記述21.5 金糸雀は宙を飛ぶ 第2節
「お兄さん、ダレ?」
夕暮れ前の、まだ人通りの少ない繁華街。シャッターが降りた風俗店の前に、くたびれたジャケットを着た青年が一人で座り込んでいた。
「急に声かけてくるとか、マジ怪しいっていうか」
「誰かと待ち合わせをしているのかと思ってね」
「してねぇよ。そんな相手、いるわけねぇじゃん。大体何をしているかなんて見ればわかるだろうが。それとも金持ちの兄ちゃんにはそんなこともわかんねぇのか?」
青年は野犬のように歯を剥き出しにしながら唸り声をあげる。悪気は無かったのだけど、どうやら怒らせてしまったようだ。
ではどうしてこんな所で座り込んでいるのだろう? と周囲を見回して、ああ、と気付く。風俗店の向かいには『準備中』の表示を出したカプセルホテルの看板があった。低所得者層の中でも特に収入が少なく住居すら所有していない市民は、こういった安価な宿泊施設の中で夜を過ごす時があると聞いたことがある。彼もその一人だったのだろう。だとすれば、俺のような人間が話しかけるだけでも反感を持たれるのも無理はない。
「こちらの配慮が足りなかったようで申し訳ない。どうしても君と話がしたかったんだ」
「だからテメェは誰なんだってきいてんだよ!」
睨みをきかせる青年の問いかけに答えるべく、彼の前に名刺を差し出した。幸いなことに識字能力はあったようだ。そこに書かれていた文字を見た途端、みるみるうちに目の色を変えていった。
青年はドタンガタンと音をたてながら起き上がると、肩から半分ずり落ちていたジャケットを片手で持ち上げながら俺の前に立った。
「大変失礼いたしました!!」
真っ直ぐに伸ばした背筋を綺麗な直角に曲げ、人目をはばからず大声で謝罪の言葉を告げる。
ここまで極端な反応をされるとは思っていなかったから少し驚いたけれど、当の本人は真剣そのもののようだった。ならばこちらも真摯に向き合うべきだろう。
「俺が失礼を感じるようなことなんて、君は何も言っていないよ。それより顔をあげてほしいな。息子の大切な友人に頭を下げさせるなんて、俺にとってはそちらの方が気分良くないんだ」
青年はしぶしぶと頭をあげた。不安そうな眼をしている。
「ありがとう。君を脅かすつもりじゃあなかったんだけど、悪いことをしちゃったね」
「そんな……こちらこそ、何にも知らないまま…………いや、そういえば、話がしたいって言ってたけど、まさか……」
「うん。ディアについて、ちょっと聞きたいことがあってね。この後に何の用事も無いようだったら、一緒にディナーでもどうかな? この近くに知り合いが経営しているレストランがいくつかあってね。その中で君に合いそうだと思った店に、一緒に行こう」
青年はちょっとだけ頭を下げ、「ありがとうございます」と小声でつぶやいた。
スーツの内ポケットから端末を取り出し、周囲のマップを検索する。「パスタは好きかい?」と尋ねてみると「なんスかソレ?」と返されてしまう。ならば君が食べたいと思う店を選んでくれと、端末画面を見せてあげた。青年は知らない食べ物のビジュアルがズラリと並ぶ絵面に少々怯んでいたようだったが、やがてその中から一つを選んだ。すぐ近くの店だ。ここならドレスコードも無いし、彼でも気兼ねなく入れるかもしれない。
「いいね。じゃあ、少しだけ歩こうか」
付いておいで、と言いながら手を差し出してみたが、これはあっさりと無視されてしまった。子ども扱いされるのは嫌だったのだろうか。それとも、手を差し出した意図そのものが伝わっていなかったのか。
彼の名前はユーズ・コバルト。家族と、住居と、固定的賃金を持たないまま路上生活を続けている無職の若者。ディアが行方不明になってからしばらくした頃、情報収集の最中に彼とディアが子供の頃からの古い友人であることを知った。ならば是非とも話を聞いてみたいと思っていたのだが、各地を転々としながら生活している彼を探すのは難しく、今日に至るまで見つけられないままでいた。
やっと見つかったユーズの外見を改めて確認する。身長のわりに体が小さく見える男だ。体格には恵まれておらず、よれた服の間から見える手足は細く、血色が悪い。年齢は二十代半ばといったところだろうか。まだまだ遊び盛りな年頃だろうに、こんなところに座り込んで夜を待っているだけの生活を続けているなんて、同情してしまう。
せめて今日ぐらいは美味しいものを食べさせてやろう。
身勝手な思いを内に秘めたまま、ユーズと一緒に一件のステーキショップの入口ゲートをくぐっていった。
入ってすぐのところで歩み寄ってきた女性クルーに「ゆっくりと会話ができそうなテーブルはありませんか」と声をかける。彼女はすぐに「こちらへどうぞ」と案内を始めてくれた。開店したばかりの店内には、まだ他に客がいないようだった。
個室のテーブルに向かい合って座り、メニューを注文する。料理が届くまでの待ち時間をどう過ごそうか。最初の話題についていくつか頭の中に候補を浮かべて考えていると、ユーズの方から俺に話しかけてきた。
「また、誘拐ですか?」
単刀直入な一言だ。
ここに来るまでの間か、あるいは俺の名刺を見た時からか、ユーズはディアに何かあったんじゃないかと、ずっと心配に思っていたようだ。
「誘拐だったら、まだ希望はあったかもしれないね」
まずは彼に、自分が知っている情報を伝えてみることにした。
ディア・テラスが失踪した。そんな連絡が俺のもとに届いたのは、勤務中のディアが何を思ったか急に立ち上がって職場を飛び出した日から二日後の朝だった。急いで監視衛星のモニターを叩いて彼の行方を検索してみたが、時すでに遅し。ディアの体に埋め込まれていたはずのデータチップの反応は自家用衛星の観測可能範囲内から消滅していた。
ならば消失直前までの軌跡はどうかと探ってみると、あろうことか郊外の植林地帯で途切れていた。今までにいくつか彼が自分のフライギアに乗り込むところを見たという証言があったから、誰かの乗り物に詰め込まれて無理矢理知らない場所に運ばれたというわけではなかったのかもしれない。あるいは何かしらの脅迫文が職場に届き、ディアを特定のポイントまで誘い込んだという説もある。自分の意思で向かった……という可能性については、また後で話そう。
ともかく彼は郊外の植林地帯を最後に行方をくらました。この植林地帯というのは、土地全体に監視局ですら手を焼くほど強力な磁場が広がっている恐ろしい場所だ。足を踏み入れただけで方向感覚を見失い永遠に森林の中を彷徨う破目に遭うという噂が市民の間でもよく広まっており、人が滅多に近付こうしないことから、現代の魔境とまで呼ばれている。
そもそも危険すぎて立ち入り禁止のはずなのだが、監視局の目が届きにくいという理由から犯罪の温床になってしまっている実態がある。魔境とはいえ人の出入りが皆無というわけではない。ディアがそんなところに一人で向かったのかと思うと、それだけで心配で心配でたまらなくなる。勘弁してほしい。
追跡の初動が遅れたことにはどれだけ後悔してもしたりない。護衛のために押し付けておいたSPが彼の後を追ってくれていたというが、それも途中まで。ディアは昔からボディーガードの目を盗んで逃走するのが異常なほど上手かった。時には巧妙な話術を駆使して、わざと逃がしてくれるようボディーガードを懐柔することすらあったほどだ。少なくともディアはそういうことを平気でする子だったし、今回もそのパターンである可能性がないというわけでもない。とはいえ「本当は嘘をついているんじゃないのか?」と自分が雇ったSPに尋問するなんてなかなかできない。やってみたところで訓練の行き届いたSPが正直に情報を吐いてくれるとも思えない。なんて質が悪い。
「相変わらず、凄いことばっかしてるんですね」
ユーズが唖然とした顔で話を聞いている。そこへ注文したばかりの料理が早くも届く。二人の前に滑るように置かれた二枚の鉄板。その上で切りたての赤身肉がジュージューと音を立てながら焼けている。メイン以外の料理も続々とテーブルの上に並んでいき、全部揃ったところで少し早いディナータイムが始まった。
使い慣れないナイフとフォークを握りしめた青年の姿には、無垢な愛嬌を感じる。俺にもこんな風に無邪気だった頃があったなぁ、なんて、五十年以上前の自分の姿に思いを馳せながらナイフを握る。はたしてこの青年には『親』といえる存在はいるのだろうか。
青年は俺に微笑ましい目で観察されていることに気付いていないくらい、お肉を頬張ることに夢中になっていた。会話の続きは気になる、ディアも心配、けれどその関心程度では空腹と美食の誘惑には勝てないのだろうか。それとも、食べながら考えごとをしているのだろうか。ともかくしばらくの間、二人の間に悪い心地はしない沈黙が続いた。
食器がカチャカチャと鳴る、可愛らしい音だけがテーブルの上から聞こえている。
鉄板の上に転がる肉の量が少なくなってきた頃、青年は少し緩んだ表情を再び引き締めながら、こう言った。
酷く唐突な一言だった。
「自殺だったら、どうしよう」