記述17 誰が為の裁き 第5節
冷えて硬くなった少女の小さな体を膝の上に置かれたレトロは、涙を流すことも忘れて絶句していた。
明々と点ったガス灯の火は開け放たれた部屋の扉から入り込む外風に揺れながら、前髪を垂らして影になったレトロの表情を無遠慮に照らし上げている。
何か言おうとして口を開き、言葉が思いつかず歯を食いしばり、瞼を閉じる。
レトロは震える指先でステラの体に触れようとしたが、その腕は枷と鎖とで石壁に拘束されており、彼女を抱きしめることすらできなかった。
「俺が、悪かったんだ」
今目の前に横たわる愛しいものの死が、誰かの悪意によってもたらされたものであることを彼は知っている。その人物の正体だって知っている。憎む感情はあっただろう。恨む感情もあっただろう。けれどそれ以上に、守れなかった自分に対する失望と悲哀とが、あまりにも大きくて、怒る気力すら喪ってしまっていた。
死んでしまった娘の屍の前で頭を垂れる一人の父親は、ただそこに色濃く広がっている絶望という闇の中で、自己嫌悪に心を飲み込まれ、騒ぐこともできず悲嘆にくれた。
そんな彼の姿を見つめる俺もまた、二人目のステラの死を前にして、酷く動揺していた。この小さなもう一人のステラとは顔を合わせて会話をしたことすらないのに、その死を一目見た瞬間から、悲しくて仕方なく思う激情が胸の中に流れ込んできた。
もっと早くこの子に出会っていれば、あの冷たい棺桶の中に押し込まれる前に救い出してやることができていれば、笑顔の一つでも見ることができていれば……
けれど実際には、この小さな女の子は、レトロがこの部屋に幽閉されたその日のうちに殺されてしまっていたのだ。氷室の中に放置されていたのは防腐処置のためか。恐らく、あのルークス・アルレスキュリアには約束のひと月が経過した後で、この遺体を衰弱したレトロの前に見せつける思惑があったのだろう。
全ては自分の手の平の上で転がる愛しい玩具を弄ぶため。心も体も奥の奥まで深く傷付けて、その際に漏れ出る激痛の声に耳を傾け、愉悦を得るため。
あぁ、そうだ。レトロはこのままではいけない。こんな部屋にこれ以上長居していてはいけないのだ。
「レトロ……オマエが愛している妻ともう一人の子供は、まだ生きているんだろ」
糸が切れた人形のように動かなくなったレトロに向けて、声をかける。返事も反応もなかったが、声はきっと届いていることだろう。
「もうこんな場所に閉じ込められている必要はないんだ……一緒に逃げよう」
部屋の前で監視をしていた兵士には襲撃をかけ、昏倒させている。鎖を壊すための道具だって、工場から借りてきている。俺はこの道具でレトロの拘束を外そうと、赤く腫れあがった彼の手首に手を伸ばした。
バタンッ
そこで突然、開け放ったままにしていた部屋の扉が何者かによって閉じられてしまった。驚き、急いで扉の方へ駆けつけてドアノブに触れてみるが、少しも開く様子が見られない。外側から鍵がかけられてしまったようだ。
閉じ込められた。確かに誰にも見つからないようにここまで辿り着いたつもりだったが、そうではなかったのか。すぐ側に隠れて監視をしている者がいた? あるいは、始めから俺がレトロを助けに来ることが第三者にバレていたのか。
「クソっ!」
扉を足で蹴りつけ、悪態を吐き棄てる。それから体ごと当たって扉をぶち破ろうともしてみたが、どういうわけかこの部屋の扉は王女の寝室とは思えないほど頑丈に作られていて、びくともしない。手持ちの工具類でなんとか鍵を壊せるかとも考えたが、今かかっている鍵は外側から後付けで設置されたもので、こちら側からでは鍵穴の一つすら見当たらない。
どうしたものかと扉に手を当てて考え込んでいると、その扉の向こう側から誰かの声が聞こえてきた。
「大人しくしろ、陛下に逆らう愚か者め」
ルークスに付き従う親衛隊の一人であると、すぐにわかった。
「喜びたまえ。もうじきこの部屋にルークス陛下が訪れ、叛逆者である貴様に直々に処罰を与えてくださる。故に到着までしばらくの間、その中で首を長くして待っているがいい」
声はそれきり聞こえなくなり、部屋の中は再び静寂の中に沈み込んでいく。振り返ると、レトロはまだステラの寝顔を見つめたままで、動く気配が見られない。
部屋の中には冷たい空気がこれでもかというほど重たく充満していた。
長いようにも短いようにも感じた沈黙。
その後、レトロは誰に聞かせるものでもない独り言を、か細い声量でもって呟いた。
「人間になりたいなんて、思ったせいだ」
言われてから気付く。それは俺にとって、彼の口からは絶対に聞きたくない言葉であったと。
このままではいけない。俺は再び黙り込んだレトロのもとへ近づき、持っていた道具で手枷に繋がっていた鎖を切り落とした。
するとレトロは自由になった腕をぎこちなく動かし、自分の膝の上に横たわっている愛娘の冷たい体に指を這わせた。
抱きしめる。抱きしめた小さな体の温度が体に染み込んでくる。心まで冷たく凍り付かせるように、冷えて固まっている。涙が流れる。深い哀しみが父親として生きてきた彼の全てを支配して、嗚咽が漏れ、慟哭する。
子を失った父親の嘆き声が、けして狭くはない部屋の中全体にさめざめと響き渡った。
泣き叫ぶことに疲れたレトロが再び黙り込むようになってからしばらくした頃、部屋の扉が開き、長い黒髪を揺らした麗人、ルークス・アルレスキュリアが姿を現した。
うなだれて動かなくなったレトロの方を一瞥し、それから俺の方を見る。
「噂に違わぬ優秀な臣下であったな。私の甥は随分と良いペットを見つけてきたものだ」
普段、玉座で言葉を交わしていた国王陛下とは違うと、今の一言だけですっかりと理解できた。
「……ご機嫌麗しゅうございます、陛下。今宵はどのような要件で、この様な豚小屋に起こしなさったのですか?」
「わざわざ聞かなくてもわかるだろう。我が子を亡くして意気消沈している愛しい人を励ましにきたのだ」
ニヤリと笑った国王が顔の横で指を振って合図をすると、ルークスの親衛隊と思しき兵士たちが部屋の中へ多数で押し入ってきた。彼らはルークスの意のままに俺の周囲を素早く取り囲むと、それぞれが携えた得物の切っ先を突きつけ、「逆らえば殺す」と脅しをかけてきた。
抵抗の意思をもって睨み付けると、彼らはそれだけで手に持った槍を俺の横腹に突き刺してきた。
「逆らうなと言っただろう?」
槍が引き抜かれ、腹に空いた傷穴の奥から赤い血がダラダラと流れ落ちる。さらに追撃とばかりに、別の親衛隊が槍の柄で体を殴り、壁に叩きつけられる。
強打した背中の痛みに悶え、うずくまる。腹部の出血は今の衝撃でより一層勢いを増した。
「せっかくだからつまみ食いをしてやっても良いのだが、生憎、筋肉質な男は好みではなくてな」
ルークスは床に付着した赤い血液を靴の底で踏みにじりながら、悪趣味な一言を述べる。それから俺が大人しくなったことを見届けると、改めてレトロの方へ向き直り、砂糖で煮込んだバラの香水のように甘ったるい声で話しかけ始めた。
「ご機嫌よう、レトロ。今日という素敵な日にあなたと出会えて、私はとても嬉しく思うよ」
レトロは返事をしない。鎖を切られて自由になった腕の中で、庇うようにステラの体を抱きしめているままだ。
「素敵な人形を持っているじゃないか。誰から貰ったものなのかな? そこで転がるおとぼけワンちゃんから貰ったものだとしたら、大層に趣味が悪い」
磨きあげられた靴の先を持ち上げ、レトロの腕の中にいるステラの体に足で触れようとした。するとそれを見たレトロは体をよじらせ、少しだけ壁際に身を引くことでルークスから距離をとる。何も言わずとも「触るな」という強い拒絶の意思が全身から感じ取れた。
「そっぽを向いてばかりいるあなたの様子を見るのも悪くないけれど、顔が見えないのは少々残念に思えるな。どうだ、そう俯いてばかりいないで、顔を上げて見せてごらん」
拒絶されたことなど意に返さず、ルークスはそう言い放ってから黒い長手袋をはめた片腕をレトロの頭の上にするりと伸ばし、彼の髪を掴みあげた。髪が抜けるほどの強さで頭を無理矢理持ち上げられたレトロは、ルークスへの憎悪に満ちていた表情を光の下に晒し出すことになった。
「これ、これ。何度見ても可愛らしい顔をしている」
不自然にそこだけ傷が付いていない顔回り。ルークスは長手袋を外し、素手でもって彼の男性にしてはやけに白くなめらかな肌に指を這わせた。涙の痕がくっきりと残っている頬の水分を指の腹で掬い取るように撫で、赤く充血した目元を爪先でくすぐる。
「ふむ……唇が渇いているね」
そして何を思ったかレトロの口元に自分の唇を近づけ、接吻をした。長く深いものである。
閉じきっていた唇を無理矢理こじ開け、舌をねじ込み、絡ませる。傍から見て、喉奥の肉を内側から噛み千切るんじゃないかと思うほどの激しさで。ちゃぷちゃぷと唾液が混ざり合う音が、それ以外何も聞こえない部屋の中にうるさいくらい大きく反響していた。
「おっと」
やっとのことで唇が離れたと思ったところで、ルークスは最後に唾液で濡れた唇の表面を己の舌で舐め、満足そうに微笑んだ。実年齢にそぐわないイタズラ者の少女性を感じる華やかな微笑みは、いやらしいくらいエルベラーゼによく似ていた。
「今、舌を噛みちぎろうとしただろう。もう少しで口の中が真っ赤に染まるところだったよ。危ない危ない」
解放されたレトロはルークスの体を腕で押しのけ、服の袖で唇を拭った。それから口の中で混ざっていた唾液を床の上に吐き棄てる。
「満足したか?」
低く唸るような声で、レトロが呟いた。
「まさか」
「まだやり足りないことがあるなら、早く済ませてくれ」
「そう。今宵の本番はこれからだ。一つあなたにプレゼントをあげよう、レトロ。目を閉じなさい。きっと、その腕の中にある人形よりも素敵な贈り物だと思ってもらえるだろう」
しかしレトロは目を閉じない。どんな些細なことであろうと、この悪趣味な女の意のままにはしたくないのだろう。だがそんな相手の態度も想定内であるらしいルークスは、レトロの開いた両目を真っ直ぐに見つめ、嬉しそうな笑みを浮かべ続ける。
「ならば、しっかり見ているといい」
そう歌うように囁いてから、ルークスは、腰に差した鞘から剣を引き抜き、それをレトロの体に振り下ろした。
肩の肉が裂け、噴き出した血液が床の上に赤い染みを作って派手に散らばった。
突然のルークスの行動を見て、傍観していた俺自身も目を見開いて驚いた。「何をする!」と声をあげようとしたら、しっかりと監視していた親衛隊の一人に腹を思いきり蹴られた。傷ができたばかりの腹から再び血液が噴き出し、足元にできた血溜まりがさらに大きくなっていく。
腕を切り落とすつもりだったのかと思えるほど、深く振り下ろした一太刀であった。彼の肩は表面の肉がばっくりと割れ、筋肉が絡みついた骨まで刃が通っていたようにすら見えた。
一目で、殺すつもりであることがわかった。今晩の内に、確実に。
レトロは切り落とされかけた自分の腕と肩とを交互に見て、再び正面に立つルークスの顔を見上げた。痛みは確かにあっただろうに、それ以上に驚愕する思いが顔の表面に滲み出ていた。
そんな彼の表情を見たルークスは、次にレトロの右膝に剣を突き立てた。一度ではなく、同じ個所を二回、三回。突き立てた剣が肉と骨とを貫通して下に敷かれた石材の床に切っ先をコツンとぶつかるまで、何度も突き刺した。
最後に突き立てた剣を横に倒すようにして引き、切り込みを入れる。そこでついに、レトロは「ぐっ……」と声を漏らした。彼がやっとよこしてくれた反応に嬉しくなったルークスは、さらにいたぶる手を止めず、すでに赤く赤く染まったレトロの体に剣を振り下ろし続けた。
一つ、二つ。三つ、四つ。
男装の国王陛下は若い男に向けて剣を振りかざし、突き刺し、切り開き、その十分に傷付いた体へさらに深く大きな傷を刻み込んでいく。
もはや苦痛の声を我慢できなくなってしまったレトロは、体の肉が裂けて血が噴き出す度に喘ぎ声をあげて悶え苦しむ。
「逃げるつもりだったのだろう、レトロよ」
片手でレトロの顎を掴み、顔の前まで引き寄せる。生理的な涙と喉奥から吐き出された血液とで汚れた顔面。それをルークスは愛おしそうに見つめ、笑う。笑う。笑う。
「私のもとから、また」
「お前の……もとにいたことなんて、一度も……無い」
「初めに私を誘惑し、自分の都合が良いように操ろうと考えたのはあなたの方ではないか」
「言いがかりだ」
「真実だろう。おかげで私は陶酔したように狂おしい気分のまま日々を過ごすことになってしまった。なぁ、レトロよ。エルベラーゼのもとへ行くつもりだったのか? そのように傷付いた体では辿り着けるはずがないことくらい、わかっているだろうに。もっと早く諦めさせるために、脚の腱は切っておくべきだったか」
「始めから、約束を守るつもりなんて……なかったんだな」
「あなたをひと月の間は生かし続けるという約束ならば交わした覚えがある」
「ステラにはこれ以上何もしないと言った」
「あの時にはもう死んでいた。それ以上は確かに、何もしていない」
憎悪に満ちた眼差しがルークスの顔を睨みつける。けれどその眼差しに込められたどす黒い激情は、彼女の心をより一層熱く焚きつけるばかりであった。
「あぁ、そうだ。その眼だ。私はあなたのその宝石よりも眩しく、太陽よりも情熱的な琥珀色の瞳が愛しくてたまらない。だがまだ足りない、足りていない。あなたはもっと私を腹の底から、魂の裏側から、深く深く憎悪することができる。その通りだろう。まだ足りていない」
手の中に収めた剣の柄を握る力が強まるのが見て取れた。これ以上何をするつもりだというのだろう。そう思った直後、ルークスはいまだ大切に抱きかかえられていたステラをレトロの腕の中から取り上げた。
そしてその小さな体を壁に向けて叩きつける。死後硬直した少女の体は石造りの壁とぶつかる時に人間のものとは思えないほど硬い音をたてて、鉛の塊のようにゴロリと仰向けに床の上を転がった。
さらにルークスは、その仰向けになった子供の腹に向けて、剣を突き刺すように振り下ろした。
「 やめろっ!! 」
耳をつんざくような声量をもった怒号が部屋全体を大きく揺らした。
レトロが声を上げた、その瞬間、ルークスはピタリと動きを止める。剣の切っ先は少女の腹の真ん中に、今まさに突き刺さる寸前のところで静止していた。
脅しのつもりだったのだろうか。いや、違う。彼女は本気でステラの体に刃を突き立てるつもりで、剣を握りしめていた。ならば何故……そう思いながら声を上げたレトロの顔を見る。
『やってしまった』という後悔がにじみ出た、焦りの表情をしていた。
「……なんだ。興が削がれてしまったな」
ルークスの手から力が抜け、指の間から滑り落ちた剣がカランカランと乾いた音をたてて床の上を転がった。
振り返った彼女の表情からは、さっきまで爛々と燃え上がっていた狂気の気迫がごっそりと抜け落ちていた。それはむしろ不自然なほどの脱力と無気力とを感じる白けたものに変わり果てており、そのうえで、ルークスは何も心にこもっていない声色で、ポツリと言葉を漏らす。
「もう殺すか」
直後、今までことの一部始終を静観していた親衛隊の兵士たちが動き始め、レトロを取り囲み、その首をあっさりと斬り落とした。