神話生誕
冷たい石壁に囲われた部屋の中。雨の音も風の音も聞こえてこない、しずかなしずかな部屋の中。絵本のページをめくる小さな音だけが、さらり、さらりと鼓膜をはじく。
「こうして神様は良き人間たちの願いを叶えると、ふたたび空の上にある光の世界へかえっていきました」
年老いた貴婦人は少女に絵本を読み聞かせる。それは子供向けに書き直された聖書の一幕で、少女はこの物語を特別に気に入っており、度々こうして、世話係の老婦に読み聞かせをねだるのである。
「神様はもう会いに来てはくれないの?」
老婦が本の背表紙を閉じると、少女はいつも決まって同じ疑問を口にする。
「神様はこの世界の全てを見守らなければならないから、いつも人間の世話ばかりをしてはいられないのですよ」
何度教えられても納得がいかない答えだと、少女は思う。
「でも私は、もっとたくさん神様にお願いごとを叶えてもらいたいの」
「あなたはとても正直者だものね。けれど、欲張ってばかりいてはいけません。願いとは、いついかなる時でも、他の誰のものでもなく自分自身だけのもの。叶えてもらいたいからといって、簡単にそれを人に託したりなどしてはいけません。特にあなたは……」
「わかってるわよ。でも、私はまだ子供じゃない」
「子供以前に、あなたは王女なのです。自分の願いごとは自分で叶えられる人にならなければなりません。なぜなら、そう……人間を守るものは人間でなくてはならないから。王様とは、そのためにいるものなのです。お聞きなさい、エルベラーゼ様。あなたのお父様はね、このアルレスキューレの全ての民の未来を背負うもの。願いを聞き入れ、導き、命の終わりまで見届けるもの。この物語の中に登場する神様のように素晴らしいお人なのですよ」
またお説教がはじまった。
少女はスカートの裾をひっぱり、不機嫌そうに頬を膨らませる。
「ぜんぜん違うわよ」
それから老婦の手の中から絵本をひったくると、パタパタと絨毯の上を小走りにして揺り椅子へよじ登る。柔らかいクッションの上に膝を抱えて座り込み、「もうあなたの話なんて聞かないわ」と老婦の方から顔をそらす。
老婦は困ったお姫様だと溜め息を吐くと、特に何も言葉を残すことなく部屋を出ていった。
部屋の中にまた一人きりになってしまった少女は、腕の中に抱えた本を開いて、一番気に入っている絵が描かれたページをじっと見つめる。
綺麗な綺麗な光の王子様。この世界のどこかにいる、なんでも願いを叶えてくれる素敵な存在。誰よりも凄くて、誰よりも偉くて、誰よりも優しい。お父様なんかと一緒なわけがない。だって、お父様は私のことをあんなに嫌っているのだから。
「お父様は私よりも、イデアールお兄様の方が可愛いのよ」
私は聡明な王女様。だから、私は私の父親が大の女嫌いであることを知っている。
国民の誰もに愛された氷髪青眼の先代女王の背中を見て育った、黒髪の王弟。生まれた頃からずっと優秀な姉と美醜すら含めて比べられ続けた彼は、心を歪め、姉を妬み、憎み、女であるというだけで女を嫌い、男色にすら手を染めていた。
少女は彼の娘であるが故に知っている。あの父親は己の中に渦巻く怨嗟と嫌悪の赴くがままに、先代女王を謀殺した。その後には婚約を結んだ妻すらも、子を出産したとともに毒を盛って病死させた。
そして自分が殺した憎い姉と同じ色の髪と眼を持つ娘のことも、いつかどこかで殺してやろうと思っている。
「かみさま……」
本の挿絵に指を這わせ、瞳を閉じて言葉を紡ぐ。名前は知らない。かみさま。
かみさま。かみさま。私だけのやさしい神様。
願いをきいて、願いをきいて。
他の誰もきいてくれない、私のおねがい。
私には叶えられない私だけのおねがいごと。
どうかどうか、願わくば、私のことを 愛してください 。
最初に見たもの、聞いたもの、届いた声は彼女の願い。
『どうか私を愛してください』
彼女の想いが石造りの壁を通り抜け、風に乗って空を舞い上がり、天へ天へと昇っていく。
宙へ、宙へ、星空を越えて、星雲を越えて、その向こうにいる誰かに届く。
そして真っ暗闇の中で瞳を開く。そこは時間の真ん中、虚空の世界。右も左も真っ暗闇で、けれどその中に『私』がいた。
『私』は『私』の存在に気付く。
『私』は『私』が時間の流れそのものであることに気付く。
過去から未来に流動する、ひと繫ぎの運命の糸。この世界の何よりも大きな『龍』の体。
全てを見つめ、全てを見届け、全てを受け入れる全なる存在。あるいは概念。
それには耳が無く、瞳も無く、呼吸も無いはずだった。
けれど今、『私』には音が聞こえる。光を見る。呼吸をする。そして無かったはずの脳が脈打ち、心を見つける。
『誰かが私を呼んでいる』
『誰かが私を見つけてくれた』
神の姿を思い描く少女の空想が、虚空を漂うだけであった世界の真理と、ほんのわずかに絡み合った。
天文学的な確率より遥かに遠いところにあるはずの偶然が『奇跡』を生み出し、心が重なる。
『私はここにいる』
『私に会いに来て』
『私はあなたに愛してほしい』
通じ合う、絡み合う、重なり合う。
嬉しくて、愛しくて、たまらなく哀しく思う。
そうか、私はこの世界に芽生えた頃からずっと、ずっと、ずっと、寂しかったのだ。
孤独を知り、奇跡を知り、愛を知り、恋を知る。
途方もなく遠い宙の彼方から、時空すら乗り越えてあなたを求めて恋をする。
『あぁ、私はあなたの愛が欲しい』
それこそが、『神』である『私』が望んだ最初の『願い』『祈り』『狂おしい欲望』。
具現する。実現する。顕現する。
全知全能の神たる私は、世界の理全てに反旗を翻し、今、あなたに会いに行く。
その願いが奇跡に変わった時、愛を求める私の叫びは赤子の産声に変わっていた。




