記述20 終末世界の支配者たち 第3節
もう、随分昔のこと。俺はバスティリヤの牢獄塔で床掃除の下働きをしながら絵を描いて暮らしていた。
ある日、俺が掃除を任されていた小さな塔に、それはそれは美しい女が子連れでやって来た。何の罪を犯したかなど知る由もなかったが、女と子は別々の牢に入れられ、尋問も拷問も受ける様子もなく、大人しく過ごしていた。
身なりは大したことなかったが、随分と品の良い女だったから、どこかの富豪の娘っ子か何かだと思った。人目を盗んで「どこから来た」「何をした」と鉄柵越しに話しかけてみれば、「あなたこそ何処からいらしたの?」などとクスクス笑って誤魔化すばかり。いっそ不気味な輩だとも思った。けれどもそれ以上に美しい。残酷なほど美しい女だった。
そんな女にある日突然こう言われた。
「龍の絵は描ける?」
二つ返事で「おう」と返してやりたかったが、「龍」なんてものは見たこともなければ聞いたこともない。どういうものなのかと聞いてみれば、女はまるで恋する少女のように花を散らした笑顔で龍を語り始める。
「鱗が黒いの」
「体は大きくて、尾も長くて」
「瞳の色がとても綺麗。まるでこの世の全てみたい」
女がなんの話をしているのか、てんで見当がつかなかったが、日を跨いでああでもないこうでもないと話を聞きながら「龍」とかいうわけのわからないものの絵を描き続けた。
そんな風に暢気に過ごしていた、ある日。いつものように明け方前に牢へ向かっていると、空がいつまでも明るくならないことに気付いた。まだ夜なのかと懐中時計の針を見ても、昨日より少し遅いぐらいだった。
見上げた空は真っ黒で、月も、太陽も見当たらない。そんな光景に恐怖を感じた。わけなんてわからずとも、このまま塔まで向かえば俺は死ぬのだと気付いてしまっていた。
だから行くのをやめたんだ。けれども女のことが気がかりで、せめて塔の様子を遠巻きにでもと思い、周囲で一番高い建物の壁をよじ登ってやった。煙突の一番上まで登ってみたが、空が黒いせいで遠くなんて見えやしねぇ。馬鹿なことをしたと思いながらも、そこでじっと来ない朝を待っていた。
そうして、随分長い間何もせずに待っていたように感じる中、突然、空が二つに裂けた。
龍が出た。龍だ、まちがいない。あれは龍だった。
女の話に聞いた通りの姿形。一片の光もないのに閃く漆黒の鱗に、大地を揺らすほど破壊的な巨躯、そして、見る者全ての命を止める恐ろしい瞳を持っていた。聞いた通りではあったが、全くそんなものではなかった。女が自慢の恋人のように語っていた麗しい龍の姿と、目の前の、世界の終わりのような神秘的怪異の風貌は、あまりに一致していなかった。
恐ろしくて、恐ろしくて。私は逃げることもできずにその大いなる存在の姿を凝視するばかりでいた。
その最中、突然俺の耳に女の声が聞こえてきた。牢獄塔は遥か遠くのはずなのに。
「愛しい神よ。そんな顔をしないで。私は待っていただけだもの。あなたと巡り合うより前と同じように。
あなたは私のもとへ帰ってきてくれる、決して私から離れたりはしない。
だって、あなたは私を愛していて、私はあなたを愛しているのだもの」
その後だ。世界の全てが白銀の光に包まれて、砂塵のように崩れて消えていった。
全てが終わり、そして始まった朝。俺は同じ煙突の上で、同じように空を見ていた。にもかかわらず、世界は、どうだ……変わってしまった!
さっきまでとはまるで違う、醜悪な悪意に浸食された……穢らわしい別世界に、いつの間にか何もかもが変わってしまっていた。
何があったのだろう。わからない。わからないのだ。何が変わったかすらわからない。だが、確かにあの時、あの瞬間に、世界の全てが失われ、新しい何かが芽生え、散りばめられた。私はその中の数少ない異物となって同じ場所に残留し、ただ、変わってしまった事実だけを理解した。
明け方にもかかわらず暗く濁ったままの灰色の空を見上げ、白い息を吐く。空気は冷たく、体が凍えるように寒かった。
バスティリヤの街の上にふる、白い雪のきらめきだけが、涙が出るほど美しかった。