記述18 救済のカタチ 第5節
一晩だけ城下街の方まで出かけてくる。そうエッジに言い聞かせて朝早くに家を出た。
バスティリヤの国軍基地で一人乗りの雪上車を借り、積雪で真っ白に染まった荒野の上を真っ直ぐに走る。雪上車は自動車やフライギアと比べて速度が控えめなため、城に着くまでには六時間もの時間がかかった。
城の門前まで来るとすぐに兵士たちが集まってきて、口々にイデアールのことを話し始める。けれど誰一人として直接面会したわけではないため、伝えられた悪行も奇行もどこまで本当のことかわからなかった。
「殿下ならば最近はよく、城の上階にあるバルコニーにいらっしゃるそうです」という情報だけはどうも信憑性があるらしく、俺は早速その場所に行ってみることにした。移動時間の都合でどうせ一晩は城に留まることになるのだが、できれば早く用事を済ませて、エッジのもとへ帰ってやりたい気持ちがあった。今の彼を一人にしておく時間は短ければ短いほど良いに決まっている。にも関わらず、今日、エッジを一人にしてまでして城にいるイデアールのもとまでわざわざやってきたのは、けじめを付けてしまいたいという気持ちがあってのことだった。
兵士から聞いた通りの場所まで行ってみれば、城のバルコニーには大きな車椅子がこちらに背を向けながら静止していた。屋根のないバルコニーには少なくはない量の雪がふっており、車椅子の上にもいくらかの雪が積もっていた。
ガラス張りの両開き扉を腕で押して、外へ出る。ナイフのように鋭く張り詰めた風が肌を刺した。高所というだけあって気温は低く、吐く息の白さもいつもより濃いものに感じられた。
「こんなところに長い間座っていたら、また体調を崩すぞ」
車椅子の横まで近付いて声をかける。しかしこの皮肉の挨拶は彼に聞こえていないようだった。
屋外で見るイデアールの姿は、病室の中でいつも見かけていたそれよりも随分とみすぼらしいものに感じられた。空が曇っているとはいえ、真昼の空から注がれる太陽の光は本物の自然物だ。それが体の大部分を機械で補われた今の彼の体を照らしていることに、痛々しさを勝手に感じてしまうからだろう。誰も好き好んでこんな姿になったわけじゃない。同情したって仕方ないと頭ではわかっていても、彼の顔に深く刻み込まれた赤黒い傷痕を見ると、欠損してしまった左腕の義手が車椅子のタイヤの上に放り出されているのを見ると……居た堪れない気持ちになってしまわざるをえないのだ。
イデアールの濁った青色の瞳はバルコニーの外側に広がっている城下街の景色の方へ向けられていた。けれどそれは顔を向けているだけで、実際には何も見ていないのだろう。焦点があっていないことなんて、横目に少し見るだけですぐにわかった。それくらい今の彼の表情は暗く沈んでいる。大人しい時は、いつもこうだ。
車椅子の隣に立ったまま、自分も目の前の景色の方へ顔を向けた。代り映えのしない灰色の街並みだ。かつては鮮やかな色をしていた建物の屋根は、そのことごとくが安価なコンクリートにとって代わられた。昔ながらの豪勢な貴族屋敷なんかも今やほとんど無くなってしまっているし、あったとしても随分と質素な佇まいをしていることが遠目に見てもわかる。城下街とそれ以外とを隔てる関所の壁は日に日に高くなる一方で、街の外側には寒々しい景色ばかりが続いている。だからといって、城下に暮らす人々の暮らしが豊かなわけではない。今のウィルダム大陸に生きる人は、みんな苦しい。みんな等しく陰鬱で、冷淡で、満たされない日々を過ごしている。そうなってしまったのはどうしてだろうか。そうしてしまったのは、誰だろうか。
吐いた息が白く染まる。顔の前で大きく広がり、風に吹かれてどこかへ消える。
溜め息だ。責任なんて感じたところで、意味はない。後悔したところで何も変わらない。ただただ生きていることが無様に感じられて、イデアールなんかより自分の方がよっぽど悲痛な思いをしているんじゃないかと、勘違いしてしまいそうになる。
「あの時に死んでいればよかった」
灰色の世界に向けられていた視線を、車椅子の方へ下ろす。イデアールは虚空を見上げたまま、やつれきって乾いた唇を小さく動かし、言葉をつぶやいた。
「白んでいる……濁っている……何もかもが、見るに堪えない」
暗い青色の瞳の上に瞼が覆いかぶさる。強い風がまた一つ吹いて、イデアールの灰色の長髪を大きくなびかせた。薬品の香りが鼻先を通り過ぎる。
「花が好きだった。外行きの服を着込み、馬にまたがり、開けた草原へ遠乗りに出かけるのが、楽しみだったのだ。山があり、川があり、風は穏やかで、木々の隙間から零れ落ちる光は涼やかで美しかった。そうだな……私は、人の笑顔を見るのが心底好きであったのだろう」
医療用の手袋をはめられた右腕の手の平が、彼の目元を覆い隠す。もう何も見たくないと顔を俯かせ、現実から目をそらす。
これはもはや、涙の一滴も流すことができなくなってしまったイデアールにとっての慟哭に他ならない。彼は今も泣いている。それは俺だって、同じだ。そうに決まっている。
「あぁ……エルベラーゼ。私は……お前が愛した世界を愛していたのだ。確かに、愛していたのだ……例えそこにお前がいなくとも、ともに生きてくれなくとも、愛おしいと思えたものの全てを、大切にしたいと心に願っていた」
俺はイデアールのことが好きだったのだ。わかりきっていた話だった。自覚もしていた。だからこそ、世界がこんなに変わり果てた後になっても、彼が生きていてくれたというだけで、救われたような心地になれていた。
だからこそ、だからこそ、今がこんなにも辛いのだ。
「ぜんぶが間違いだったって言うのかよ」
やっとのことで絞り出した反論が、彼の耳に届くことはない。今の彼は何も聞いてくれない。わかってくれない。理解しようとしてくれない。拒絶だ。あるのは途方もない拒絶と、絶望。そして失意。
「俺は……変わってしまった後の世界に、機械があってよかったと思っているぞ。今も思っている。確かに、思っている。なのに、オマエは……否定するんだな」
「死ねばよかった。お前だって、そうだ」
指の隙間からのぞいた、赤く充血した白目の上を瞳がゆったりと動き、こちらを見る。
「排煙の薫りがこびり付いた掃き溜めでの暮らしは楽しかったか?」
言葉が出なかった。これ以上は何も言えない。何も意味がない。以降に続いた長い沈黙は、俺にもイデアールにも破れるものではなかった。
空からふる雪の量がさらに増え、いつの間にか自分の肩は霜が降りたように白く染まっていた。外は寒く、凍えるほど静かで、二人でいるはずなのに寂しくて仕方ない。
風の音だけが聞こえる静寂の中で、陽は傾き、空は徐々に暗い藍色に染まっていく。輝かしい夕陽など今日は見られず、そのまま空は黒く、深く、闇色に染まっていく。
俺は車椅子に座ったままのイデアールを一人バルコニーに残したまま、その場を立ち去った。