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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述18 救済のカタチ
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記述18 救済のカタチ 第6節

 深夜遅くの帰宅になった。扉の鍵を開けて家の中に入ると、そこには足元すら見えないほどの真っ暗な闇が体全体を包み込むように広がっていた。

 暗闇の中、冷えてかじかんだ両手から手袋を外し、重たく湿った外套と一緒に床に投げて捨てる。鞄も手放して、ブーツを脱ぐためにその場に座り込んだ。そしたらどういうわけかそのまま動けなくなってしまい、しばらくの間玄関口にうずくまったままになっていた。

 俺は何をしているんだ?

 どうしようもない疑問が頭の中に浮かんで、消えない。

 自分はきっと今、城下の景色を眺めていた時のイデアールと同じ眼の色で己の足元をじっと見つめている。意味などない。古びたタイルが張りつけられた玄関の床には、衣服からしたたり落ちた水滴が水溜まりを作っている。その水溜まりが小さくはない大きさまで広がっていくのを見届けた後、特に意味もなく紐をほどいただけだったブーツから足を引き抜いた。

 立ち上がり、中履きもはかないまま冷えた廊下の床を歩いて進む。

 そうして部屋の扉を開けようとしたところで、手が止まった。半透明なガラス窓の向こうに見える室内の様子が、ほんのりと明るい。まさかと思ってドアノブを捻ると、入ってする正面の窓際に灯りの点いたランプがあった。その傍らには、椅子の上で両膝を抱えて座り込んでいる、エッジの姿が。

「エッジ……?」

 うとうととまどろみの中にいたエッジが目を覚まし、こちらを見た。

 琥珀色の幼い両眼が、ランプの火に照らされてほんのりと光っている。

「フォルクスさん……?」

 まだぼんやりとした意識のままに、エッジは椅子から降りて、こちらへ近付いてくる。服装は薄い寝巻姿のまま。今宵は毛布一枚羽織っていただけでは、辛抱できないはずの寒さであるはずだった。

 一歩、部屋の中に自分の方からも足を踏み込ませ、後ろ手に廊下の扉をしめる。その内に手を伸ばせば触れられる距離まで近付いたエッジが、俺の顔をあどけない仕草で見上げた。

「おかえりなさい」

「……どうして起きているんだ?」

 ただいま、と言いさえすれば良かったところで、自分本位な疑問を子供相手に投げつけた。エッジはそんな俺の態度を叱られたと受け取ったのか、一瞬で身をすくめてほんの少しの距離をとった。そして言う。

「帰ってくるかと思ったんだ」

 一晩は城の方で泊まってくると伝えていたはずだ。忘れていたわけでもないだろうに。

「だが、今は真夜中だ。ちゃんと寝ていないと駄目だろう」

「ごめんなさい」

「……謝らなくていい。いいから、少し暖まろうか。体が冷えているだろう」

 そっとエッジの頬に触れて、温度を確かめる。手の平に柔らかな少年の肌の感触が広がる。同時に凍えるほど冷えきった表面温度と、紫に変色した唇の様子も確認する。

 俺は触れていた手を放し、暖炉へ火を付けるためにエッジに背を向けた。そこで、背中の服を小さな力でひっぱられた。一瞬動きを止めて、改めて振り返る。

 ぼんやりとした表情をしたエッジが俺の方を見ていた。真っ直ぐに、見上げている。

 その時不意に、エッジの顔立ちにステラの面影が被って見えた。ハッとして目を逸らし、見てはいけないものを見てしまったことに嫌悪し、両目を強く閉じる。閉じた瞼の向こう側には、失われた故郷の思い出が容赦なく浮かび上がって、水に溶けるように消えていく。目を開き、現実に戻る。そこにいるのはエッジ・シルヴァだけで、それ以上でも、以下でもない。

 こんなことは卑怯だとわかっていながら、衝動にはどうしても抗えなかった。俺はエッジの前に両膝をついて座り込むと、その小さな体をそっと抱き寄せた。

 子供の体とは思えないほど冷えた体温が、触れた体の部位全てから伝わってくる。

「やっぱり、冷えているじゃないか」

「部屋の中が、とても寒くて……」

 エッジを抱きしめる腕の力が、ひとりでに強くなった。

「エッジ……それは『さむい』と言うんじゃなくて、『さみしい』って言うんだ」

「さみしい?」

 そんな言葉は知らないと言わんばかりに不思議そうな声が返ってくる。

 柔らかな氷色の髪を指の間で梳いて、撫でて、抱き寄せる。

「さみしいのは、俺だけなのかな?」

 俺の胸の中に頭を埋めていたエッジが少しだけ顔を上げて、もう一度こちらの顔を見る。

 じっと見つめ、何度か重たい瞬きをする。その宝石みたいな二つの瞳が、俺には覗き込む度にきらきらとした輝きを増しているように見えて仕方がなかった。

 今もそう。今まで見た中で一番美しい輝きをもったエッジの眼差しに心を奪われる。

 それは綺麗だから見惚れているわけではない。むしろ逆で、見つめる度に不安で不安で仕方なくなる。

「エッジ……俺は……」

 お前の父親を殺したんだ。そう言おうとしたところで、開いたままの唇がピクリとも動かなくなってしまった。

 最悪だ。卑怯だとわかっていながら、言葉が出ない。声が出せない。口に出してしまえば、全てが終わってしまうような気がした。

 お前の父親を殺したのは俺だ。エッジの人生を滅茶苦茶にしたのは俺だ。

 この育ちきらない情緒を見てみろ。まともな教育と保護を受けられなかった境遇を心に思い描いてみよ。見れば見るほど、思えば思うほど、心を脅かされるじゃないか。

 さみしさの意味すら理解しきれず戸惑う姿も、俺なんかを信じて求めてくれる健気さも、向けられる愛情と確かな憧れの眼差しが本物であることも。実感すればするほど、崖の端に追い込まれていくような焦燥感に責め立てられる。

「フォルクスさん?」

 気付けば抱きしめていた腕の中からエッジがいなくなっていて、自分は空になった両手を宙に浮かべて静止していた。そんな気の抜けた俺の姿を傍でじっとエッジは見つめていた。そして、小さく首を傾げてたずねてくる。

「……フォルクスさん、どうして……どうしてそんな顔をしているの?」

 指摘されて初めて、俺は自分が知らぬ間に涙を流していたことに気付いた。

「俺はなにか……また、悪いことをしてしまったのかな……ごめんなさい」

 不安そうに優しい言葉をかけてくれるエッジの声もまた震えていて、両目の端にはほんのりとした涙の膜が浮かんでいる。

「謝らないでくれ。オマエが、俺なんかに謝らないでくれ」

 俺はエッジを泣かせてしまったことにショックを受け、動揺のあまりにわけのわからない言葉を繰り返す。

 謝るべきは自分の方なのに。

「頼むから、オマエはもっと…………いや、違う。ちがうんだ……俺は」

「俺のせいかな。俺が言いつけを守らなかったから」

「……」

「嫌いにならないで」

 嫌いになんて、ならない。なるわけがない。俺がエッジを嫌いになることなんてありえない。だってオマエは、俺にとってエッジ・シルヴァという存在は……

「ごめんな……エッジ。謝るのは俺の方なんだ。本当に、ごめん」

 さっきまでエッジを抱きしめていた両腕を床に付け、みっともなくうずくまって泣きわめく。両眼からはひたひたと涙が流れ落ち続け、声も怯えたように震えている。

 胸の中をいっぱいにして締め付け続けるものは、己への失望心。呆れ、嫌悪、軽蔑。自分勝手な執着心ばかりが人一倍にあって、虚栄心だってどうしようもない。

 俺はエッジに嫌われるのが恐ろしくて仕方がないのだ。だってこの子供は、エッジ・シルヴァという存在は、俺にとってこの変わり果てた世界の姿そのものなのだ。

 どんなに醜く崩れ落ちようが、二度と癒えぬほどの疵を負おうが、健気に前を向いて生きている、この世界にひっそりと漂い続ける微かな希望の輝きそのものだ。

 それは確かな愛。未来を信じる心。健気な願い。ただ歪んでいるだけの、無垢な祈り。

 俺はイデアールの命を救ってくれた世界の変化に感謝していた。

 エッジと歩いた雪道の穏やかな景色を好ましいと思っていた。

 過酷な環境に変わり果てた世界の中で、それでも生きていくことをひたむきに願う、全ての生物の在り方に愛しさを覚えていた。

 あの時に死んでおけば良かったなんて思っていない。思うわけがない。はずなのに、そのはずなのに。

 なんでだろう。今も目の前にいるエッジの姿を見る度に胸が苦しくなる。抱き寄せて、手の平で触れる度に、苦しんでいることを知ってしまうほどに、惨めで惨めで仕方ない気持ちになる。

 なぜ助けた。どうして救えると思った。レトロを殺したことをいつまでも引きずっていた俺なんかが、どうしてエッジの傍にいて平気でいられると思ったんだ。己へ向けた罪悪の認知はエッジとともに過ごす日々の中で、こんなにもとめどないほど大きく膨れ上がっていくばかりなのに。

 なぜ手を差し伸べたりしたのか。その理由は明白で、だからこそ自分が情けなくてたまらない。

 助けられたからって何になる。たとえ救いあげられたからといって何の意味がある。俺はエッジにどうしてほしかったんだ。「ありがとう」とでも感謝してほしかったのか。そんなわけがない。むしろ逆なんだ。

 知られたくない。知られたくない。嫌われたくない。失望されたくない。この裏切りを知らないままでいてほしい。オマエの理不尽な不幸の出所が俺であることなんて、絶対に知らないままでいてほしい。

 だってエッジは、きっと俺のことを赦してくれるから。

 だから……あぁ……なんて最悪な自分。いっそ死んでしまえばいいのに。

「俺はオマエを嫌いになったりしない。何があっても、絶対に。だけど俺は……俺には。オマエを……」

 幸せにするだけの力が無かった。

「ごめんな、エッジ」

 泣きすがるような謝罪の言葉。それ以外、何の言葉も出てこなかった。


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