プロローグ
始まりはこうだった。父親がいつもみたいにひょいと顔を出してきて、幼かった頃の自分にとある提案をしてきたのだ。
「親戚のところにディアと同じくらいの年頃の子供がいるから、一度会いに行ってみないか?」
仕事で家を空けてばかりいる両親には、たまに帰ってきて顔を見せる度にあれこれとサプライズのプレゼントを残してまた立ち去っていく習慣があった。当時はかなり素直な性格をしていた俺は、与えられるプレゼントの全てを大喜びで受け取っていたものだったが、この提案をされた時はいつにも増して嬉しい気持ちになったことを覚えている。
何と言っても、この頃の自分は家からほとんど出たことがなくて、同世代の子供と同じように学校という施設に通うことすらしていなかった。だから今回の「友達ができるかもしれない」という話は千載一遇のチャンスだった。
そうやって逸る気持ちのままに父に手を引かれて連れてこられたのは、真っ白な四角い建物。そこは父の弟が務めている研究施設だった。
「あの子は特別だから、あまり刺激を与えてはいけないよ」
父が言うには、その子供もまた自分と同じように施設から外に出ず、学校にも通わず毎日をほとんど一人きりで過ごしているのだそうだ。そのせいか少し人嫌いというか、他人を怖がりがちな性格になってしまっている。だから会う時は気を付けてと、何度となく注意を言い聞かされた。
その子がいるのは機械の壁で厳重に管理された部屋の中。扉の前まで行って、セキュリティのロックを外してもらう。開いた扉の先には短い廊下があって、消毒液の臭いが充満していた。
「行っておいで」と父に背を押され、中へ入っていく。廊下の先にはまたもう一つ白い扉があって、俺は渡されたカードキーで鍵を開けた。
壁も床も白一色で塗り潰された、清潔さだけが取り柄のように何もない部屋がそこにはあった。家具も小物も何も無い、異様な雰囲気に満ちた空間だ。だからこそ、その部屋のすみっこに誰かが膝を抱えてうずくまっていることに、すぐに気付いた。
「こんにちは」
自分と同じくらいの歳頃の、小さな子供のように見えた。早速近くまで寄って話しかけてみると、その子は控えめな調子で顔をあげた。
途端に、世界がピカピカと瞬き始めたような心地に満たされる。なんて可愛らしい子供なんだろう。
綺麗な綺麗な満月色の大きな瞳。透き通るような白い肌に、ほんのりと赤みをおびた頬、柔らかな顔の輪郭をさらさらとなでる黒い髪。その子は俺の顔を見て、ただでさえ大きな瞳をより一層大きく見開かせて、驚いているように見えた。
恐らく少女と思われる美貌の彼女は、真っ白な床板の上に座り込んだ姿勢のまま、スッと小さく可愛らしい手の平を俺に向けて差し出してくる。握手をしたいのかと思った俺は、彼女の小さな手の平をそっと両手で包み込んでみた。すると彼女はピクリとまた小さくふるえ、それからおずおずと触れられた自分の手を見下ろした。
「あの……君が叔父さんのところの子供、だよね?」
勇気を出してたずねてみるが、彼女は首を傾げるだけだった。こちらが何を言っているのかわからないのかもしれない。不安になった俺は、彼女の返事を待たず、次々に言葉を続けた。
「父さんがね、俺と同じくらいの子供が叔父さんのところにいるから、一度会ってきたらどうかなって言ったんだ。それで、ここに来たんだよ。君は、えっと……名前は何だろう。俺はディアっていうんだよ!」
彼女はしばらく何も答えず黙り込んでいた。手はずっと握ったままで、時々確かめるようにもう片方の手で俺の腕を何度も触り直す。何が何だかわからず、けれどそんな反応の一つ一つが新鮮で面白かった。
やがて彼女は腕の先にあった俺の視線に再度気付き、小さな声で「ディア」とだけ呟いた。
直後、彼女に強い力で背後まで押し倒される。細い体をしているわりに力は強い。けれど暴力的な感じはしない。
白い床板に背中をこすりつけながら、見上げた先には美しい少女の顔。こちらを真っ直ぐに覗き込む二つの瞳は自分と同じ金色をしている。しかし、色味自体は少し違う。俺は父や母に褒められる自分の金色の瞳が好きだったが、それと同じか、あるいはそれ以上に彼女の瞳を綺麗だと思った。
「君は今、幸せなの?」
少女が俺の名前の次に言った言葉はそれだった。
「もちろん」
何の迷いもなく、素直な気持ちのままに笑顔で質問に答えた。
「よかったね」
彼女は笑うでも怒るでもない表情で、ただそれだけ言ってきた。
家からほとんど外に出ることなく日々を過ごしていた自分には、外で普通に暮らしている人たちに比べてモノを知らないという自覚があった。家には家庭教師や使用人やらがたくさんいて、勉学に関しては困ることがなかったけれど、知識というのは勉強とは別に存在しているもので、自分にはそれが足りないことを子供ながらによく理解していたからだ。
だけど、そんな俺の境遇以上に、彼女は世界のことを何も知らなかった。身体の事情で施設の外に出られないらしく、そのせいで自分のことすらもわからないまま生きてきたのだという。自分の父が誰なのか。自分の母が誰なのか。毎日の世話をしてくれる大人たちのことも、施設の外側に未知の世界が広がっていて、たくさんの人間が暮らしていることすらも知らなかった。というか、興味がなかったのかもしれない。
当時の俺は、自分より世界を知らない彼女に、自分が知る色々なものについて話して聞かせることが大好きだった。自分だって本で読んだり他人から聞いた話くらいしかできない立場にあったけれど、彼女はいつも興味深そうに話を聞いてくれていた。それが嬉しくてたまらなかったのだろう。
初めて出会ったその日以来、度々会いにいっては色々な話を二人で楽しんだ。会える回数は多いとはいえなかったけれど、変わらない日常が淡々と進んでいた以前までの日々と比べて、格段に有意義で刺激的な時間を過ごせているような気持ちになれた。次に会った時は何の話をしてあげようかと考えながら過ごしているおかげで、会えない時まで楽しく感じられるほどだった。それに訪問を繰り返すほどに、彼女もだんだんと口数が増し、相槌や質問をしてくれるようにもなっていった。これがまた嬉しかった。
そして何度も繰り返し会話をする中で、彼女が初めて自分に笑顔というものを向けてくれた時のこと。その笑顔がとても魅了的で嬉しかったから、俺は調子に乗って、彼女が喜んでくれることをもっとたくさんしてあげようと考えた。だからある時こう言ったのだ。
「冒険に出かけようよ!」
大人たちには内緒で、二人だけで施設の外に出て、街の中を見て回ろう。
その頃父親は仕事が忙しかったらしく、ディアは叔父のもとに預けられていた。彼女の方も病状が安定していたおかげで、あの真っ白な部屋の外にも出してもらえるようになっていた。ずっと考えていた作戦を決行するなら今しかない。そう思い至って彼女に提案したのだ。
彼女は了承し、その数日後の夜に、こっそりと準備しておいた荷物を抱え込んで、二人で施設を抜け出した。
見つかってしまったらどうしようとか、冒険から帰った後はどうしようとか、そんなところまで考える気なんて少しもなかった。
夜の世界を歩くのは、俺にとっても初めてのことだった。
「これは街灯」「それからあっちに見えるのは貯水タンク」「ほら、あれが中央塔」
彼女と話した色々なものを、一つずつその目で確かめながら旅をした。夜が肌寒いことも初めて知ったし、暗闇の中の光が眩しいことにも初めて気づいた。
楽しい時間はあっという間に通り過ぎ、それでもまだ夜は長く長く続いてくれている。二人の幼い子供たちにとって、世界は広く、のびやかだ。生まれて初めて手に入れた自由を片手に歩む道のりは少し不安で、恐ろしく感じることもあったけど、それ以上に楽しかった。
走り回ってるうちに、二人は小さな丘の上にやって来る。小高い丘の上から見た夜景は奥行きをもち、どこまでも深く深く広がっているように見えた。
この世界にはまだまだ知らないことがたくさんある。それを全部集めて、この子に教えてあげたら、きっと喜んでくれるだろう。何も言わず外の世界を眺めていた彼女の綺麗な横顔を見ながら、そんなことを考えた。だから俺はこんなことを言ったのだ。
「この世界には、俺たちの知らないことがまだまだたくさんあるんだ。だから、もっともっと、一緒に冒険しよう。今はまだ子供だけど、大人になったらきっと、もっと遠くの世界を見に行ける。色んなものを見つけて、色んなものを知って、色んなことを話そう。この世界を、二人でたくさん楽しもう!」
『約束だよ』
彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
その小さな冒険の夜からしばらくした頃、彼女は俺の前から忽然と姿を消した。叔父が何かの事件に巻き込まれ、帰らぬ人となったからだ。別れを告げる暇も無かった。
彼女がどこにいったのか父にきくと「別の親戚のもとに引き取られた」と答えられた。それがどこの誰で、彼女が今何をしているかは教えてくれない。だだをこねて父に頼み込んでみたら、彼はとても悲しいものを見るような顔で「あの子のことは忘れなさい」とだけ言った。それ以上は何も聞けず、結局それきり彼女と再会することはなく、時だけが無情に流れて行った。彼女のいた施設も知らぬ間に取り壊されていた。あの施設が何だったのか、何のために彼女があそこにいたのか、誰も教えてはくれない。
けれど俺には彼女と交わした約束があった。時が過ぎ、視野が広がり、人付き合いも増え、色々なことを見聞きするようになっても、彼女との思い出を置き去りにすることは、どうしてもできなかった。
一緒に冒険に出かけよう。この世界をもっとたくさん楽しもう。
気付いたのはいつになってのことだろう、彼女と交わした約束はいつしか俺の人生の指標になっていた。
やがて時が経ち、一人で自由に動けるほどに成長した俺は、「もう一度彼女に会いたい」という願いの赴くままに行動するようになっていった。
初めは単純な聞き込み。次に見知らぬ地域の探索。自作の住民票も作ったりもして、虱潰しに彼女を探した。けれど人が大量に往来する都会の真ん中、出会う人の内誰一人として彼女を知る者はいなかった。
またどこか人目に触れない場所でひっそりと暮らしているのかもしれない。そう思い、人の立ち寄らない裏路地にも足を踏み入れていった。怪しい店、貧相なホームレス、粗暴なチンピラ、非合法の科学者、隠れ住む犯罪者、暗躍する闇組織。不良の勢力抗争に巻き込まれたり、怖い黒服に取り囲まれて死にかけたこともあったりしたが、それでも俺は懲りずに彼女を探し続けた。
しかし結局、どこにもいない。下の下、裏の裏までめぐっても、彼女はまだまだ見つからない。だったら今度は上だ。そう思い至った頃、俺は父の薦めを受けて行政の仕事に就いていた。
周囲にはなぜか期待されていて、そのおかげで若いながらにみるみる地位は向上していった。寝る間も惜しまず仕事に励み、信用を勝ち取り、さらに重要な仕事へと歩を進める。そうやって辿り着いた先にあったのは、都市住民全ての情報が保管された個人情報のデータベースだった。
『この世界は監視されている』
探れば探るほど湧き出す無限にも見えた個人情報の海。政府はその全てを機械的に処理しながら、フロムテラスに生きる住民の全てを好きなように利用していた。そんな普通に生きているだけでは絶対に見ることがない重要機密。ここになら、彼女の情報だってあるはずだ。そう信じてデータの隅から隅まで漁りつくした。断片でも構わない。彼女が生きていた証拠だけでもと。しかし、成果は何も得られなかった。この場所こそ、彼女が幻ではなかったことを教えてくれる、最期の砦だったはずなのに。
彼女は見つからない。
まるで存在してはいけないモノのように。どこにも、何も痕跡がない。後に残ったのは、彼女だけが切り抜かれた知識と経験だけ。
それでも俺は約束を守らなければいけない。彼女のいない世界で、彼女と冒険する夢を叶えなくてはならない。
彼女を求めるうちに染みついた知識欲は未だに冷めることはなく、中毒のように俺の身体全てを蝕んでいる。自分だけでも冒険してやろうと、彼女のことを諦めようと考えたこともあった。けれど無我夢中でしがみついて、放そうとしなかった。こんなところまで来てもまだ彼女に会えないなんて、そんな結末を受け入れることが苦しくてたまらなかったのに。俺が今までしてきた努力は何だったのだろうと。
そしたらホラ、アデルファ・クルトが現れた。
目的なんて何でもよかったんだよ。
この世界がどうだとか、龍の真理を追求するだとか、そんなものはどうでもよかった。
ただ、アデルファさんの導いてくれた道の先に、見知らぬ世界が広がっていることに意味があった。まるであの夜に彼女と見た景色のように、フロムテラスの外に広がる世界は壮大で、俺の中の冒険心を激しくかきたてた。
自分はただ、彼女と交わした約束を守りたかっただけなのだろう。二人で一緒にという部分が叶えられなくとも、自分だけでも冒険に出ることができれば約束の半分までは叶えられる。彼女ならば、それでも喜んでくれると思った。だから、全部投げ捨ててやったのさ。今まで手に入れた人脈も、信頼も、金も、地位も、情報も、全部投げ捨てて、旅の用意だけすませて飛び出した。
あの日の小さな冒険に出かけた時と同じように、後のことなんて、少しも考えないままに。
……なんて、そんな話をとある日の夜に、月を見ながら旅仲間に話したことがあったのだけど、その時に言われた言葉が次の通り。
「あなたって意外と強情な性分なのね」