記述17 誰が為の裁き 第7節
開いた扉から玉座の間の中へ流れ込んできた夜風がレトロの血に塗れた茶色の髪を揺らす。服も手も、胴体も下半身も、きっと靴の裏まで真っ赤に染まっているであろう残忍な出で立ち。穴だらけでボロ布のようになったシャツは彼が死んだ時に着ていたものそのままだったが、それにもまた真っ赤な鮮血がこれでもかというほど染みついていた。
扉の前で立ち止まり、目に見える全ての光景を受け入れられずに動揺する。そんな俺に向けて、レトロは冷ややかな声色で話しかけてきた。
「俺を殺しに来たのか、フォルクス様?」
こちらへ向けてくる眼差しに込められた感情と、話しかけてきた意図とがわからない。そもそも彼は死んだはずじゃなかったのか? どうして今、目の前に……しかもよりにもよって、どうして死体の山の中央になんて立っているのだ。
「殺す……殺すって……オマエの方こそ、なんでこんな……」
「ハハッ! お前、もしかしてこれを全部俺が殺したと思ったのか? ただの人間にそんなことできるわけないだろうが」
愉快さなど欠片も感じ取れない冷めた目をしながら、口と仕草だけで俺のことを嘲笑う。俺はあまりに突拍子もなく訪れた地獄絵図に動揺していたが、それでもこの状況に、彼の態度や発言に憤りを感じるべきだということはよくわかった。
「どういうことだって聞いているんだ!!」
意を決して怒鳴りつけると、レトロはケラケラと浮かべていた作り笑いをスッと切り替えて、黙り込む。
しばらく睨み合っていると、彼はおもむろに近くの床に突き刺さっていたサーベルを一本手に取り、目の前で軽い素振りを数度行う。それからそのサーベルを、自分の足元に転がっていた死体の首に向けて突き立てた。
すでに死んでいた肉体の中から濁った血液が噴き出し、彼が着ているシャツにまた新しい染みを作る。
そしてまたこちらを振り返り、どうということでもないように白けた口調で言い放つ。
「確かに、これは全部俺がやった。なんてったって、もう人間ごっこはお終いにすることにしたからな」
怯んで後ずさった右足が、床に広がる血だまりを踏みつけてピチャリと不気味な水音を立てた。
驚愕と混乱の前で立ち竦み、けれど強い反発心でもって睨みつける。レトロはそんな俺から視線を逸らし、死体が散らばる広間の様子を一望する。二人の間にまた強い風が入り込んできて、バタバタと衣服を揺らし、床の血溜まりの表面に波紋を生み出す。
やがてレトロは先ほど死体の首に突き付けたサーベルの柄にもう一度触れて、ゆったりとした動作で首にできた切れ込みを広げ、胴体から切り外す。そうして取れた生首を左手で掴みあげ、俺の目にハッキリと見えるように死体の顔をこちらへ掲げる。
生首はルークス・アルレスキュリアと同じ顔をしていた。
「全部、赦さないことにした。ただそれだけだよ」
そこで不意に、扉の前でずっと静止していたイデアールが肩をガクリと一度揺らし、再び動き出した。虚ろな瞳とおぼつかない足取りはそのままに、ふらりふらりと、身内も混じっているであろう死体の山を踏みつけながら前進していく。
「何してるんだイデア!?」
驚いて「やめろ」と声をかけても反応がない。何をされているのかは知らないが、今の彼には何を言っても無駄なのか。ならば力尽くで止めるしかない。竦んでいた足に力が戻り、急いでその背に跳びつこうと駆け出した。しかしその動作を、床を転がっていた死体に邪魔された。
血の気が引く事態が起きた。さっきまで力無く伏していただけの死体が突然起き上がり、俺の足や腰、腕や首に血塗れの腕を伸ばし、次から次へと絡みついてきた。
べったりと張り付けられる血液の重たい感触、汚物まみれの身から漂う鼻が曲がるような異臭。およそ生きた人間とは思えない、覇気も血の気も見られないおぞましい顔色。人であった頃の人格の一欠けらも残っていない、苦悶に満ちた死の表情。
そんな連中に行く手を阻まれている間にもイデアールは歩を進め、どんどん部屋の中央へ近づいて行く。ダメだ、そこにはレトロがいる。
こんな死にぞこないに構っている場合ではない。絡みつく死体の腕を片っ端から振り落とし、力任せに拘束から抜け出した。しかしヤツらはどれだけ押しのけられても、怯むことなくまた俺に全身の体重をかけながら覆いかぶさってくる。
武器が必要だ。そう思い、床に転がる死体の手の中から一本の槍を引き抜き、それを振り回して襲い来る死体の群れに応戦する。一人、また一人と投げ飛ばし、跳ね除け、突き倒す。
その様子をレトロはじっと眺めているだけだった。
「オマエは一体、何のつもりなんだ!! 何がしたいんだよ!!」
レトロに向かって大声をあげる。そこにこもっている感情に確かな怒りの激情が感じられたことに、あろうことか叫んだ本人である自分の方が驚いていた。
「復讐だよ。見ればわかるだろう」
「こんなものは命の冒涜だ!! 今すぐやめろ!!」
「嫌いなヤツの命なんてどうだっていいさ。先に俺を殺したのはコイツらの方だしな!」
そう言ってレトロは手に持っていた生首を床に放り捨てる。それから数歩前に出てこちらへ近づき、シャツの前を開いて剥き出しの上半身を俺に見せつけた。彼の返り血塗れな肌の上のいたるところに、異常なほど真っ黒な何かが張り付いているのが見えた。よく見るとそれは爬虫類の鱗のような質感を持っており、体にできた傷口を塞ぎ、ちぎれた肉片を繋ぎ合わせるように付着しているようだった。
「赤の他人ってのはさ。結局こういうもんなんだ。やり直すとか、仲直りとか、出来ないんだよ。馬鹿だよなぁ、泣いて縋り付いて頭を下げた俺も、容赦なく嗤いながら刃を向けたコイツらも。みんな揃って馬鹿ばっかり!!」
直後、レトロは自分のすぐ目の前までやってきていたイデアールの腹を蹴り飛ばした。
されるがままのイデアールの体は血だらけの床にその身を強く擦り付けながら転がり、他の死体にぶつかることで停止した。
「待てよ、コイツはステラを助けるために手伝ってくれていたんだっけな? いや、でも親族は全員殺さないと気が済まない。殺されたんだから、殺すべきだ。何も変なところは無い。それに後で仕返しされるのも困るんだ」
死体の山に混じるように伏せるイデアールの側まで歩み寄り、髪を鷲掴みながら頭を持ち上げ、その顔を覗き込む。
「コイツ、オマエの大事な友達なんだろう?」
ニヤリと笑うレトロ。
「残念だったな」
サーベルを高く掲げ、その鋭い刃を振り落とす。
ガキーンッ
と、寸でのところで鳴り響いた金属音。二人の間に刺しこまれた槍がサーベルの先端に届き、その刃を弾き飛ばす。レトロの手の中からすり抜けた刀身は回転しながら宙を舞って、床に伏した死肉の表面に突き刺さった。
「フン。やっぱり邪魔できるのか。目障りなヤツ。だが……いいぜ、だったら好きなだけ足掻いてみろ」
自分の行動を邪魔されたことに対して、レトロは苛立ちを感じながらもどこか嬉しげな反応をしているように見えた。
「どうやら今のこの世界の中で、俺に刃を向けられるのはお前一人だけみたいだからな!!」
レトロが声を荒げた途端、琥珀色の瞳が、その真ん中にある真っ赤な瞳孔がギラリと閃き、輝き始める。
本能が危機感を察知し、何かをするつもりだと体を身構えさせる。するとどうだ、まもなくしてギシリと嫌な音が頭上から響き……土砂崩れのような石材の山が天井から崩れ落ちてきた。
俺は急いで床に転がったままだったイデアールの体を抱きかかえ、真横へ、なるべく遠くへと精一杯の力を込めて跳躍する。
石材が床に叩きつけられる壮絶な衝突音が城内に轟いた。
急に大きく跳んだ勢いで床の上を転がるハメになったが、どうにか受け身を取ることはできた。すぐにさっきまで自分がいた方を確認すると、そこには鋭利で巨大な天井の瓦礫が、真っ赤な床にいくつもの穴を空けながら深く突き刺さっていた。その周囲に転がっていた死体は尽くが瓦礫の山に押しつぶされ、血飛沫と臓物とを四方に飛び散らせていた……ゾッとする光景だ。
「……うっ……ぁ」
「イデア!?」
その時、腕の中に抱えていたイデアールの口から僅かな声が漏れ出た。
すかさず名前を呼び、その顔を覗き込む。よかった、無事だったのか。わずかに開いた瞳には普段の彼が持つ落ち着いた青の色味が戻ってきていた。だが……
「ソウ、ド……どうしたんだ、そんな、真っ赤な………………あ?」
正気に戻ったイデアールが見たものは、俺が見ているものと同じもの。それも、彼にとってはもっともっと悍ましい。決してあってはならない残酷な現実だった。
赤く染まった玉座の間。見るも無惨な姿で四散する人間の体。そのほとんど全てに、イデアールは見覚えがあるはずだった。眼前に散らばる一人一人の死に顔を凝視し、顔を正面に向けたまま眼球だけを忙しなく動かして周囲を見渡す。
身内が混じっている。親しい知人が混ざっている。
世話になったものたちが、親しかったものたちが、当たり前にそこに生きていたはずの人々が、そのことごとくが今まさに自分の目の前で死に絶えている。
イデアールはその全てを大きく開いた瞳で見据え、愕然とする。抱き支えた体の内側で轟く心臓の鼓動は、徐々に勢いを増して、大きくなっていく。まもなくして全身がガクガクと痙攣し始め、何もかもに堪え切れなくなった彼は咄嗟に俯いて、泣き叫ぶような勢いで吐瀉物を床に吐き出した。
力いっぱい見開いた両目からボタボタとこぼれた大粒の涙が、自分の吐いたソレと誰かの血溜まりの中へ落ちて、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
断末魔のような絶叫が部屋中に反響した。
言葉になんてとてもできない負の感情が、理性の檻を破りながら噴き出し、次から次へと襲い来る狂気の波を恐れ、拒み、両手で頭を抱えて掻き毟る。
彼の見たものがどれほど恐ろしいものであったかは、かつてないほど歪んだ顔の造形こそが物語っていた。声を掛けたくても言葉なんて見つかりやしない。だから俺はその顔に手を伸ばし、何も見えなくなるように目隠しをした。気休めでもそうせずにはいられなかった。
「うるさいヤツだなァッ!!」
レトロが、彼の嘆きを邪魔するように大声をあげる。
第二波が来る! 暴れるイデアールを抑え込みながら抱え上げ、周囲を見回す。するとまた天井が、今度は音も無く崩れ落ちてきた。転がる死体の間を掻い潜りながら振りかかる瓦礫の破片を懸命に走って避ける。
大丈夫、このまま逃げられる! まずはこの部屋から出よう!
なんて安直なことを考えている場合ではなかった。
落ちる瓦礫を跳躍で躱し、着地した、その先にあった床が、突如として落雷のような音をたてながら崩れ始めた。
そうだ、天井が崩れるなら床だって崩れる。
俺は崩れかけの床板を蹴り上げ、もう一度大きく跳びあがることでなんとか安全な床まで逃げ切った。しかし、その直後にまた大きく足元が揺らぎ、着地時の体勢が大きく崩れた。その反動で、抱えていたイデアールの体が腕から離れて宙に投げ出されてしまった。
落ちる!
必死で伸ばした左腕が舞い散る土煙の中から奇跡的に見つかった彼の腕を掴んだ。
腕一本繋がったまま宙にぶら下がるイデアールの体。早く持ち上げなければならないのに、成人男性一人分の体は俺一人で引き上げるには重たすぎる。腕が肩ごと引き千切られるような激痛が体中を駆け巡る。力がうまく入らない。俺の体は思いの外酷く疲弊しているようだった。
でも、泣き言を言っているような状況なんかじゃない。わかってる!
「ソウド……?」
いまだ目に見える全てを受け入れられていない様子のイデアールが、必死で自分の体を引き上げようとする俺の顔を見上げながら目を丸くする。本当に、何が起こっているのかわからない顔をしている。
「オマエは死ぬな!!」
天井の崩壊が止まっていない。この鳴り響く轟音の中、叫んだ本音は彼の耳に届いてしまっただろうか。イデアールの瞳から、ハラハラとまた涙がしたたり落ちる。
助けられる。助けるんだ。この人だけは、この人だけには死んでほしくない。失いたくない。
レトロの願いに力があるというのなら、俺にだってあってもいいじゃないか。奇跡の一つくらい、起きたっていいじゃないか。そう、願ったのに、それなのに……繋ぎ合った二人の腕と体の上に、彼の上に、巨大なガラス製のシャンデリアが落ちてくる。繋がっていたはずの手を、イデアールが振り払う。俺は手を放された。
下階の真っ黒な暗闇の中にイデアールは落ちていく。その上に無数の瓦礫と共に振りかかるシャンデリアが、落ちて……
ガシャアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァッツッンッ!!!!!!!!!!!!!
盛大な破壊音だった。
落ちた? 嘘だろ?
足元に空いた大穴の下を覗き込む。真っ暗で何も見えない。
側ではまだ玉座の間が崩壊する音が鳴り響いているのに、どんな騒音も脳に伝わってこなかった。
頭の中に広がる静寂。まるで現実感の無い現実。激しく鼓動する心音。全身の体温が一瞬にして冷え込んで、指先に震えを生み出す。
死んだのか? みんな、みんな……
そう、錯乱しかけた俺の背後に、復讐心に支配された神様が続けざまに刃を振り下ろしてきた。
硬い刀身が床にぶつかり、火花が散る。
レトロが振り回した剣先は、寸でのところで俺の肉には届かず床の石材を切りつけるだけで終わった。
剣を避けるために翻した体勢を整え、改めて殺戮者と顔を向き合わせる。
レトロは平然とした顔をしていたが、しかし爛々と光らせた瞳の奥からは激しい怒りを感じ取れた。
激しい怒り? 復讐?
はて、それはなんだ?
なんだそれ、なんだそれ、なんだそれ?
そんなもの知ったことではない。オマエの事情なんて、もはやもはやどうだっていい。
殺さなければいけない。コイツは、俺が殺す……何としてでも、殺してみせる!!
内から湧き出る激しい感情。それに名前を付けるとするならまさしく『殺意』。握りしめた槍の柄が、ギシギシと軋んで、俺の代わりに悲鳴をあげてくれていた。
「あの男のこと、そんなに好きだったのか?」
挑発だ。
「裏切り者だぜ? アイツはオマエよりあの女のことを信じて、協力をする振りをしていた。その結果、オマエは部屋の中に閉じ込められることになったんだ」
「……でたらめなことを言うな!!」
「バーカ! 今、俺の言葉をちょっと信じただろ!」
「この……クソ野郎がァッ!!」
辛抱しきれず突き込んだ槍の切っ先。それが突如現れた何かに遮られ、ガツンッと音をたてて弾かれる。硬く分厚い、被膜のような形状をした怪物の羽根だった。レトロの背中から生えている。コウモリみたいな巨大な羽根が、翼が、人間の姿をしたレトロの体を突き破るように生えている。
さらにそれどころか彼の体はこの変化を皮切りに、手足の先から徐々に硬く鋭い棘を持った鱗に包まれていき……みるみるうちに異形へと変貌していく。
膨張する筋肉。巨大化していく手足。歯は牙に、爪は指ごと鉤爪に、ついには太く長い爬虫類の尾までもが人間の皮を挽き千切りながら這い出てきてしまう。
そんな変貌の最中、瞳だけが変わらず憤怒の感情に燃え盛ったまま俺の顔を見下ろしている。
鋭い深紅の瞳孔を、俺の方からもきつくきつく睨み返す。
これが……龍だと?
「あぁ……初めて見るもんじゃないだろう?」
化け物は不敵に笑う。敵なんていない。何せ彼は神なのだ。
「フォルクスの守護龍……いや、今はソウド・ゼウセウトなんていうつまらない名を貰っているみたいだな。そうか、それもさっきの男にか? 個体名なんてお前のような低級神霊にはもったいないものなのになぁ……所詮お前なんて、ただの村娘が生んだ儚い幻想にすぎないんだ」
「オマエがステラを侮辱するな!!」
にじみ出る悪寒と脅威に耐え忍びながら、怒声でもって訴える。
無垢な魂。かつて俺を生み出した、一人の少女。何よりも大切だった、この世界でただ一人俺を見つけ出してくれた愛しい存在。そのはずだったのに……!
「お前の探し求めていたステラ・シルヴァならここにいるぜ? ねぇ、フォルクス様。人間になれた気分はどう? 俺は最悪だよ……せっかく、ステラの魂を喰らうことでこの世界に人間として受肉したのになぁ。人として、愛するエルベラーゼと出会うために……彼女と同じ世界、同じ国、同じ種族として生まれてこれた。それなのに、お前たちだッ! 俺たちの人生をこんなにも台無しにしたッ!!!!」
突如、目にも止まらぬ速さで飛び掛かり、レトロは俺の首を刈り取ろうと巨大な鉤爪を振り下ろす。紙一重で避けた! そしてその勢いのままこちらからも拳で殴りかかる。拳の真ん中が彼の硬質な肩の鱗にめり込む。手応えはあった。体勢を崩されたレトロは、しかしすぐに空中で身を捻り、着地した床を蹴り飛ばしながらすぐさま俺に襲い掛かってくる。それを槍を前に構えるかたちで受け止めた。
人間のものをとうに凌駕した強烈な一撃が直撃し、持っていた槍の柄が真っ二つに折れる。
受けるのは無理だ! ならば避けよう! 体を斜めに倒し、振り下ろされた鉤爪の真横を通り過ぎて前方に跳躍する。
そしてレトロの背後に回り込んだと同時に、その大きな龍の尾の付け根に回し蹴りを叩きこむ。
硬い感触に足先がきつく痛んだ。けれど一撃は入った。レトロは膨れ上がった己の巨体を大きく捩じってこちらへ向き直り、同時に長い尾を振り回して周囲一帯を薙ぎ払う。後方へ大きく跳んで、これを避ける。
対象から距離を取るようにしながら床の上を駆け回り、隙を見て新しい得物を調達し、それをレトロに向けて投擲する。
命中した。
大きく膨れ上がった体は機動力に欠けており、素早い一撃を避けられないようだ。
しかし相手もそんなことは理解しているようで、距離を取られたのならばやり方は有ると言わんばかりに腕を虚空で振りかざし、再び天井の瓦礫を俺へ向けて崩し落してきた。
床も崩れ、壁も崩れ、散らばる死体の山は崩れ行く瓦礫の濁流に紛れて下階へと流れ落ちていく。土煙があがる。視界が悪い。だが、レトロのいる場所なら移動距離と方向でもって把握している。
床に転がる瓦礫屑を拾い上げ、投げつける。鋼の塊にぶつかるような音が鳴り、命中したことがわかる。
立ち込める土煙の中、轟音の中に混ざる足音を聞き逃さず、接近してきたレトロの攻撃を回避する。
再び距離を取るために飛び退いて、それからこのバケモノに効果的な攻撃方法について考えを巡らせる。
硬い鱗に覆われた部位は駄目だ。尾と翼も邪魔でしかない。ならばいまだ変化しきれていない人間の部分を狙えばいい。
瓦礫の中を走り、もう一度床を転がる得物を拾い上げる。柄まで硬い金属で作られた丈夫な槍だ。これならば届く!
駆け出した。今度はこちらから距離を詰め、大きく前方に跳躍して武器を振るう。突然の攻勢に反応しきれなかったレトロは硬い翼を盾代わりにして攻撃を防ぐ。しかし一撃目はそれでいい! 俺はもう一撃、硬い皮膜を叩いた反動ではじき返された槍の柄に力を込めて、彼の柔らかい人体を庇う翼と翼の狭い隙間に槍を突き入れる。
黒い血液が噴き出し、槍はレトロの肩を貫通する。だが、まだ足りない!
レトロは獣のような雄叫びをあげて怒り狂い、腕を力任せに振り回すことで槍を肩から引き抜かせた。
転がり落ちた金属製の槍のもとへ飛び、もう一度拾い上げて身構える。
息を吐く暇も無い接近戦。そんなものが幾度も続いて、続いて、続いて……その中で、推測は確信へと変わっていった。
彼には人と戦った経験なんてほとんど無い。だから力一杯がむしゃらに、知能の無い獣のように爪を振り下ろすことしかできていない。
彼は必死なんだ。怒りと、悲しみで、頭がいっぱいで。見た目だけならこんなに凶暴なのに、それは本当に、見た目だけのこと。この七年間イデアールの従士団の一員として大陸各地を駆け回った自分ならば、倒せない相手ではない!
神がなんだ! 龍がなんだ!! そんなもの知ったことではない!!
そもそもコイツはもう、もはや神でも人間でもない。神であることを辞め、人であることすら辞めさせられてしまった……殺戮者だ。
「憐れみなんて向けてやるか、バカヤロウッ!!」
ならば……こんなにも必死に、がむしゃらに、俺に敵意を向けるのは何故だろう。
龍の叫び声が崩壊した玉座の間に反響する。放たれた咆哮が衝撃波のような震動を生み出し、脳を揺さぶる。
喚くな! 喚くな! 喚くなバケモノめ!!
オマエの殺意なんて俺には届かない。オマエを殺すのは俺の方だ!
馬鹿め。馬鹿め馬鹿め。
殺意の向け方すらろくに知らないお人好しめ!!
「死ぬのは……オマエの方だ!! レトロ・シルヴァ!!」
俺を殺せと望んだのはオマエの方だ
飛び掛かる。懐に入り込む。そして突き込んだ槍から放つ渾身の一撃が、レトロの胸を貫いた。
赤い血が宙を舞う。
人間と同じ、赤い血だ。
そんな、おびただしい赤い血をバケモノめいた体から噴き出しながら、レトロは、唖然とした表情で、まっすぐに俺を見据えていた。きっと俺も同じ顔をしていた。
彼は最期に一言呟いた。
『神殺し』
世界が、黒く、黒く、暗転する。
俺もオマエも、こんなことをするために生まれてきたわけじゃない。