記述19 この愛は私のために 第1節
あぁ、体が重い。まるで泥で濁った沼の底に沈められているような心地だ。
開かない瞼を通して移り込む景色は真っ白け。ほとんど機能してくれていない五感の中、音だけが震える鼓膜をはじいて耳の奥に入り込んでくる。それは古びた蓄音機が奏でる音色のような、ゆらゆら揺らぐ音声記録。
冷たくて薄暗い微睡みの中、ただ静かに再生される記録の旋律に耳を傾ける。遠く聞こえてくる残響みたいな幻聴の数々。その中に、またあの言葉が混ざっている。
『好きなことをして生きなさい。俺たちのことは踏み台にしてくれて構わない。
嫌いになってしまってもいいんだ。だから自分の好きなように、自分のためだけに生きていきなさい。
その命が確かに報われると思える場所を、君が見つけられる日がくることを、願っているよ』
その生き方は傲慢だと拒絶し、けれども自由だと信じて受け入れた。人生で一番大きな選択の瞬間だ。俺はあの日あの時あの瞬間に、良い人間でいることを諦めた。
それで良いんだと、何度となく振り返ろうとする自分に言い聞かせながら、前だけを向いて生きていくことを決めた。
「趣味といえば、やはりカメラですね。朝焼けを撮るのは特に良い。そのためにわざわざ朝早くに支度をして外に出るくらいです」
そう、朝が好きなんだ。
聞こえてきた言葉に心の中で相槌を打つ。相槌を打ちながらも、何か新鮮な香りのする違和感を嗅ぎ取って、おかしいなと思い、目を開けた。そうだ、いつのまにか夢から覚めていたのだ。
開いたばかりの両目に映るのは真っ白な天井。模様のようなものが混ざって描かれているように見えるが、ぼやけてしまって上手く認識できない。いつも装着している視力補正用レンズが外れているのだと気付いたが、それにしてもぼやけすぎている。治療用薬物による副作用だろうか? はたまた単なる急速な眼球の劣化症状だろうか?
長らく活動を休止していた脳に思考の波が送られてきて、少しずつ意識が覚醒していく。その中で自分の体がベッドに横たわっていることに気付いた。背中全体から伝わってくる、冷たく乾いたシーツの温度と、素っ気ないスプリングの感触。そんな懐かしさすら感じるフワフワとした心地の中にいると、決まって漂ってくる清潔すぎる空気に混ざった薬品の香り。ここは、病院だろうか?
「おや、お目覚めですか?」
心地よい声色が語り掛けてきた。まだ意識は虚ろであったが、その鮮明な声を聞いて、これらが夢の中の光景ではないことに気付いた。
この声の主は誰?
「ここはどこ?」よりも先に浮かんできた素朴な疑問。どうやら自分はそれなりに長い間眠り続けていたみたいで、その間に色々なことがあったようだ。頭が上手く回らなくて、気を失う直前に何をしていたのかも思い出せない。何もかも曖昧で、まだ夢の中にいるような気分ですらある。
「気付いているでしょう、ここは治療室。患者は貴方一人だけです」
「……」
返事をしようと口を開けたが、喉が渇いていたせいか、声が上手く出せなかった。仕方なく視線だけでも合わせようと首を傾けても、視界は相変わらずぼやけていて、人らしき影が真っ白な背景の中に浮かび上がっていることしかわからない。そこに本当に『人間』がいるかどうかの判別すらできなかった。
「瞳は閉じていた方が良いでしょう。そして安心してください、視力が低下しているのは補強手術の最中で眼球への負担が一時的に増しているためです。無事に手術を終えれば以前より多くの光を取り込めるようになりましょう」
手術?
突拍子もない単語に驚いた左手がピクリと動く。不意に湧き上がってきた不安感に抗いたくて、手近にあったベッドシーツを握りしめる。驚くほど弱っていた握力では、縋るような形にしかならなかった。その握りしめた手の甲に、温かい何かが重ねられた。大きな手の平。誰かの体温が肌の奥にじわりと染み渡っていく。そこでやっと、自分の手が冷え切っていたことにも気付けた。
「大丈夫。これは貴方に悪意がある人物による陰謀や工作などではありません」
聞こえてくる声にも温もりが滲んでいるような気がして、与えられた言葉の通りに安心する。何故だろう、今はただ、素直にこの人の声を聞いていたいと思った。
「ディア・テラス。貴方は自分がペルデンテで気を失い、長い間眠りについていたのです。その場に居合わせたウルドは倒れたディアを急いで近くに会った空き家まで運び込みました。何となく、覚えてはいませんか?」
首を振ろうとしたところで、ふとそんなことがあったような気が急にしてきて、記憶を遡る。
そういえば、廃墟のような建物の中でウルドに看病を受けていたような覚えがある。意識はほとんど無かったために自分が何をしていたか、どういう状況にあったか、具体的なことはわからないけれど、そんな中で、ウルドに「鞄の中の薬を取ってくれ」と頼んだことだけは、何となく覚えている。
「国からの許可を得て正式に入国した貴方と違い、ウルドは不法入国でしたからね。そのため病人を抱えて医療施設の世話になることもできず、途方に暮れていました。本人から聞いた話によると、どうやら一日様子を見て目覚めないことがわかってからは、ディアを背に抱えて一人で広大な高原を歩いて渡ろうとしたそうです。フライギアが停泊している砦街までの道のりをね。そしてその道中で、高原の真ん中、自分の頭の上に、大きな影が下りてきた。探求科学機関JUNKが所有する超大型フライギア、ブルーローズです。さて、ここから先の流れはわかりますね?」
JUNKとは、自分の故郷であるフロムテラスで活動する、過激派の活動団体だ。テロまではしないが犯罪は平気で犯す、政府黙認の要注意団体。唐突にそんな名前を持ち出された場合、普通は混乱するものだが、自分の現在の状況と照らし合わせてみれば、なるほどそういうことかと、納得できる。
つまり、ウルドはJUNKのフライギアと遭遇した際に何らかのコンタクトを取り、俺の治療をしてくれないかと交渉を試みたのだ。その結果、何を対価にしたのか知らないが了承を得て、今にいたる。
「……ウルドは、どこ?」
か細い声で問いかける。今、何より重要なのはウルドの行方だ。
「少し頼まれごとをしているようですね」
「たのまれ……ごと?」
「人によっては過酷な内容かもしれませんが、ウルドは強い子だから大丈夫」
「本当に?」
「ウルドにとって一番つらいのは、ディアがこの世界からいなくなってしまうこと。だから、ディアのために身を捧げることを選んだ今のウルドには、なんだってできるのです」
「だったら……ちゃんとありがとうって言いにいかなくちゃ」
起きあがろうとして失敗する。体が鉛のように硬直していて、少しも動かない。
「無理をしてはいけません。今のあなたは棺桶に入れられた死体も同然。本来ならば深い眠りについているべき治療段階で、意識があるのは奇跡的なことなのですよ。今はただ、直によくなることを信じて、彼女らの施術に身を委ねてください」
「あなたは、一体?」
「はて、何者なのでしょうね」
「教えてくれない?」
「あなたの旅を応援するもの、とだけ言っておきましょう。今はまだ、ね」
もっと状態が良くなって、自由に起きあがって会話ができるようになったら、その時にでもまたお話しましょう。だから今はおやすみなさい。愛してますよ、マイ・ディア。