記述22 ここに神話をもう一度 第1節
冷たい風がすうすうと、頬や額の肌をこするようにしながら流れていく。見上げた濃紺色の空からは、絹のようにしっとりとした粉雪が音もなくふっていた。アルレスキューレの城下街は真っ白な雪と霜のヴェールに包まれている。
吐く息は白くふくらみ冷えた鼻先を暖める。瞳の前でふわふわと揺れる柔らかくて小さな雪の粒たち。これもまた俺にとっての、旅に出なくては見ることができなかったものの一つだった。
幻想的で神秘的。そんな言葉が相応しいくらいの情景が、今、確かな現実として目の前の視界をいっぱいにしている。
体の奥に火照るような熱がじんわりと滲む。コートのボタンを一つ閉めた。
昨晩は結局話し合いなどする余裕もなく、用意されていた屋敷の客室に戻ってからすぐに眠ってしまった。にも関わらず眠りは浅く、深夜のうちに何度も目を覚ますことになっていた。明かりを消した部屋の中を見渡すと、時計の針がもうすぐ明け方であることを教えてくれた。だから俺は、諦めた気持ちで寝間着を適当な服に着替え、厚手のコートを小脇に抱えながら部屋を出た。
三階に大きなバルコニーがあったはず。昼間見た微かな記憶を頼りに屋敷の中をウロウロと彷徨う。途中、偶然廊下ですれ違った使用人女性の助けを借りるなどしながら目的の場所にやってきた。
豪邸に相応しい絢爛な様式のガーデンバルコニー。傍らに植物のプランターを添えた石造りの手すりの向こうには、アルレスキューレの夜景が静かに広がっていた。ちょうどよく配置されていた銀色のベンチに腰をかけ、しばらくの間、何もない空を見つめていた。
ぱきゃり、ぱきゃり、不意にベンチの後ろから、薄い氷が張った水たまりを踏む音が聞こえてきた。振り返ると少し離れたバルコニーの入り口に見慣れた黒い影が立っているのを見つける。黒い影はこちらが振り向いたことにすぐ気付くと、頭部を覆っていた重たい布地のフードを下ろし、朝の挨拶をした。
「おはよう」
その不器用な微笑みにを目にしてから、俺は顔の横で手をひらひらと振りながら「おはよう、ウルド」と挨拶を返した。ウルドは少々駆け足気味にこちらへ近寄ると、俺が座るベンチのすぐ隣の席に当たり前のように腰を下ろした。そうしてすぐ近くで見た俺の顔色を伺いながら、何かを察したのか眉根を寄せる表情を見せた。
「もしかして寝てない?」
「あー……寝はしたよ。眠りが浅くてすぐに起きちゃっただけで」
「呼吸器の不調?」
「いや。昨夜は考えごとをしながら眠ったんだけど、多分その内容が悪かったんだろうな。悪い夢でも見て目が冴えちゃったんだ、きっと。それがどんな夢だったかは、もう忘れちゃった。どうとでもない夢だったんだろうね」
考えたって仕方ないことをいつまでも考え続けていた。眠りを妨げるほどの煩悶は突然始まるようなものではない。長い間心の中で密やかに考え続け、部屋の隅の埃のように蓄積していった末に、ふと目が留まる。そういうものだ。すぐに綺麗サッパリ片付けてしまえたら幸福だろうに、いつの間にかそんな埃くずが、自分にとってなくてはならないものに変わり果ててしまっている。伸ばす手を何度も引っ込めながら考える。
「夜に考え事をするのは良くないね。すぐ眠れなくなるし、碌でもない答えしか浮かんでこない。世界が朝と昼をずっと繰り返すだけだったら、どんなに生きやすいだろう」
「そんな世界はどこにもないよ」
隣りに寄り添う月色の瞳の持ち主が拗ねるように文句を言う。
「それもそうだ」
へらりと笑って誤魔化した。あったとしても情緒の欠片もない世界だろうなと笑ってしまうし、こちらからも願い下げだ。けれど自分なら、自分一人だけならそれでもどうにかなってしまうのかもしれない。そう思えてしまう。煩悶の正体は劣等感ではなく疎外感だったのだろう。だからこそ誰にも打ち明けることができなかったはずなんだ。
今でさえ、俺を心配するウルドに誠実な言葉を返せないでいる。こんな話題はさっさと変えなきゃいけないと思ってしまっている。幸いなことに、そんな俺の思考を見透かして滑稽だと笑い飛ばせる人はいない。今、ここには。
「君の方はこんな夜明けまで何をやっていたんだい?」
「諜報だよ。この屋敷に何かしらの陰謀が蠢いていることは、ディアも気付いていたでしょ。パーティーに参加したジジイどもが何を企んでいるのかくらいは知っておかないと、妙な事件に用意もなく巻き込まれたら流石の僕でも面倒を感じるもの。とはいえ、事件の前夜ともなると完全に出遅れちゃってるからやれることなんて少ないよね」
つまり今が事件が起きる当日だと。
「何が起きるって?」
「反乱だよ。とびきり大胆で、正当性の塊みたいなヤツ」
「へぇ……反乱? それまたどうして?」
予想より随分ひかえめな響きの言葉が返ってきて首を傾げる。革命やらクーデターやらと騒ぐ、あの反乱。それがウルドの口から深刻そうに告げられることに違和感をもった。
「この国の連中は下から上まで揃いも揃って国政に不満があるんだよ。それが今日の冬葬祭メインイベントの『戴冠式』で爆発するらしい」
「下から上までとは……」
「下から上まで。貧民街の子供たちも、国を動かす大貴族たちも、みんながみんな現在の政治体制に不満を持っていて、変化とか革新を欲しがってる。しまいには国の外、地平線の彼方までアルレスへの反感でいっぱいだし、ペルデンテへの宣戦布告だってそのせいで起きたものだよ。みんなこんな国ために死にたくないって気持ちは一緒らしい」
ウルドは夜の間に調べてきた情報を一つずつ細やかに教えてくれた。
アルレスキューレには何十年も昔から王制に不満を持つ反乱組織が存在していた。最初は規模も小さく、主張に同調する者も少なかったのだが、それが時を経るごとに徐々に大きく大きく膨れ上がっていった。
年々悪化の一途を辿る国内情勢。しつこく続く食糧飢饉と自然災害。上辺だけの綺麗な言葉で誤魔化してばかりいる王室の内政者たち。コロコロ変わる頼りがいのない新国王陛下。
そういった枚挙に暇がない要因の数々が勢力としての『力』をどんどん強めていった。今では全国民の六割以上が反乱組織に何かしらの助力をしているとされていて、その中には国有数の大貴族や大陸屈指の豪商なども含まれている。当然残りの三割の国民たちも大なり小なり何かしらの不満や不安を感じながら生きている。
それが王制国家アルレスキューレにとって最も大事にされるべき戴冠式で爆発する。全部ぶち壊して、国そのものをひっくり返してしまおうとしている。
昨日の晩に催された社交パーティーの参加者たちは皆揃って反乱組織による戴冠式の妨害計画を知っていた。関与しているからだ。
そしてダムダ・トラストは、そんな彼らに都合の良い密会場所を提供するため、あの豪勢な会館を用意した。あの会館は一見すると何の変哲もないパーティー会場だが、内部にはそこら中に隠し通路や隠し部屋が作られている。密会を望む参加者たちは館の主人に大金を払って安全な空間を借り受け、そこで公衆の場ではとても言えないような会談を行っている。
「トラストさんは反乱側なのかい?」
トラストさんの名前が出たから思わず声に出して尋ねてしまう。するとウルドは露骨に嫌そうな顔をして、愚痴を言うようにこんな説明を加えた。
「あれは中立だよ。参加者の中には反乱を阻止したい連中も混ざってるけど、素知らぬ顔で反乱勢力と同じように隠し部屋の鍵を渡している。国の未来なんてどうだって良いんだよ。情勢がどれだけ変わっても、自分がこれまでに築き上げた地位は揺るがないと思い込んでる」
そりゃまた随分な自信だこと。
「とか言いつつ隠し部屋の中に使用者が知らない隠しカメラや盗聴機をたっぷりと仕込んでるんだ。国を動かそうとしている連中が何を考えていようが全部筒抜けなわけだから、余裕ぶっこくのも当然かもね」
自分以外の権力者たちの弱味ならいくらでも知っている。なるほど流石の天下人というわけだ。そんな風に感心したリアクションをとっていると、ウルドは「この話はダメ」と言って元の反乱組織の方に話題を戻してしまった。そして神妙そうな表情でこんなことを言い始める。
「さっき、国民のほとんどが反抗意思を持ってるって言ったでしょ。でも、実を言うと最近はむしろ数が減ってるんだ」
「え? それって、減るような要因があったってことだよね?」
それは聞き捨てならない話だ。
「王女様が現れたんだよ。氷色の豊かな髪に雪のような白い肌、国を象徴する旗印と同じ色の真っ青な瞳。伝承の中でしか見たことがないはずの『建国の乙女』の再来、聖女による救済。みんなそんなことを言っている」
ウルドは「そもそもこれが今回の騒動で一番問題になってる部分なんだよ」といいながら話を続ける。
王女は、ほんのつい最近になってこの国にひょっこりと現れるようになった。自分のことをアルレスキュリア王家の正統後継者であると、そよ風に乗せるように軽やかな口ぶりで主張しはじめた。王家の血を継ぐ人間はイデアール一人を残して全滅したはずなのだから、そんな言葉を信じる者なんているわけがない。しかし、国民はこれをあっさりと信じ、受け入れ、あまつさえ熱狂的な支持を向けるようにすらなってしまった。
王女が美しかったからだ。心も、体も。
「城の連中がいつからあんな女のことを知っていたのかは知らないけどさ、民衆が初めて王女の姿を見たのは城下街の隅っこにある貧民街の一角だったんだって」
ボロ屋敷への突然の来客に驚いた主人が扉を開けると、玄関前に灰色のローブを身に纏った美しい女性が立っていた。傍らには護衛と思われる男性が三人ほど控えていた。主人は放蕩したバカ息子が何かやらかしたんじゃないかと思いいたり、急いでその場に跪いて許しを請ってみたのだが、すぐに困ったような調子で「顔を上げなさい」と告げられた。
見れば見るほど美しい女性だったという。彼女は自らのことを多くは語らず、代わりに主人へ向けて少しの質問をしてみせた。
『困っていることはありませんか』
声色は琴の音色のように心地よく穏やかだった。だからだろうか、主人は女性の『悪い人には教えない。貴方に不幸が訪れるようなことは何もしない』という言葉を信じて、長い間誰にも打ち明けることができなかった生活への不安を口にした。女性はその声に静かに寄り添いながら耳を傾け、主人が話を終えると『ありがとうございます』と感謝を述べて立ち去って行った。
主人は真夜中に夢でも見たのかと心配になり、翌日近所の住民にコッソリと美女の話を持ち掛けると、自分以外の家にもあの女性が訪問していたことを知った。彼女は多くの家々の門を叩き、民草の不満を聞いて回っていた。性悪な貴族たちが誘導尋問のような手段を用いて陥れようとしているのではないか、と疑心暗鬼になる者も中にはいたが、多くの者は不安はあれど自分が出会った美しい女性の言葉を信じてみたいと思っていた。
その後、しばらく経っても彼らが心配していたような悪いことは起きなかった。代わりに良いことがたくさん起きた。枯れていたはずの井戸の水が復活した。子供の病気が治った。狩り場にいつもより多くの獲物が現れるようになった。嘘かと思うほど自分たちに都合の良いことばかりが立て続けに起こったのだ。しかもそのほとんどがあの日の美女に相談した話に関わるものだというのだから、大騒ぎだ。
誰もが奇跡だなんだと叫んで回る彼らの耳に続いて飛び込んできたのは、『喪われたアルレスキュリア王家の血を継ぐ新たな王女が現れた』などという夢物語のような朗報だった。
「そんなことで反乱組織の勢いが弱まったりするの?」
「結局、アルレスの人たちが欲しがっているのは『都合の良い救済』だったんだよ。反乱なんてしなくても幸福になれるなら、幸福にしてくれるなら、文句を言うことすらやめてしまう。信じるとか感謝するとかキレイな言葉を使いながらね?」
表舞台へ登場した王女は、俺の頭では到底想像も出来ないくらい圧倒的な影響力を持っていた。その力のせいで反乱組織は複数の有力な協力者を失い、直前で新しく計画を練り直すことにまでなってしまった。本来ならば前日に会談などせずとも圧勝できる算段だったのだ。それがたった一人の女のせいで滅茶苦茶になった。その女が本当に王家の血を継いでいるかすら定かではないはずなのに。
「信仰、とかいうヤツなんだってさ」
ウルドはポツリと、口から零すようにそう言った。彼らの気持ちも分からないことはない。そう思っているような態度をしていた。
「この世界は醜悪だよ。苛烈、残酷、無慈悲で不条理。僕たちだって、いつもいつも奪われることばかり」
僕たち、と、ウルドは複数形を用いながら目の前の俺に話しかけた。
「解放されたいんだよ。そのためなら死んだって構わないとか、本気で思っているんだろうね」
醜悪。それは確かな重みを持った現実だった。
この世界はきっと失敗作だったんだと、ウルドにすらそんなことを言わせてしまった。
「そうかもしれないな」
俺は適当な相槌を返すことしかできなかった。
何故なら、視界の先、濃紺色に滲んだ空の果てに、朝陽が昇る様を見ていたからだ。
分厚い雲の向こう側から真っ白な光を発して輝く巨大な太陽。寝不足の身分には眩しすぎる強烈な日差しが脳と眼球の両方を焼き焦がし、瞼の奥に滲むような痛みが広がっていく。
それを見ながら聞いていた。だからだろうか、ついついこんなことを考えてしまう。
でも大丈夫。大丈夫。きっと大丈夫。
世界はちゃんと輝いているではないか。少なくとも、俺の目の前だけでもそうなのだ。
辺り一面に積もった白雪に、それよりもさらに純白の色を持った光が射し込み、キラキラと輝き始める。
キラキラと。キラキラと。キラキラと。
夜の間に浴びたものと同じ風が頬を撫で、俺の髪を靡かせる。
『美しい』という言葉以外が出てこない。
だから俺はウルドに向かって、こんなことを尋ねずにはいられなかった。
「好きなものが少なすぎる人と、好きなものが多すぎる人とでは、どちらの方が苦しいんだろうな」
誰にもわからないよ。
ウルドにも、俺にも、そんな答えしか出すことができなかった。