記述21.5 金糸雀は宙を飛ぶ 第1節
「こんなつまんないところに客が来るなんて、大層な物好きだね、小綺麗なお兄さん」
老婆は細い目付きをさらに細くしぼめながら、名刺の文字を見つめた。そして愚痴をこぼす。
「監視局の世話になるようなことをした覚えはないね」
少ししわがれてはいたが、活力を感じるハキハキとした声を出している。外見から年齢を推測すると、百二十前後と言ったところだろうか。背骨は曲がり始めているが、まだまだご健康そうな様子が窺えて、見ているだけで勇気づけられてしまうような気分になる。
「肩書の部分はあまり気にしないで、それよりも、よく名前を見てくださいませ」
俺は名刺の真ん中に書かれていた自分の名前を人差し指でなぞりながら読み上げる。
「エラーズ・テラス。私は、半年前に行方不明になった息子を探しているだけの、冴えない一人の父親です」
テラスという名前を聞いて、老婆は僅かに首を揺らす。そのまま頭を傾けるようにしながら俺の顔を見上げた。
「さっぱり似てないけどねぇ」
傷付けることを意図して発言したのならば、大当たりだ。この老婆は頭が良い。
「まぁいいさ。ほんとかどうかはどうであれ、あの子の名前を出したってことなら家に上げるくらいのことはしてやる。さ、さ、勝手についてきなさい。靴はちゃんと脱ぐんだよ」
言われるがままに玄関をくぐり、老婆の住む分譲マンションの一室へ足を踏み入れた。入ってすぐのところで緑色のルームシューズを足元に転がされたので、それに履き替えてから、さらに奥へ進んでいった。光沢が出るほど磨きあげられたフロアタイルの上を歩いていると、短い廊下の向こう側から小さなお掃除ロボットが小首をかしげながらスイスイと近づいてきた。ロボットは俺が歩いてきたばかりの床の上をなぞるように走り回り、ひとしきり拭き上げたところで満足したのか次の掃除場所へ向かっていった。
老婆の案内で通されたのはシンプルなインテリアで統一された、清潔そうなリビングルームだった。その真ん中に置かれていたテーブルセットの席につく。今時珍しいオイルティーのボトルがテーブルの上に置かれ、さらにその横にドライフルーツがたっぷり入った瓶と、それらを入れるための食器も並べられていく。まもなくしてちょっとしたアフタヌーンティーのセットができあがった。
「ディアちゃんが来たら、あげようと思ってたんだけどさ。もったいないからアンタ、食べていきなさい」
「ありがとうございます」
「それで。あの子のことが聞きたいって?」
老婆は椅子の上に置かれていたひざ掛けを緩慢な動作で持ちあげ、空いた席に腰を下ろす。両手でひざ掛けを広げながら、大事な話をしようじゃないかと会話を切り出す。
「行方不明、なんて言われたところで、相手が相手だよ。また家出でもしているだけなんじゃあないのかい?」
「ガードチップの反応が、郊外の植林地帯を最後にして途切れてしまっているんです」
「そんなもの付けているから嫌われるんだろう」
「……ごもっともな意見でございます。しかしながら、あの子には……必要なものかと」
「わかっているよ。あの子が孫だったら、私だってそうしたさ」
目の前にオイルティーで真っ黒に染まったティーカップを差し出される。オイルティーの味は俺には酸味が強すぎて苦手なのだけれど、この老婆の前で格好悪いところを見せることには抵抗を感じる。演技と負け惜しみが得意なことは、俺の強みに他ならない。できるだけ美味しそうに飲んでいるように見せてやろう。
「知り合いから、この辺りにディアがよくお世話になっている老人の住む家があると聞いて、訪ねにきました。ディアについて何か少しでも知っていることがありましたら、教えていただきたい。もしも家出であるとしたら、どうして今更……」
「私だってよく知らなんだ。それに、最後にあの子がこの部屋に遊びに来てくれたのは、一年以上も前のことなんだよ。最近のディアちゃんが何をしていたかとか、何を考えていたかとか、わかるわけがない」
「一年以上前、ですか」
「あぁ……でもねぇ、思えば、そう……あの頃のディアちゃんは少し困っているように見えた気がしていたっけか」
「困っていた、とは?」
「顔色がよくなかったんだよ。だから、何か悩みがあるんんじゃないかと思って、相談に乗ろうかと声をかけたら『ただの睡眠不足だ』なんて言われてね。近頃あまり寝つきが良くない。日によっては朝まで起きていることがあるくらいで、そうなると体力が回復していないから一日中辛いんだって。体が重くて、頭も痛いのに、目だけは異様に冴えている。なんとか力になってあげたくてね……このフルーツも、そのために用意したんだ」
「なるほど……確かに、ディアは昔から寝付きのよくない子供でした。それが歳を取るほどに悪化していると、主治医に指摘されたこともあったほどです。体に合った睡眠導入剤を処方してもらっても、なかなか改善されませんでした。それが今も続いていたとは……」
不眠症の原因は気分障害だった。子供の頃のディアは夜になるとよく『寝るのが怖い』と怯えていた。『頭の中が真っ黒になる』とも『もう目を覚ませなくなるかもしれない』とも。睡眠そのものに恐怖を感じていたのだろう。二十を過ぎてからも心配で、最近はよく眠れているのかと通話越しに聞いてみたら、その時には『もう子供じゃないんだから』と茶化すように笑われるだけだった。自分が過保護なだけだったかと、素直に安堵してしまっていたけれど……そんなわけがなかった。怖くないわけがなかった。
自分がいつまで生きられるかわからないまま過ごす。その苦しみを、私は正しく理解してやれていなかったのだ。
眠れない我が子の肩を抱きながら、温かいココアを片手に朝日が昇るまでおしゃべりをした。そんな綺麗な思い出ばかり贔屓している俺は、今の今まで、彼の悩みを軽んじていた。そんな症状もあったなぁ、なんて思ってしまったくらいで、本当に恥ずかしい。
「やっぱり、小さい頃からそうだったのかい。そりゃあ、可哀想にねぇ……」
「御婦人は、一体いつからあの子と交流を持っていたのですか?」
「はて……今から六年くらい前だったか。出会った頃のディアちゃんは、それはもう真っ直ぐな目をした子供でねぇ。体が弱っちいわりに野心だけは一人前で、毎日のようにそこら中を駆け回っていたみたいだったよ。初めに見たのだってマンション裏にある藪の中だったし、その時は面食らったもんだ。大層綺麗な金色の髪をした美少年だか美少女だかわからない子供が、ゴミだらけの地べたの上にぶっ倒れていたんだ。助け起こしてみたら私の膝の上に血を吐くもんでさ。すぐに医療機関に連絡しようと思ったら『病院はやめて』って、ビックリするほど可愛らしい声で我儘を言ったんだ」
あの子らしいことを言う。
「そんな言葉を、そうですかそうですかと聞き受けるバカなんていやしないだろうに、私はそのバカだったのか何だったか知らないけども、従っちまったんだ。せめて部屋で看病でもしてやろうと思って担ぎ上げようとしたら、大層な軽さでたまげたね。腕も下手したら私なんかより細いんじゃないかと心配になったもんだ。けれどもベッドの上に寝かしてやったディアちゃんは、しばらくしたらキチンと目を覚ましてね、今でもよく覚えているよ、大きな金色の瞳をパチパチと瞬きさせながら『ありがとう、おばあちゃん』って」
老婆はオイルティーの入ったカップを口にあて、クイッと一口で飲み干してしまう。俺も真似して少しだけ飲んでみる。すっぱい味が舌の上に広がった。
「その瞬間、孫の顔を思い出しちまったのさ。バカで、アホで、愚かなババアだよ。あの子それをわかっていた。部屋の中に飾ってた写真を見て、私に孫がいたことにすぐに気づいたんだろう。まだ三十にも届かないうちに、細胞の病気で亡くなった、カワイイ孫。顔も歳もぜんぜん違ったけどもね……可愛がることには不自由しなかったんだよ」
皿の上に盛られなかったドライフルーツたちが、瓶の中からこちらを見ているようだった。憧れのような眼差しだ。
「愛嬌があって、賢くて、よく気の利くイイ子だった。それから、慈悲深くもあった」
慈悲深い。耳慣れない言葉を聞いて、思わず机の上から目を離し、老婆の顔を見る。
「あの子、孫のいない私のために、最後まで無邪気な子供のままでいてくれたんだ。こんな都合の良い思し召しなんて、そうそうあるもんじゃない……アンタだってそうだったろう」