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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述18 救済のカタチ
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記述18 救済のカタチ 第3節

「一人分で良かったかい、まいどあり」

 一枚の紙幣と引き換えに持ち帰りの食品を袋に包んでもらい、手渡された紙袋を小脇に抱えて店を出る。閉店間際の飲食店には自分以外の客が一人もいなかった。それは店を出てすぐに目にする夜道の景色も同じで、中途半端に幅の広い道路には走る車の姿も歩く人の姿も、少しも見当たらない。

 懐から小型の通信端末を取り出し、画面に表示されたデジタル時計の数字に視線を落とした。すでに時刻は夜も深い。今から徒歩で帰宅するとして、家に着くころにはまた随分と遅くなってしまうなと、申し訳ない気持ちになった。帰りが遅くなる連絡はすでにしていたが、念のためにと思い、もう一度短いメッセージを送っておくことにした。

 画面から顔を上げ、端末をコートの内ポケットにしまう。それから周囲の白い景色に目を向け、道路の端を一人で歩き出す。今宵はいつにも増して冷え込んでいる。服の隙間から冷たい空気が入り込まないように首回りを整え、襟巻きの形を直した。

 歩いていると後方から走行音が一つ聞こえ、まもなくして厳めしい外装をした軍用車が真横を通り過ぎていく、ヘッドライトの光。撒きあがった排気ガスの煙が暗い夜道にもかかわらずしっかりと視認できたのは、目に見える景色の全てが雪という不思議な氷の結晶に包まれて、ほのかに明るく白んでいたからだった。

 積雪対策が施されたパイプ敷きの地面を歩き、用水路の上にかかった小さな鉄橋の上を通り、なんとはなしに景色を見る。雪の白と、夜の黒、建物の灰色が入り交じった色の無い落ち着いた街並みが続いている。吐いた息が白く濁り、無彩色な景色の中に溶けて消える。

 コンクリートの住宅街の、その向こうに見える工場の遠景は大規模浄水施設の集まりだった。それはこの世界の構造がまた一度改変された時に現れたもので、今のバスティリヤの経済を支える重要な産業資源だった。

 エルベラーゼが自殺したあの日の夜、何のためなのか、世界はもう一度様相を大きく変えた。

 まず変わったのは世界の規模。確認した時には大層驚いたものだが、もともとあった「世界地図」という概念がそっくりそのまま消滅し、その代わりに「大陸地図」というものがここに生きる人々にとっての世界の全てに成り代わっていた。小さく形を変えたウィルダム大陸の周囲に広がる海の向こうに何があるのか知る者は、もはや大陸中のどこを探しても存在しないとまで言われる。

 次に変わったのは国際情勢。現在のウィルダム大陸にはアルレスキューレという国の他に、二つの国が存在している。一つが大陸の北西部に存在する、炭鉱と高原の国ペルデンテ。もう一つが南西部にある水と森林の国グラントール。どちらの国も大陸内で最も広大な国土と文明力を持つアルレスキューレを敵視しており、アルレス側もアルレス側で他の国の民たちを『アブロード』と呼んで蔑んでいる。両者に歩み寄り和解しようとする気配は少しも見られず、近い将来の内に大陸全土を巻き込んだ戦争が始まるんじゃないかと各所で噂されている。

 しかしながら、そんなスケールの大きな話よりも、俺にはもっと重要のように感じられる変化が他にあった。それがこの、今も目の前でちらちらとふり続いている『雪』と呼ばれる気候現象。そして雪と共に大陸の真ん中に出現した『中央雪原』と呼ばれる人類未踏の地の出現。王女エルベラーゼと、その息子であるエッジという少年が、父親であるレトロが死んだ後の七年間を過ごした特別な場所。この存在を自分は、どのように受け入れなければならないのだろうか。考えれば考えるほど、気が滅入るような話だ。

 よそ見をしていた景色から視線を前方に戻すと、いつの間にか自宅のすぐ近くまで辿り着いていた。ここはバスティリヤに滞在している間だけ住むことになった借家で、中はそれほど広くはないが近くに収容所の看守たちの寮がある関係で治安がよく、住み心地は悪くない。玄関前に積もった雪をシャベルで払い捨ててから扉を開き、家の中へ入っていく。

 薄暗い玄関まわり。入ってすぐのところにある短い廊下の向こうでは、ストーブの赤い光が点っている。彼はまだ起きているようだ。確認してから玄関に座り込んで、濡れたブーツを脱ぎ始める。そうしているとしばらくして、背後から小さな足音がトントンと聞こえてきた。振り返ると、廊下の真ん中に一人の少年が立っていて、こちらをじっと見つめていた。

「ただいま」

「……おかえりなさい、フォルクスさん」

 控えめに見開かれた琥珀色の瞳が二つ、俺の顔を見つめながら大きな瞬きをパチパチと繰り返した。

 脱ぎ終えた靴を玄関の端に片付け、立ち上がる。それから今まさに俺の帰りを出迎えてくれた少年……エッジ・シルヴァの方へ一歩近づき、頭をなでる。母親によく似た柔らかい癖毛の髪の感触が手の平いっぱいに広がった。触れた体から伝わる温度は高く、寒い思いをしていなかったことにまず安堵した。

「廊下は寒いからな。部屋に入ろう」

 触れていた手の平を頭から離し、手招きを一つしてから一緒に奥の部屋へ入っていく。

 ストーブがしっかりと点いた部屋の中は、一歩中へ踏み込むだけで心がほっとするほど暖かい。念のために変なことは起こっていないか一望して確認してから、部屋の真ん中にある机の上に、手に持っていた紙袋を置いた。横で俺の挙動を見ていたエッジはその紙袋が食事であることに気付き、ひょこひょこと絨毯が敷かれた床の上を歩いて移動し、椅子に座った。

 雪を被った重たいコートを脱ぎながら、その様子を眺める。

「今日も遅くなってしまったな」

 食器棚から皿を一枚取り出し、紙袋の横に置く。それから椅子に座ったエッジの向かいの席についてから、改めて話しかけた。エッジは遠慮がちに首を横に振る。

「ううん……ありがとう」

 物わかりの良すぎる感謝の言葉を返されて、さらに申し訳なく思う気持ちが膨らんだ。なんと返事をすべきか困った俺は黙って机の上の紙袋を手に取り、封を開ける。中には茶色い薄紙に包まれたサンドイッチが入っていて、それを皿の上に置いてからエッジの前に差し出した。

 柔らかいパンに野菜がギッシリと挟まった彩りのあるサンドイッチだ。店のメニューの中で一番高いものを買っただけあって、栄養価の高そうな見た目をしている。量も少なくないし、今晩はこれ一つだけで食事は足りるだろう。けれどやはりテイクアウトの惣菜というものはどうあがいても味気ない雰囲気になってしまうものだ。明日は時間があるから、もっと良いものを作ってあげることにしようと思った。

 エッジは皿の上のサンドイッチをしばらく黙って見つめた後に、恐る恐るといった様子で手に取り、目一杯口を開いて噛み付いた。サンドイッチを与えるのは今回で三度目くらいになるが、最初に与えた時よりも食べ方が上手くなっていることに感動してしまった。たっぷりと入った具がパンの間からこぼれ落ちないように必死になって噛み付いている様子は可愛らしいが、ちょっといじわるだったかなとも思う。次は栄養価についてもそうだけど、食べやすい形のものを選んだ方が良いだろう。

 そうしてサンドイッチを食べる少年の様子を見つめていると、ふと、当の本人のエッジが不意に食べるのをやめて、俺の顔をじっと見つめ始めた。

「どうした?」

「その……食べているところを見られるのって、恥ずかしいよ」

「なぜ?」

「……どうしてだろう?」

 食事をとっている姿を見られるのが恥ずかしい……そんなことがあるとは初めて知った。けれどわざわざ言葉にして伝えてくれるだけあって、彼にとってはよほど居心地が悪く感じられることなのだろう。なんとなくだが、そう思ってしまう心理には察せるものがある。

 申し訳なく思いながら、ここは素直に彼の言葉を尊重することにした。

「じゃあ、俺は浴室で体を洗ってくる。ゆっくり食べていてくれ」

 そう言ってから席を立ち上がり、エッジの傍を離れて浴室の方へ向かっていった。

 

 

 

 ガチャリとドアノブを捻る音が鳴る。脱衣所の扉を開けてみたところで、驚いた。外の廊下にまたエッジがポツリと縮こまって立っていたのだ。どうして暖かい部屋の中ではなくてこんなところにいるんだと思いながら歩み寄り、小さな彼に視線を合わせるようにかがみ込んで、話しかける。

「こんな寒い所にいては体を冷やすぞ?」

 エッジは何も言わず、大きな二つの瞳でもって俺の両眼を見つめ返す。それで俺は、エッジは自分が脱衣所から出てくるのを待っていたのだと気付いた。どうしてそんなことをしようと思ったのか聞いてみたくはあったが、その答えは彼本人にもわかっていないように見えた。だから代わりに、俺が意味と理由とを考える。心臓がきゅっと締め付けられる心地がして、溜め息にならない程度の浅さで息を吐いた。

「あまり傍にいてやれなくて、ごめんな」

 両腕を伸ばし、少年の体を抱き寄せる。冷たく、薄く、不安になるほど痩せ細った体格をしている。近くで見つめる肌の色は青ざめていて、手足は枯れ枝のように細い。腕の中で小さく呼吸する彼の息吹を感じていると、初めて出会った時のことを思い出してしまう。

 バスティリヤの牢獄塔。死んだ母親と涙する子供。あの時のエッジは、まるで息をしていることすら不思議に思えるほど衰弱していて、身なりも悲惨なほど汚れていた。

 垢と泥に塗れた傷だらけの皮膚。凍えて震える指先に、ギザギザに割れて血の滲んだ爪。身に纏う衣服は布きれのように粗末なもので、サイズが合っていない長靴の下から出てきた素足は肌荒れと霜焼けで青紫色に変色していた。

 けれど顔だけはどれだけやつれていても、両親の血を色濃く受け継ぐように整っていた。

顔中を覆う泥汚れの下から覗く肌のは色白く、柔らかい。整えてもいないはずなのに長く伸びた睫は雪の結晶のように繊細で、乾いて裂けた唇の形だって少しの歪みもなく均等がとれている。

 そして何より、涙に塗れた大粒の瞳、その魅力に引き込まれる。暗闇の中で見たそれはきらきらと光っているようで、俺にはそれが、途方もなく眩しく感じられた。

 まだ幼さが残る少年であるエッジの顔は、絶世の美女と称賛されたエルベラーゼと……あるいはステラと瓜二つであった。今も見つめる度に心が締め付けられる。見つめ返される度に、自分は何故この子供をあの冷たい牢屋の中から助けだそうと思ったのか、自問自答する。生まれてくる感情は、罪悪感と自己嫌悪。

 冷えた背中を少しでも温めるために伸ばした指の先が、少し震えていたのは、雪ふる夜の寒さが悪いのだと思うことにした。

「うれしいよ」

 腕の中に抱きしめたエッジが小さな声でつぶやいた。単語だけで発された言葉はいまいちに会話になりきっていなかったけれど、言いたいことは十分に伝わった。

「……どうしてエッジは、俺を信じてくれるんだ?」

「疑わなきゃいけないの?」

 思いがけない言葉を返される。抱きしめていた体を少しだけ放し、エッジの顔を見つめる。

 戸惑い、自分の顔半分を手の平で覆い隠し、黙り込む。洗ったばかりで半乾きな長い髪が額からハラハラと零れ落ちた。そしてエッジの瞳から眼を逸らしながら会話を続ける。

「疑った方が良い。疑った方が、ずっと楽に過ごしていられる。良いものと悪いもの、その両方を同じように疑い続ければ、何も区別を付けないままにしておけば、色々なものを許せるし、諦められる」

「そうなの?」

「……」

「でも、好きなもののことは信じてもいい?」

 好きなもの。

 フッと、思わず口から笑いがこぼれた。覆い隠していた顔から手を放し、同じ手の平でエッジの頭を柔らかく撫でる。

「それも大変だと思うぞ?」

「がんばる」

「そうか」

 抱きしめていたエッジの体を手放し、立ち上がると「おいで」と言って部屋の中へ手を引いて連れていった。寒々しい廊下から暖かい熱に満ちた室内へ。ここはいるだけで心に余裕が生まれる。

 窓際の椅子に腰かけると、エッジもその向かいに置かれていた小さなソファに座り込んだ。クッションを一つ投げてあげると受け止めて、エッジはそれを両腕の中に抱え持つ。

「なあ、エッジ。明後日は用事が無いんだ。だから一緒に市場の方に出かけないか?」

「外に出てもいいの?」

「いいよ。騒ぎも随分収まってきているから、俺と一緒にいれば大丈夫だ」

「ありがとう、フォルクスさん……でも」

「でも?」

 エッジはこちらを向いていた顔を逸らし、カーテンがかかった窓の方をじっと見つめる。

「また雪がふっているかもしれない」

「雪?」

 こくりと頷かれ、自分も窓の方を見る。分厚い断熱カーテンの向こう、窓枠の外では、今も白く細やかな雪がしんしんとふり続いているはずだ。その様子を頭の中で想像し、雪の中に佇むエッジの姿も思い浮かべる。空想の世界でどれだけ暖かい格好をさせたところで、彼の赤らんだ表情からはいつまでも不安の色が消えなかった。

「雪は冷たくて、寒くて、とても危ないから」

「……中央雪原には戻りたくない?」

「それは……わからない」

「エッジ、オマエが本当に怖がっているのは、たぶん雪じゃないよ」

「ちがうの?」

「あぁ。それはきっと、俺も同じように怖がってる」

 丸電球のオレンジ色の灯りに照らされた小さな部屋の中。二人の言葉だけがお互いの鼓膜を揺らしている。

「雪は……確かに怖いとか、恐ろしいとかいう話はよく聞くけれど、それだけじゃないんだ。雪は溶けると水になる。その水が、俺たちの命を守る救いになっているんだ」

 環境汚染の急速な浸透が原因となって、今や当たり前のように人々の生活を脅かすようになった生活用水の不足問題。そこに唯一と言って良いほどの答えをくれる存在が、大陸の中央部にのみ降り積もる雪と、雪解け水だった。

「この世界に降る雨には毒が混ざっているけれど、雪には少しも混ざっていない。埃や殺菌は含んでいるから飲む前に少しばかり加工した方がいいと俺自身は思うけど、そんなものはほとんど無害のようなものだろう。どうして同じような気象現象なのにそれほどの違いがあるのかは、城の科学者たちがどれだけ研究してもわからないらしい。だから人によっては、この不思議な雪というもののことを、とても清らかで尊いもののように思っていることもある。信仰だ。雪は、神様が地上にいる愛しい子供たちのために流した涙なんだ……って」

「どうして泣いてるの?」

 言われて気付く。目尻に水滴が浮かんでいて、空気に当たってスースーと冷たい温度を生み出している。まばたきを数回すると涙は目元からこぼれ落ち、頬を伝ってどこかへ消える。

「なんでだろうな……ヒトっていう生き物は、悲しい時にも嬉しい時にも涙を流すんだ。そして自分のためにも、他人のためにもヒトは涙を流せる。神様も同じだった。不幸な誰かのために流す涙。幸福な誰かのために流す涙。どちらもある。けれどその涙の正体が何なのかなんて、神様本人にだってわからない時がある。地上にいる俺たちにとってはさっぱりだ。でもきっと、悪いものなんかじゃない。だって雪は、白くてとても綺麗だろう?」

 エッジは立ち上がり、窓の近くまで歩いていくと、そっとカーテンの端をつまみ上げて外を覗き込む。真っ白に染まった真夜中の雪景色。寝静まった街並み。浄水場から聞こえてくる工場音の遠鳴り。中央雪原から吹いてくる冷たい風が屋根にかかった雪を払い落とし、目に見える白い流線に変わって夜の中へ溶け込んでいく。

 エッジがこちらを振り返り、コクリと小さく頷く。それからもう一つ、質問をする。

「でも、フォルクスさん。カミサマって、なぁに?」

 俺は少し黙り込んで考えた後に、その質問に答えを言う。

「オマエを愛してくれる人のことだ」

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