記述18 救済のカタチ 第2節
白と黒のまだら模様に広がる曇天が、見渡す限り全ての街並みの上空を覆い尽くす、昼下がりのアルレスキューレ。周囲では先端に重りを取り付けた鉄の棒を手にした若い兵士たちが素振りの訓練をしている最中で、俺はそんな努力家な彼らがサボる様子を見せないかどうかを片手間に監視しながら、空を見ていた。
「せいっ!」だの「はぁっ!」だのいう懸命そうな掛け声が飛び交う中、見上げる空は何度見たって同じもの、いつも変わらぬ濃淡だけしか区別がつかない灰色で、鳥の一羽も飛んでいる姿を見たことがない。晴れた日などついぞ一日も訪れないまま、時が流れて七年目。いまだにこの変わり果てた世界での暮らしには慣れた気がしない。
色が無いのは空だけではなく、街並みも同じ。緑息吹かぬ灰色の瓦礫道。崩れかけのコンクリートの壁で区切られた、天井の無い貧民街。ゴミだらけの汚れた歩道に、橋の下の人だかり。
慢性的な食糧飢饉と水不足、高騰するライフラインに冷え込む民衆の懐は治安の悪化を呼び寄せる。道端で少しでも笑顔を見せようものなら強盗に背後をつけ回されるほどの変わりようは……俺の中に確かにあるはずの、華の都と呼ばれていた美しいアルレスキューレの記憶を、墨で塗り潰すように思い出せなくしていく。
失ったものはとても多く、代わりに得られた文明の発展による恩恵の多くは、困窮する国民たちの大半には届かない。学力にも体力にも恵まれずに育った大人たちは道端に力無く座り込んで物乞いをするばかり。彼らは生まれてから死ぬまで文字を読めず、歌を知らず、言葉すら満足に交わせないまま、生涯を路地の片隅のみで終わらせる。
濁った空から目を逸らし、瞼を閉じると、数日前に見たばかりの荒れた大地の様相と、廃墟同然に朽ち果てた住宅群の光景が頭の中に浮かび上がってくる。一体どうして、世界はこんなにも変わり果ててしまったのだろう。答えの分かりきった自問自答を頭の中で繰り返す。考え続けることが、かつての色鮮やかだった世界を知る自分の使命だと思うようになっていた。
「ゼウセウト教官!」
「どうした?」
物思いに耽っていると、不意に近くにいた訓練兵の一人から声をかけられる。「あちらを見てください」と言われ、振り返ると訓練場の入り口に一人の兵士が使いに来ていることを教えられた。なんでも彼は俺に急ぎで伝えたいことがあるらしい。
「わかった」と短い返事をしてからその場を離れ、入り口の方へ行ってみる。待っていたのはよく知った顔の黒軍兵だった。
「ゼウセウト様。軍事教練の指導中に失礼いたします」
「今は自主練の時間だ、問題ない。それより急ぎの要件とはどういったものなんだ?」
「実は……つい先程、エルベラーゼ王女が南西の辺境地域に姿を現したと、報告が入りました」
「何だと!?」
「現地の兵士がすぐさま身柄を確保したらしく、現在はバスティリヤの牢獄塔に投獄されているとのことです」
衝撃的な報せだった。レトロが死んだ王族大虐殺事件から七年の時が経過した今になって、エルベラーゼが姿を現すなんて、想像もしていなかった展開だ。
俺は使いで来た黒軍兵から詳しい話を聞くと、すぐに部下へ向けて「急用ができた」と話し、訓練場を飛び出していった。
全てがおかしくなったあの日から七年。今更王女に会って、何をするべきなのかはわからない。しかしこの問題については必ず俺自身が対応しなければならない理由があるはずだった。
もしかしたら彼女ならば、この世界が灰色に変わり果ててしまった理由を知っているかもしれない。そうでなかったとしても、変化に気付いている者同士で情報のやり取りができるかもしれない。いくらか楽観的すぎる考えだとは思うが、ずっと止まっていた時間の流れが今になってやっと動き出した、そんな気がして仕方ないのだ。
はやる気持ちを抑えながらアルレスキュリア城の門を出て、教えられたバスティリヤの方へ向けて出発する。エルベラーゼの身柄を確保したことはまだほとんどの人間に知らされていない。そのため付き添いは連れず、自分一人だけで長距離移動用のバイクに乗り込み、ひた走る。
城下街の寂れた商店街を通り過ぎ、関所の大門をくぐり、橋を渡り、廃墟同然の都市郊外を通り過ぎる。
走っている内に陽が沈み、夜は暮れ、目的地であるバスティリヤに到着した頃には周囲は真っ暗になっていた。それでも街の正門前まで来てみたら、すぐさま待機していた現地の金軍兵が俺を出迎えてくれた。そしてエルベラーゼがいるという牢獄塔は、街の中心部からさらに進んだ先の旧市街地の方にあると教えられる。
案内を申し出た兵士が二人乗りの小さな屋根なし自動車に乗って移動を始め、俺はその後ろをバイクに乗ったままゆっくりと追いかけた。
七年の間に、このバスティリヤという街には何度か来たことがあった。四角いコンクリートの建物が等間隔に並んだそっけない街並みだ。主だった特産品も、目立った文化も風習もない、戦争のためだけに存在しているような国境沿いの街、それがバスティリヤである。「牢獄の街」と呼ばれる所以は悪名の通り、街で一番大きくて偉大な建物が囚人収容施設だからこそ。今はその一つにエルベラーゼ王女が混ざっているというのだから驚きだ。
……と、白けた街並みを眺めながらバイクを走らせていると、しばらくしてある違和感に気付いた。
真夜中なのに、街がやけに明るく感じる。
周囲には目立った街灯は見当たらず、特別な夜間照明を使っている風にも見えない。
ならば上かと思って真っ黒に染まった夜空を見ると、月が出ていない。新月の夜にしてはあまりにも明るすぎる。
おかしいと思ってヘルメットに内蔵されている通信機で前方を走る案内人に声をかけようとした……そこで、さっきまで目の前を走っていた軍用車がどこにも見当たらないことにも遅れて気付かされた。
「どうしたんだ? 応答してくれ!」
通信機に向かって声をあげてみるが、返答がない。画面には原因不明のエラーが表示されている。試しに他の相手に通信を飛ばしてみるが、こちらも意味をなさなかった。
周囲を見回すと、さっきまで点っていた街灯りの全てが消えている。それなのに、目の前に広がっているはずの暗闇の中に何があるのかはハッキリとこの目で視認することができた。まるで夢の中を歩いているようだ。
来た道を引き返すべきか、悩んだが、この非現実的な異常事態の原因はエルベラーゼにあるのではないかと思いなおし、このまま牢獄塔を目指して前進することを決める。
空に蓋を被せたように真っ黒に染まった闇夜の細道、鈍色のコンクリートでできた建物の間を掻い潜りながら移動する。
バスティリヤで最も大きな建物であるといわれる収容所の横を通り過ぎ、さらにしばらく走った先でいくらか古めかしい雰囲気を感じる石造りの街並みに出る。
案内の兵士はこのあたりに牢獄塔があると言っていたが、見回してみると周囲にはそれらしい建物ばかりが並んでいた。
一体どの塔の中にいるのだろう。迷っていると、背後から急に体を宙に浮かすような勢いの強風が吹いてきた。徐行した状態で走らせていたバイクを停止させ、風の通り過ぎていった方を見る。すると数ある収容施設の中に、一つだけ奇妙な黒い霧のようなものに囲まれた石造りの建物があるのが目に入った。三階建て程度の高さしかないその建物は、牢獄塔というには少々小さすぎるような気がしたが、その周囲をまとう黒い霧には確かに既視感があった。
あれはまさか、故郷の世界が消滅した時に見たものと同じ?
俺は小さな牢獄塔の前にバイクを駐め、建物の中へ入ることを決めた。塔の入り口の扉は半開きになっていたため、すぐに侵入することができた。
入ってすぐの部屋には安酒の臭いが充満していた。見ると粗末な机の上に酒瓶が山のように積まれている。中身の入った酒瓶の蓋は開けっ放しで、臭いの大半はここから漂っているようにうかがえる。眉間に皺をよせながら近づいてみると、机の上にはカードゲームの札が無造作に散らばっていて、どこかおかしい。グラスの中には注いだ酒がいくらか残ったままになっている。
これもまた、ステラの村に最初に行った時と同じなのではないかと思った。
エルベラーゼは上の階だろうか。
壁に張られていた見取り図には、この建物の二階以降が収容施設として使われていることが書かれていた。しかし二階に上る階段の前には鉄製の錆びた扉があり、鍵がなければ上がれないようだった。
人に許可をとろうにも、周囲には誰もいない。だからといって諦めるわけにはいかないので、部屋の中をもう一度注意深く見て回る。すると酒瓶がたんまりと置かれた机の下に、これみよがしな調子で鍵束が転がっているのが見えた。看守の誰かが持っていたもののようだが、今はこれを拝借することにしよう。
鉄扉の向こうにあった石の階段を上っていく。そして二階に上がると一階でしたことと同じように、誰かいないか見て回る。誰もいない。ならば次の階に上がろうと思い、再び階段へ引き返す。
今度は最上階である三階を目指して上っていく、その途中で、不思議と体に肌寒さを感じていることに気付いた。いつの間にか周囲の気温が下がっている。空調機でも壊れているのかと思ったが、こういった古風な建物にそんな大層な機械が備え付けられているとはとても思えなかった。ならば何だ? 体感する温度は、階段を一段上るほどに、急激な速度で低下していく。階段を上りきり、三階に到着した頃には、吐く息が白く染まるほどになっていた。
階段の正面の壁にあった窓は開け放たれていて、その隙間から建物の周囲を取り囲む黒い霧が室内に入り込んでいる様子が目に入った。近くまで寄り、鉄格子の付いた窓枠に手を当てながら、外を見る。目も眩むほどの真っ暗闇。窓の外に見える景色の全ては黒い霧に覆われていて、まるで底の無い穴の奥を覗き込んでるような気持ちにすらなってしまう。
こんなものをいつまでも見ていれば気がおかしくなると思い、窓から離れ、改めて三階の奥にある牢屋の方へ移動する。
そこで、細い通路の最奥にある部屋から血の臭いがすることに気付いてしまった。
大量虐殺が起こったあの日の光景を思い出す、生々しくて鮮明な、今まさに生物の体から噴き出したばかりの真っ赤な血液の臭い。
灯り一つ無いのに見える、真っ暗闇な通路をゆっくりと歩き進む。臭いは一番奥の牢屋から漂ってきている。近付き、閉ざされた鉄格子越しに牢屋の中を見る。
人が死んでいた。
それは、胸にナイフが深々と突き刺さった、銀色の髪の美女。エルベラーゼ・アルレスキュリアだ。
眼を見開く。驚くほど穏やかで安らかな、その死に顔。口元には微笑みすら浮かべ、滴り落ちた血液の一滴にいたるまで輝いているかのように美しく華やいでいた。
暗闇の中でもはっきりと視認できる、真っ白な肌の上を垂れ落ちていく、赤い血液。それは傷口から今まさに流れ出ている最中で、死んでからまだいくらも時間が経っていないことを見るものに伝えている。
誰が彼女を殺したのか。そんなことは見ればわかる。
彼女の結婚指輪がはめられたままの白い左手は、ナイフの持ち手をしっかりと握りしめていた。
自殺だ。エルベラーゼは自分の意思で自分の心臓をナイフで刺し貫いた。そうに決まっている。
なぜ牢屋に収容されている彼女がそんな凶器を持っていたのかとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、彼女の安らかな死に顔を見れば見るほど、自殺だと思ってしまう己の推測は間違っていない気がしてならなかった。
ならば何故自殺するに至ったのか。
それはもちろん……
「―――さ……ない……」
その時、エルベラーゼが死んでいる牢屋とはまた違う場所から、誰かの声が聞こえてきた。子鼠が鳴いているかのように、ほんのか細い小さなものだった。
耳を澄ます。声は、階段の方から聞こえてくる。細い通路の途中にあった、それほど大きくはない牢屋の一室。声はそこから聞こえてきている。最初に通った時、他の牢屋は中が暗すぎて奥が見えず、誰もいないのかと思って通り過ぎていた。そのことがおかしいことに気付かされた。このどこにも光がない奇妙な状況の中で、そこにだけ何も見えない闇が広がっているのはおかしかったのだ。
「……いかないで…………」
誰かの声がする。何かを堪えるように縮こまり、体を震わせ、すすり泣く……それは小さな、子供の声。
親を呼ぶ子供の声。
エルベラーゼの死体の前を離れ、細い通路を引き返し、声が聞こえてきた牢屋の奥を……覗き込む。
「いかないで……母さん……おいて、いかないで」
牢屋の奥で、苔むした石壁に張りつきながら俯いている子供が一人……そこにまだいるかどうかもわからない母親に向けて、助けを……許しを求めて、懇願していた。
枯れることのない涙を大きな瞳からこぼれさせ、泣いては駄目だと懸命に瞼をこすっては、また涙する。
必死で泣き声を押し殺すのは母親のため。母親に言葉を返してほしいがため。
情けない泣き声が彼女の耳に届かないように、怒られないように、すでに死んでいる母親のために涙をこらえる。
誰にも見つけてもらえなくなるだけなのに。
「ひとりにしないで……母さん………………父さん」
父さん。子供の口からその言葉が零れた途端、全身が悪寒に震え、背筋が凍り付いた。
「いい子にするから……俺、いい子でいるから。もう寂しいなんて言わないから。
母さんみたいに優しくて、父さんみたいに強い、いい子になるから。
だから……嫌だ…………いかないで……」
息が上手くできない。眼がそらせない。耳を塞いではいけない。
――……そうだ、俺は見た。
俺はあの夜、月の光も届かない暗い牢獄の中で、冷たい鉄格子の柵越しに、自らの犯した罪の成れの果てを見た。
なんと痛ましい、なんと罪深い。
気付いてはだめだ。見ては駄目だ。聞いては駄目だ。
こんなこと忘れていれば良かったんだ。でも、忘れられるわけがない。見て見ぬふりなど出来るわけがない。
今すぐにここから逃げ出したいと思う理性と、何のために此処まで来たのかと叫ぶ本能が鬩ぎ合う。
両目をこれ以上ないほど見開きながら、その子の、彼の、耳鳴りのようなか細い嘆願に耳を傾けた。彼は祈るように、嘆くように、今は亡き父と母に向けて不毛な懺悔を繰り返す。
思い出した。
思い出した。思い出した。思い出した。
今の俺は知っている。あの子供が何者なのか、何を求めていたのか、何を待っていたのか。
これは俺の失った記憶の中の最も重大な一ページ。
俺はこの日、エルベラーゼが死んだこの日、世界が再び塗り替えられた運命の日に、彼と出会い、彼に手を伸ばし、彼をこの真っ暗な牢屋の中から連れ去った。
確かにそうだ。俺は確かにそうした。思い出した。全部思い出した。
あの子供の名はエッジ・シルヴァ。そしてエッジの父親を殺したのは、俺だ。
俺が、この俺が、エッジから大切な家族と、平穏と、幸福を……奪った。
「……なんで、誰も…………誰か……だれか……おれは、なにも……………… 助けて…」
彼の名前すら知らなかったかつての俺が、牢屋を開けた。
思わず目で追った二人の姿が暗闇の中に溶けるように消えていく。残ったのは空っぽの牢屋と、何もできずに立ち尽くす現実の自分の意識だけ。
この、どうしようもない過去の記憶の再生は、まだ当分は続いていくようだった。