記述17 誰が為の裁き 第6節
どれだけ時間が経過したことだろう。暗闇の中で何もせず座り込んでいると、この世界には自分一人しか存在していないのではないかと錯覚してしまいそうになる。分厚い石壁に囲まれた部屋の中は昼も夜もなく真っ暗な闇に包まれていて、とても静かだ。息を吸い、吐き捨てる時の呼吸音。トクトクと不安の中で揺れ続ける心臓の音。体を動かした時にだけ聞こえる衣擦れ。そんな些細な音しか聞こえてこない。
目と耳という五感の重要な部位にあたる感覚を奪われてしまっている中で、唯一ハッキリと感じ取れるのは部屋全体に充満した強烈な死の臭い。今も自分の足元には、レトロ・シルヴァの惨殺死体が散乱している。
あの時、レトロを殺し終えたルークスは親衛隊に命じて、俺の体をレトロの代わりのように部屋の壁に鎖で繋いだ。それから死に絶えたレトロの無惨な姿を一瞬も見返すことなく、黙って部屋の中から出て行ってしまった。扉には再び外側から鍵をかけられ、以来、一度も開かれていない。
ガス灯の火は消され、食事は運ばれてこず、水の一滴も口にできないまま一日が過ぎていく。
部屋の中に充満した死の臭いが、血液の赤さを彷彿とする生々しいものから腐敗臭に変わっていく過程だけが、時間経過を把握するための唯一の指標となっていた。
恐らくはもう、八日は経過しただろう。通常の人間であるのならば、心も体もすっかりと衰弱してしまっている頃合いだ。場合によっては死んでいてもおかしくはない……にもかかわらず、俺の体には少しも不調の様子が感じられない。それどころか横腹に空けられた傷も槍で殴られた痕も、いつの間にか癒えてしまっている。
『人間になりたいなんて、思ったせいだ』
暗闇の中で何もせず瞼を閉じて座っていると、あの時に聞いたレトロの嘆きが脳裏に蘇ってくる。ここに閉じ込められてから幾度となく思い出し、その度に「馬鹿なことを言うな」と否定してきた、残酷な言葉。
つまりレトロは自分が人間ではないことを理解していたのだ。そのうえで人間の営みの中に混ざり込み、人間として生きることを選んでいた。自分の娘にあれほどの愛情を注いでいたということは、十分に幸せと言える日々を過ごせていたのだろう。
その幸福を、人間としての生の中で得た全てのものを否定するような一言を、彼は言った。
『あなたが、人間だったら良かったのに』
今度はステラの言葉が頭の中に浮かび上がる。まだ自分が言葉もろくに理解できない幼い神様だった頃に聞いたもの。
俺は後悔などしていない。してはいけない。
自分をこの世界に呼び寄せてくれたステラ・シルヴァのためにも、俺は人間として生きて、幸せにならなければいけない。
これこそが、ステラと別れてからの七年の間に見出した、己の確かな存在意義だった。
それを、よりにもよってオマエが否定していくんだな。
「ステラ……」
真っ暗闇な部屋の中にいまだ転がったままだと思われる、ステラの死体に声をかける。
「世界改変の仕組みは機織りに似ている」
不意に、自分以外は誰もいないはずの部屋の中から、見知った男の声が聞こえてきた。
「この世界は過去から未来に向けて真っ直ぐに伸びた一本のささやかな糸くずだ。わかりやすく名を付けるとすれば、運命の糸。この運命の糸はその一本一本を他の糸と複雑に絡み合わせることで、より太く長い繊維の帯を作り出す。それこそが『時空』と呼ばれる真世界の全景であり、『龍』という存在の本質だ」
声は自分の足元から聞こえてきている。間違いない。床に散らばるレトロの死体の内側から。
「時空龍とはこれらの時間を司る全知全能の神である。世界そのものである運命の糸を自由に組み替える力を持ち、パラドックスの整合化でもってこの世の全てを意のままに改変する。宇宙。流動。生命。事象。相関。盛衰。情動。精霊。全て、全て、思うがまま」
始めは淡い光のようにぼんやりとしていた声量も、次第に大きくハッキリとしたものに変わっていく。まるで足元に転がるレトロの死体が息を吹き返し、側にある椅子の一つにでも腰掛けて語りかけてきているよう。けれど視界はあいかわらず真っ暗で、部屋の中には変わらず死の臭いが充満している。
死体から聞こえる声が笑う。
「だからこそ俺は恋を選んだ」
後悔と諦観と失望に満ちた、悲嘆の言葉。もうこれは手に負えないと、本能が救済を放棄する。
笑い混じりの声は黒く濁り、闇の中にどろりと溶けて血溜まりのように広がった。部屋の中の気温が寒いくらいに急激に冷たくなって、背筋には冷や汗と悪寒とが同時に流れ落ちていく。
「ステラ・シルヴァはな……俺と取引を交わしたんだ。『私の魂を依り代に使ってください』と。そして見返りとして『フォルクスを人間にすること』と『生まれてきた子供に自分の名前をつけること』を望んだ。そうすればまたどこかで会えるからと、嬉しそうに笑って言った。実に殊勝なことじゃあないか、フォルクス様よ」
笑う。笑う。
結果はこのざま。腐った死肉、乾いた血痕。冷えた体温。無音の棺桶。
「かつて名も無き泉の主であったものよ。俺が憎いか。この俺、レトロ・シルヴァの存在が憎いか。
お前は始めから気付いていたのだろう。ステラを殺し、長く見守り続けた故郷までも滅ぼしていった者の正体が誰なのか。
心のままに、恨むが良い。魂の奥の奥から存分に、恨むが良い。
恨むことに、憎むことに、復讐することに意味はあると、今の俺は心の底から思っているからな」
吐き捨てるような怨嗟の言葉。それらを聞き届けるとともに、真っ暗だった闇の中に光が生じる。
声はそれ以上聞こえなくなった。下を見る。光り輝いているのは自分の足元。床の上に散らばっていたレトロの死骸、その肉の一片一片までが、目映いまでの光をまとって輝き始めていた。
放たれた光は徐々に強くなっていき、やがて部屋の中を真っ白に覆い尽くすほど強烈に明るく照り輝く。世界の全てを覆い尽くすかの如く巨大に膨らんだ白い光。
それがパッと、電源を切るようにどこかへ消えた。
眩しさの中で必死に閉じていた瞼をもう一度開くと、そこは何の変哲もない王女の寝室。
消えていたはずのガス灯の火が点り、床には毛足の長い絨毯が踏み荒らされた後もなく清潔な状態で広がっている。
レトロとステラの死体が無くなっている。ずっと部屋の中に充満していた嫌な臭いとともに、血痕の一つも残すことなく消失している。
呆然としながら自分の眼で見たものの現実性を何度も確認していると、ガチャンと音がして、手首に嵌められた拘束具が床に落ちた。枷がひとりでに壊れて外れた。
まさかと思って立ち上がると、部屋の鍵も開いている。
奇跡でも起きたのか?
そんな馬鹿なと思いながら扉を開く。廊下には見張りの兵の一人もいない。
口の中に滲み出てきた唾液をゴクリと呑み込み、閉じ込められていた部屋の外へと足を踏み出す。
窓が無い、暗い暗い渡り廊下を歩き進む。けして長くはない廊下のはずなのに、歩いても歩いても先端まで渡り切れないように感じた。
そんな中、ふと見上げた真っ暗闇な視界の先に、小さなオイルランプの光がゆらりと揺れた。
人がいる。警戒より先に安堵の気持ちが湧き出てきて、俺はゆっくりとその光の方へ近づいて行った。
光の中に人影が見える。若い男。上質な衣装を身に纏った貴人。けれどその歩みはおぼつかなく、前へ進む度にふらり、ふらりと倒れるように揺れている。
そして俺は、その人影の正体が自分のよく知る人物であることに気付いて、足を速めた。
「無事だったのか、イデア!」
オイルランプを掲げる色白の手首を掴んで引き寄せた。至近距離まで近付いたところで光の中に浮かび上がった顔は間違いなくイデアール・アーニマライト本人で、再会の喜びと安堵とが胸の内に込み上げてきた。
「久しいな、ソウドよ」
目の前に立つイデアールの体は五体満足に健在で、体のどこかに怪我をした様子も見られない。
しかし何か、違和感があるような気がした。
「お前が閉じ込められている間、こちらには何も起こっていない。陛下は私たちがステラの死体を探し回っていたことを知っていたが、私の方には何のお咎めも下さなかった。これは何故か、わかるか?」
「……イデア?」
声を聞いて、間近で顔を見て、それからやっと様子がおかしいことを確信する。
瞳が虚ろだ。まるで魂の無い人形のように、生気を感じない眼をしている。眼球の表面はぼんやりとくすんでいて、視点すら合っていないように見えた。
声もおかしい。意思と感情を感じられない、乾いた声色。誰に聞かせるつもりもなく吐き出したぼやき声のような話し方をしているし、こちらの声も聞こえていないように思えた。
それから握りしめた手首から伝わる体温が、妙に冷たいことにも遅れて気付く。
「ついてこい。良いものを見せてやる」
握った手首を払い除けられ、どうしたんだと顔をもう一度覗き込もうとしたら、その時にはもうイデアールは俺に背を向けて歩き出していた。
以降、彼は一言も喋らなくなった。
俺は黙って歩き続けるイデアールの背を見つめながら、夜のアルレスキュリア城を歩き進んだ。
光はイデアールの手元にあるランプの明かりしか存在しない。おかしいと思って己の周囲を見渡すと、城内のどこにも人の姿が見当たらない。それどころか、気配すら感じられなかった。
何かが明らかにおかしい。俺は夢でも見ているのだろうか。
廊下を渡り、階段を上り、広間を通り過ぎ、揺れるようにゆったりとした歩調のままどこかへ向かっていくイデアール。彼の背中を追いかけて、辿り着いた場所は、この国の支配者が君臨する玉座の間だった。
しかし今は夜。こんな時間に国王は玉座に座っているはずがない。そもそも部屋の中へ入るための豪勢な両開きの扉の前には、警備の兵士一人すら立っていない。いつもならばこんなことはないはずなのに。
明らかな異常事態の中で、耳を澄ます。分厚い装飾扉の向こうからは、やはり何の音も聞こえてこない。風の音一つ、松明の揺らぐ音一つ、どこまでも不自然に静寂な闇の中に沈んでいる。
そんな扉の前で、イデアールが足を止めた。
ドンッ
突如、玉座の間に続く扉がひとりでに開け放たれた。そしてその扉の向こうから、真っ黒な何かがゴロゴロと転がり出てきた。
血だらけの人間だった。
首をほとんど切り落とされ、叫び声の一つも上げられないまま苦悶の表情をこちらに向ける。まだ生きていた。充血した白目がぐりぐりと忙しなく眼孔の中を動き回り、止まり、間もなくしてこと切れた。
見知った顔だった。この国の大臣の一人だったものだ。有力な貴族の出で、かのルークス・アルレスキュリア国王陛下の側近で、品行方正と評判な…………こんな、血だらけの肉だるまが?
だが、そんな些細なことを気にしていられる状況でもない。なぜなら、今まさに足元に転がり出てきたソレは、一つだけではなかった。たくさんあった。数えきれないほどたくさんのソレが、血塗れの死体が、広い広い玉座の間の全ての床を埋め尽くすかのように散乱していた。
明るく照ったシャンデリアの光の下、真っ赤に染まった大広間。むせ返るような血の臭い。積み上がった死体の山。轟音のように脳を揺さぶる断末魔の幻聴。散らばる全て、この城で暮らすものたちと同じ出で立ち。
その凄惨な光景の真ん中に、あの男が、レトロ・シルヴァが立っていた。