイミングとしては、先のイデアールが行った世界改変と同時でしょうか。あの改変がある程度の段階までつつがなく成功したというのならば、今、世界中の人物の記憶からエッジ・シルヴァという一個人の存在にまつわる記憶が消滅しています」
「消えた!? そんな、一体どうして!?」
「イデアール様が望んだ改変後の世界を維持するためにエッジ様の存在が障害となってしまったのか、はたまたエッジ様の存在を消すことそのものを世界改変のトリガーとして利用したのか。あるいはその両方か」
「じゃあ、なんで俺やラングヴァイレさんは覚えているんですか!?」
「私の方は、恐らく神の加護を事前に賜っていたからでしょう。それ以外に思い当たることがありません。ディア様の方はどうでしょう?」
神の加護と言われ、随分前にライフの兄から聞いた話を思い出した。
『伝説があるんだ。龍の鱗には、その持ち主の運命を見通し、遥か未来までの行く末を定め、意図しない使命への従属を促す力がある。それは時に君を破滅にだって導くだろう。しかしその宿命の対価として、霊魂の心を読み取る不思議な力を与える。神龍の加護、あるいは奇跡との邂逅とも呼ばれる、人智を逸した神秘体験をその身に授かる権利であると言い伝えられている』
赤い湖が広がる世界でブラムと会った時に話していた時にも、龍の鱗には特別な力があると聞かされていた。間違いなくこれだ。しかし、だとすれば逆に、こんな特別なものを持っていない全ての人間の記憶からエッジ・シルヴァは消失したということになる。
「心当たりがあったようですね。ディア様がエッジ様のことを覚えていてくださったおかげで、説明の手間が無くなり助かりました。本当に、心より感謝いたします」
「感謝されるようなことじゃない。仲間のことを覚えていただけだ。それに、これじゃあいくらなんでも、エッジくんが……」
同情という、がらにもない感情が心の中にふわふわと浮上してくる、心地の悪さをおぼえた。
「私は、何が何でも、現在の状況を打開してエッジ様を解放してさしあげたい。そのためには……この大陸にいくつか残されているという、とある書物が必要になります。ディア様には是非とも、それを探してきていただきたい。決して簡単なことではありませんが、もはやあなた以外に適任者がいないのです」
「書物?」
「アデルファ・クルトの著書です」
思いがけない人物の名前がラングヴァイレの口から飛び出してきた。彼はこちらの驚いた表情を軽く一瞥した後に、淡々と説明を続ける。
「もう何十年も昔に消息を絶った、変わり者の博物学者。彼が執筆した書物は奇々怪々でとても正気のものとは思えない内容に満ちている、いわゆるところのオカルト本として界隈で有名でした。しかしながら、ある時を境にアルレスキュリアの地下研究施設にこの書物が持ち込まれ、神話研究の重要な資料として扱うようになりました。するとどうでしょう、長い間雲を掴むかのごとき成果しかあげられていなかった神話研究が著しい発展を遂げ始めたのです。先程お見せした金属の権能も、預言書の内容をもとにした研究の成果の一つです。書かれていたことは全て真実。ならば……奪い合うのは必然というもの」
そこまで話を聞いたところで、ふと、アルレスキュリア城を出る直前に出会ったソウド・ゼウセウトが、一冊の本のようなものを持っていたことを思い出した。
「アデルファ・クルトがしたためた数多くの書物の内、特に重要な内容を含んだものを、神話研究者たちは『預言書』と呼んでいます。預言書は、現在このウィルダム大陸に少なくとも三冊以上は存在すると考えられている。全てを手に入れられたものは神の力、すなわち全知全能の片鱗に触れることができるとすら謳われるこの書物、これを……ディア様には、探してきていただきたいのです」
それさえあれば、エッジ・シルヴァは助けられる。ラングヴァイレの熱い激情に満ちた眼差しが、再びまっすぐと俺へ向けられる。
「……対価は?」
「一冊でも構いません。預言書そのものをお持ち下さったあかつきには……今回お話できなかった情報の全てを明かしましょう」
悪くない条件だった。だからこそ、もっと冷静に考え直すべきではないのかと、自衛本能が警鐘をあげる音も聞こえてきた。
一度持ち帰って、仲間に相談してから返事をしようかとも考える。けれど、これは誰でもない、ディア・テラスという一個人にのみ与えられた問題であるようにも感じられた。
もしも本当に、アデルファ・クルトに全てを見透かすだけの力があったとしたら、こうなることまでわかったうえで、あの宝石を薄暗い小屋の片隅に置き去りにしてきたのだろうか。だとすればそれはもう始めから決められた敗北だ。逆らいようがない。
「わかりました。この依頼を受けましょう」
「ありがとうございます!」
コンテナの上に座っていたラングヴァイレが腰を上げ、感謝の声をあげる。そして彼は喜びの感情のおもむくままに俺の前に片手を差し出してきた。少し迷った後に、俺はその手を握り返す。エッジ・シルヴァを救い出すという、ただ一つの熱意のままに行動する彼の手の平は、煮え滾るように熱く火照っているように感じられた。片や自分の手の平は、凍えているのかと不安になるほど冷たく固まっていた。つないだ手を放した後にも彼から伝わる熱は手の平にじわりと残り、静かな空気の中に馴染むように溶けていく。
苦虫を噛み潰したような感情が、後に少しだけ残る。それは間違いなく、この世界にただ一人、自分だけが感じている感情に違いなかった。