記述18 救済のカタチ 第1節
全てを支配している神様が死んだ後の世界がどうなるかなんて、考えたことがなかった。
だから今から考えてみることにした。
それが善い神様だったならば、きっと世界は以前よりも悪くなってしまうだろう。
悪い神様だったとしたら、どうだろう、世界は良くなると思うだろうか。
この考え方は、なんとなくだけど違う気がする。
今度は逆に考えてみる。善い神様の世界は、神様がいなくなっても良い世界のまま。
それはみんなが良い生き方というものを神様から教えてもらっていたため、神様という名前の父親あるいは母親がいなくなった後も、それぞれが独りで生きていけるのだろう。
悪い神様の世界は、神様がいなくなった後もずっと悪いままだ。
みんながみんな、悪いことを忘れられずにお互いを苦しめ合う。苦しむことが当たり前で、悲しむことも当たり前。辛い思いをすればするほど他のものを嫌いになって、世界は悪意で溢れるだろう。
本当にそうなのか?
そもそも、良い神様はどんな神様のことをいう? 悪い世界かどうかは誰が決める?
俺が殺した神様は、どっちだったのだろう。
通い慣れた真っ白な廊下に自分の足音だけが規則正しく反響している。良くできた防音素材の壁によって仕切られた地下研究所は、いつ来ても空調機の稼働音すら聞こえてこないほどの静寂に満ちている。これは人工的に作られた静寂であるために初めて足を運んだものは不安になる場合が多いが、慣れている俺にとっては逆に心を落ち着かせるのにちょうど良く感じられる。
廊下を歩き進み、「安静室」と書かれたドアプレートの前で立ち止まって、扉を開ける。蛍光灯の明るい光に照らされた廊下の雰囲気と比べて、安静室の中は控えめな照度を保った間接照明の光に包まれおり、とても穏やかだ。軽く室内を見回したところ、自分以外に来客はないようだ。最初の頃はいつ来ても部屋の中に一人二人は必ずいた医者や看護師の類いとも、今ではほとんどはち合わせることはない。
中へ入り、まずは壁に設置されている管理装置の方を見て、空調を始めとした機械各種が正常に機能しているかどうかを確かめる。問題がないことを確認してから、改めて部屋の奥に踏み込んでいく。
部屋の中で一番大きな戸棚に近付き、いつも持ち歩いている鍵を使って戸を開ける。様々な種類の医薬品の中に混じって保管されていた花瓶を見つけ、棚から取り出す。それを小さな洗面台の方へ持っていき、薬品の臭いが付着した表面を少し洗った。それから、ここへ来るまで大切に持ってきた野草の束を花瓶に挿す。花は今回も手に入らなかったけれど、緑が少しあるだけで部屋の雰囲気は良くなるものだ。
野草と水が入った花瓶を持って、部屋の真ん中にある医療用ベッドの方へ移動する。ベッドの回りにはシルクで織られた灰色の天蓋が吊されていて、その幕を左右に開きながら中の様子を窺うと……ベッドの上で静かに眠りについている、イデアールの姿が目に入った。
体中に生命維持装置を取り付けられ、青白い顔色の上から専用の人工呼吸器を被せた彼の様子を見る度に、あの日の悪夢のような出来事を思い出す。
崩壊した玉座の間の変わり果てた光景。真っ赤に染まった死体の山。槍に左胸を貫かれて殺害された男の死体。
俺がレトロ・シルヴァという男を殺したあの日の一件のことを、世間は「王族大虐殺事件」と呼んで、忌み畏れた。被害者の数は合計で百十九名。その内負傷者もとい生存者は二名のみ。それ以外は、全員完膚なきまでに急所を切り裂かれて絶命していた。犯行に及んだ期間は不明で、どのような方法を使ったかも不明。頑丈に作られているはずだった玉座の間の天井や床の石材がどうしてこのタイミングで崩落したのかも、あれほどうるさく轟いていた破壊音がなぜ城の外に聞こえてこなかったかも、まるでわからないまま。
生存者の口から「死体が勝手に起き上がって襲い掛かってきた」と言ったところで、誰一人信じてくれないことはわかりきっていた。だから自分はずっと可哀想な被害者の一人として口をつぐんだまま、誰にも事件の真実について話そうとしなかった。
だから何もわからない。何もわからないまま、残された者たちは責任の押し付け合いに夢中になった。何故この悲劇を阻止できなかったのかとか。空席となった権威の座は誰にこそ相応しいかとか。俺にとってはどうだっていい討論を日夜机上で繰り広げながら、幾月もの時間を浪費していた。
最初の年はあっという間に通り過ぎていき、次にまもなくして二年目も終わりを告げる。流れていく時間の中で犠牲になった人々に向けた哀悼の想いは徐々に薄れ、良くも悪くも多くの人たちが事件当時の衝撃を忘れ始めるようになる頃には、三年目も終わっていた。
今もこうして目覚めない友人の顔を見つめている自分だけが、世間から、あるいは世界そのものから置き去りにされているような気がして、仕方なかった。
物思いに耽てぼんやりとした視界の端では、生命維持装置のモニターに表示された波形データが規則正しく上下に揺れている。ここへ来たからといって特にすることもない俺は、いつものようにイデアールの側で座り込んだまま、ただ無為に時間が過ぎることを待っていた。
どうせ今日も目覚めないというのならば、花瓶に活けるものではなく口慰めになる飲み物の一つでも持ってくればよかったと、少し後悔し始めた。その時に……ピッ、と小さな電子音が正面の装置の中から聞こえてきた。何の音かと思ってぶれていた焦点を合わせてモニターの中を注視すると、なんと先ほどまでと心電図の波形が変わっている。
これはまずいと思ってすぐさま立ち上がり、装置に取りつけられている医師の呼出ボタンを押そうとした。
「……ぁ、あ…………」
ボタンを押そうとしていた指が止まった。振り返ると、人工呼吸器に覆われたイデアールの口元が僅かに震えていることに気付いた。
「イデア……?」
声をかけようとして出てきた声は、とても小さいもので、うまく発音できていたかどうかも判別できなかった。
「…………が、ぁっ、あっ」
続けざまにイデアールの口からこぼれ出るような呻き声が聞こえてくる。こんなことは彼が運ばれてきてから一度も起きたことがない。
ついに彼は目覚めるのだろうか、助かるのだろうか?
やっと目の前に現れた希望の欠片を前にして、膨らんでいく感情は期待と不安のその両方。これで駄目だったならば、もう次は無いかもしれないと、焦る気持ちが止まっていた指を呼出ボタンの方へ再び向けさせる。ボタンを押した。これで専属の医師がすぐに駆け付けてくれる。そう思いながらもう一度イデアールの方を見て、驚いた。ずっと重たく閉ざされたままだったイデアールの右眼の瞼が、開いている。
三年ぶりに見た青色の瞳を前にして、俺の心の中に遅れていた歓喜の感情が湧きあがってくる。
目を開いた。声を出した。大丈夫。助かるんだ。イデアールは助かったんだ。
そう思い、はやる気持ちのままに彼の枕元まで近付いて、間近から顔を覗き込む。視界の中に何かが映り込んできたことに気付いたらしいイデアールの瞳が左右に小さく揺れる。それだけで彼が生きていることを実感できた。
「目が覚めたのか、イデア?」
もう一度、今度はハッキリとした声量でもって名前を呼ぶ。イデアールの喉がまた唸り、人工呼吸器の下から「うー、うー」と呼吸のできそこないのような声が漏れてくる。
呼出に応じた医師たちが安静室の中へ入ってくる頃には、イデアールの状態は満足にまばたきができる程度に安定していた。
それからは夜を跨いでの大仕事。集まった医師と科学者たちは今手元にある全ての技術でもってイデアールに施術を行い、状態の回復と安定化に努めた。
邪魔にならないように安静室の外で待っていた俺のもとに一人の看護師がやって来て、面会できるようになったことを知らされたのは、すでにすっかり陽が昇り切った後のこと。再び入った安静室の中は昼間のように明るい照明の光に照らされていて、室内に残っていた医師たちの表情も悪くないものであった。
「声をかけてあげてください」
看護師に促され、俺はもう一度イデアールが横たわるベッドの傍まで行って、名前を呼んだ。
「イデアール、起きているか?」
「……ソウド?」
少しの沈黙の後に、イデアールが声を出し、俺の名前を呼んだ。周囲で見守っていたものたちはそれを見て息を呑み、そしてお互いに目を合わせながら小さく「成功だ」と声に出して喜び合った。
しかし、その後、俺の名前を呼んだイデアールが次に発した言葉を聞いて、場にいる全ての人間が再び黙り込んだ。
「ここは、どこだ?」
「……イデアール?」
「ここは……違う。私は……あかい、赤い……血が、床に……そら、に…………死んだ、のか?」
力無くベッドの上に転がっていたイデアールの右腕が震えて、ゆっくりと持ち上がる。その腕がもう一度ベッドの上に落ちてしまわないように、手に取って、握りしめる。冷たい体温が手の平から伝わってきて少し不安になったが、状態が正常であることは心拍数を表示するモニターのグラフが示してくれていた。
「大丈夫。もう、大丈夫だ」
「黒い、影が……雲? ひかり、なく……暗い…………痛い、いた、い。くるしい。みなが、言う」
握りしめた手の中で、彼の指先がカタカタと震え始める。まるで何かに怯えているように。
「龍だ。黒い龍が、空を……世界を覆い尽くして、ぜんぶ、ぜんぶこわして」
背に凍り付くような寒気が走った。何故、彼がすでにそれを知っているのか。驚き、疑問に思い、焦りが生じる。もしかしたら自分は随分と暢気な気分のまま、彼が目覚めてくれるのを待っていたのかもしれないと、今更になって気付く。
「ここは……どこだっ!!!!」
握りしめた彼の手に力がこもり、どうしたのかと思った直後に、イデアールは周りを囲む誰もが驚くほどの大声を上げて、ベッドに沈んでいた体を起き上がらせた。体に巻き付いていた生命維持用のチューブ類が千切れて外れ、先に繋がっていた点滴スタンドが甲高い音をたてて床に倒れた。
医師の一人が彼の突然の行動を制止するために腕を伸ばしたが、イデアールはそれを力任せに払いのけてしまった。さらには体をよじらせてベッドの上から転がり落ち、チューブが散らばった床の上で両腕を振り回して暴れ始めた。
俺は数名の医師たちと一緒に暴れるイデアールの体を抑え込み、もう一度ベッドの上に運び上げようとした。しかし、今のイデアールの体はあまりに重たく、そして力も並外れて強くなっていたため、少しも思うように動かすことができなかった。
「これは、鉄の……違う、違うっ、違う!! こんなものを私は知らない!! 違うのだ!!! 違う!!違う!!違う!!」
「イデアール、落ち着け! イデアール!?」
「死んだのだ!! 無くなったのだ、何もかも!! 赤く、黒い……あの恐ろしいバケモノに壊され、殺し……死んだ!! 死んだ!! なにもかも!!!」
声を上げ、暴れ続けるイデアールの左腕が医師の体を横薙ぎに殴りつける。痛みに悶える同僚の姿を見た別の医師が顔色に怒りを浮かべ、強引に彼の腕にしがみつく。しかしイデアールはそんな拘束など少しも意に関した様子もなく腕を振り回し、しがみついていた医師の体を床に叩きつけてしまった。
「おい、イデア!!」
このままではダメだと思い、痺れを切らした俺はイデアールの体に馬乗りになって両腕を抑え込んだ。そして彼の顔に自分の顔を近づけ、至近距離から瞳を覗き込むかたちで怒鳴り声をあげた。
「いい加減にしろ!! もう大丈夫だって言ってるだろ!!」
彼の顎を右手で掴み、無理矢理こちらと目を合わせるように顔の向きを変えてやる。そして落ち着かない様子を見せる彼の青色の瞳を真っ直ぐに覗き込む。するとしばらくして、イデアールは暴れるのをやめて俺の瞳を黙って見つめ返し始めた。
空気が張り詰め、呼吸が止まる。数分間の沈黙の後に、イデアールは口を開く。
「ソウド?」
「……あぁ、ソウドだ。俺はソウド・ゼウセウト。ちゃんと生きてるから、安心しろ」
「ソウ、ド……良かった、生きて……生きていたんだな! そうか、そうか、ハハッ! ハハハッ!」
乾いた笑い声。真っ直ぐに覗き込む俺の視線から目を逸らし、イデアールは眼球だけを動かして周囲を忙しなく見回す。乾いた笑い声。乾いた眼球。感動の再会を前にしてお互いの眼に涙は浮かばず、代わりに中身のない笑い声と、得体のしれない歓びとが宙を舞い飛ぶように交錯する。
「それでだ、ソウド・ゼウセウト。お前はもちろん知っているのだろう。なぁ、」
「……言ってみろ。答えてやる」
次に言われる質問が何なのかは、返事をするより先に予想できてしまっていた。
「私のこの体は、どういうことだ?」
青い瞳を覗き込んでいた眼を閉じて、一呼吸おいてからもう一度開く。横を見る。斜め下を見る。己の体で組み敷いているイデアールの左半身。その体はこの時にはすでに、機械のパーツに取り換えられていた。
王族大虐殺事件が起きたあの日、あの時、あの瞬間、俺はこの手で神を殺し、世界は支配者を喪った。
そして世界は色を変えた。まず初めに空の色が変わり、次に海の色が変わり、終いに大地も色を変えた。
空は暗く分厚い雲の層に包み隠され、海の水は濁り腐って多くの生命が死に絶えた。
何日も雨が降らないまま放っておかれた大地は枯れ果て、緑はすっかり大陸中から姿を消した。
そして何より変わったのは、人間の文明力。
神がいなくなったあの時に、世界は理を大きく変え、人類は変貌した。それはより賢く、傷ましく、愚かな人類への進化。
世界戦争と核兵器の雨。化学物質のとめどない排出と、環境汚染。大陸のいたるところに突如として出現した工場の群れ。高く伸びた煙突の煙。灰色のスモッグと、毒の混ざった重たい雨。
歴史は改竄され、アルレスキューレという国の成り立ちまでもが変わり、文化も変わる。今まで世話になっていた馬や山羊の代わりに丸いタイヤを付けた鉄の箱がアスファルトとコンクリートで舗装された道路の上を走り、空まで飛んだ。
なぁイデアール。ここは三年経ってもそのままだ。
俺たちは一体、この変わり果てた世界とどうやって向き合っていくべきなんだろうな。