記述17 誰が為の裁き 第1節
彼と俺との間には同一人物とは思えないほどの隔たりがあった。外見はそのまま。背の高さ、肌の色、声の質、歩く歩幅の大きさも、食事をとる時の早さも同じ。それなのにまるで別人のように感じてしまうのは、彼の思考と思想があまりにも現在の自分の傾向と異なっていたからだろう。
ほんの少し前まで泉の底に沈んで世界の全てを見ているだけだった彼には、まだまだおよそ『人間らしさ』というものが足りていなかった。それは個体の成長という情報の蓄積が、一人の成人男性として明らかに劣っていることに原因があったのだろう。
フォルクスという神の座から放逐されて間もなかった当時の彼は、まるでものを知らない人間の子供そのものだった。空が青く澄み渡っている理由や、花が咲き誇る理由は知っているのに、それを見た人々の表情が笑顔に変わる理由はわからない。話す言語も単語の意味もわかるのに、なぜその言葉を使おうと思ったのかがわからない。
彼のことを初めてハッキリと過去の自分自身であると認識できたのは、何かを知った時の反応や、誰かを見つめた時の表情に共感できるものがあったからだろう。それは多分に「涙」というものと縁のある共感ばかりだったと思う。
俺には当時の彼が何を思い何をしようとしていたのかハッキリと思い出せないし、彼の方は未来の自分が過去の自分を傍観しているなんて知りもしない。それなのに時々、彼の感じた痛みや苦しみを共有することができた。この感覚を「覚えていた」というのかもしれない。
俺はまだ夢を見ている。きっと追憶という名の夢を見ている。
失ったはずの、本当に自分のものであったのかすら未だ曖昧な、覚束ない記憶頼りな世界に混じって溶け込んで、見覚えのない自分の姿を俯瞰しながら追いかけている。
「忘れたままでいれば良かった」なんて、思いたくはなかったけれど。
何も起きないということは、何をしてもいいということ。つまり世界は平和で、人々は明日への不安の一切を忘れて今日を生きていられる。自由とは、なんと張り合いのないものだろう。
「今日はここまでにしようか」
茜と群青が入り混じる夕暮れ時の空の下、稽古仲間の知人が息を切らしながら提案する。先端に重りがついた訓練用の槍を地面に転がし、自身の体をどさりとその場に座り込ませる。蹴りあげた赤土の地面から上がった土煙が、そよ風に流され夕焼けの中へ溶けていく。
まるで何か大きなことでも成し遂げた後かのように、日の沈んでいく空を見上げていた。俺はそんな彼の姿を見下ろしながら、冷めた声色でたずねた。
「もう帰るのか?」
「そうさ。君みたいな人に合わせてたら体が幾つあったって足りやしない。僕にはこれくらいで引き上げるのがちょうどいいのさ。それに……嫁さんがなるべく早く帰ってこいって口にするもんだからさ」
男は俺の顔を一瞥してから、へらへらと笑う。
「なるべく……って所が奥ゆかしいよな。別に特別な日ってわけじゃないんだ。ただ、一緒にいる時間を増やしたいだけなんだって。安い幸せだよ、まったく。僕は君みたいに大層な力は持ってないけど、幸福な家庭があるってことだけは人一倍誇っているよ。それについては君より遥かに優っている」
「俺と張り合ってどうするんだ」
「君だからこそ張り合いたくなる。優れた人に出会うと自分の未熟さを知らしめられる。そこで強くなりたいと思えるのが、カッコイイ男でいるためのコツだ。なんて、そういう気取った意気込みでもなかったら、君のようにつまらない男の訓練になんて付き合ったりしないさ。あぁ、でも君にも友達ってのがいるんだろ?」
そう言うと彼は、俺の後ろ側にある何かへ向けて「あれを見てみろよ」と指でさした。修練場の出入り口に誰かが一人で立っている。灰色のローブを頭から被った、やや挙動不審な様子の妖しい人影だった。
「それじゃ、またよろしく」
視線を男の方へ戻すと、彼はいつの間にか立ちあがって帰りの身支度を始めていた。自分もまたその後に続いて帰り支度をする。汗を拭いて、靴を履き替えて、水場で腕を洗う。そうしている間に彼の姿は見当たらなくなっていた。ささやかな流水音と共に流れる透明な水。冷たくも、ぬるくもない。
「お疲れさま」
目の前にスッとハンカチが差し出された。その腕の先を辿ると、あの、少年の姿をしたイデアールと目が合った。素顔を隠そうと目深にかぶったフードの中からのぞく、気品のある真っすぐな眼差し。立ち姿一つで貴人であることが簡単にバレてしまうほどの育ちの良さをしているのに、隠し方がイマイチ上手くない。当時の俺にはそんなところを笑って指摘するような気の利いたことはできなかったけれど、イデアールもそんな俺を咎めるほど器量の狭いヤツではなかった。お互いに人付き合いが苦手だっただけかもしれないけれど。
「もう随分暗いぞ。こんな時間に歩き回って平気なのか?」
「こんな時間くらいにしか会いに来れないのが悪いんだ。それに、世話係には出掛けてくる旨を伝えてから出てきた」
「オマエが良いと言うなら構わないが……その様子では夕食だってまだなんだろ?」
「その通り」
「……むしろそれが目的か。いい。付いてくるって言うならスープくらいは出してやる」
「ありがとう」
イデアールはフフッと笑い、そのまま修練場から立ち去る俺のすぐ後ろをついてきた。
赤橙に染めたシルクのストールを束ねるように、夕陽は景色の果てに積もって溶ける。
太陽の下なのか横なのかわからない所を二人縦に並んで歩きながら、話すことは他愛のないことばかり。あの鳥の鳴き声は「カーカー」なのか「クワックワッ」なのかどうかとか、それくらいどうでもいい話。そんなことに少ないとは言えないだけの心地よさを感じていたのは、くだらない会話ができる相手が他にいなかったからだろう。
それに、お互いに疲れていたんだ。来る日も変わらない夕空の下、茜色の平穏と苦痛に照らされながら、二人の影は真っすぐ伸びる。
何が駄目なのか、ハッキリした理由はわからないのに、二人は同じようにこの美しい世界に不満を感じてた。「壊れてしまえ」なんてそんな馬鹿なことを言い出したりはしないけれど、変わって欲しいとは思っていた。逃げ出したいとも思っていた。思うだけで踏みとどまってはいられないほどに。
並んで歩くこともしないまま、数歩後ろのイデアールを振り返る。
「太陽は美しいな」
ふと彼が零した、それこそ他愛のない一言。何も言わず頷き返す。俺は、そんなこと考えたことも無かった、なんて言い出しそうな顔をしていた。
ステラならどう応えただろうか。
自宅に着いたのは周囲が黒く染まってまもなくの頃合いだった。城から少し離れた、この辺りではありふれた調子の集合住宅。その内一つの門を開け、隣人が勝手に手入れしているだけの庭を通り過ぎ、鍵を開ける。備え付けのドアベルがカランカランと軽やかな音を立てて空っぽな室内に響いた。
「相変わらず簡素な部屋だな。本当にこんな所で生活できているのか?」
「オマエの周囲が煩すぎるからそう見えるだけだ」
とはいえ実際その部屋には何もなかった。部屋を借りた際にそのまま付いてきたものをそっくりそのまま何の飾り付けもせずに利用しているだけの、つまらない部屋だ。
俺は部屋の隅にある棚から、紙束を幾つか持ち出してテーブルの上へ転がした。するとイデアールは許可をとるより先にテーブルの席に座り、一つずつ紙束を手元で広げていった。新聞だ。城では禁止されているこの世俗的な情報誌を読むために、彼はここに通っている。
「少しは調理を手伝おうかと、思ったりはしないか?」
「私はお前ほど器用ではないよ」
「皿くらいは出せるだろと言っているんだ」
「時が来た時にまた同じことを告げると良い。その時にはきっと手を貸してやろう」
優雅に駄々をこねるものだ。はなから期待などしていないから、そのまま無視してテーブルの向かい側にある台所へ向かった。
他の場所には大して何も置いていないくせに、台所だけは物で溢れている。多種多様の調理器具は生きていく中で自然に増えていったもので、食材や調味料だって多い方が良いと考えるほど豊富になっていった。
何を作ろうかとしばらく考えて、適当に台所の端に吊るされていた干し魚に手を伸ばした。
香辛料とハーブと砕いた木の実。少しの酒と甘辛い液体調味料。配分を考えながら順序良く鍋に放り込み、水で戻した干し魚と一緒にしばらく煮込む。繰り返し作ることで何となく覚えた調理法だが、イデアールはこの料理が気に入っているらしい。わざわざ好物を出してやろうなんて気は……始めは無かったけれど、喜んでもらうことに悪い気はしなかった。
ふわふわと揺れ浮かぶ湯気の向こうで、イデアールは熱心に新聞を読んでいた。そんな姿を見る度に「本気で王になんてなるつもりなのか?」とたずねてみたくなる。実際に聞いてみたことはない。
「冬葬祭を知っているか?」
紙面の文字を追っていたイデアールが、ふと声をかけてきた。さもきまぐれに、何となく訊いてみただけのような嘘くさい口ぶりに苦笑してしまう。
「年末にある祭りのことだろ? 毎年やっているんだって」
「その通り。あれは民衆にとってはただの年間行事であるが、私たちにとっては重要な祭りだ」
彼はそのまま冬葬祭に関するうんちくめいた説明を始めた。
かつてこの国を作った先人たちは年終わりに決まって訪れる魔の周期から逃れるため、それらを敬い祭り上げることで浄化しようとした。魔とは、例えば作物が採れないなんていう単純なものから、地面を裂くほどの大災厄まで様々。それらを一緒くたに「冬」という古代の言葉でまとめ、一度に祓い落すのがこの祭りの主な趣旨なのだという。そんな成り立ちをきちんと知って騒ぐ民衆も今はほとんどいないのだが、政に携わる連中の間では、この祭りはとても大切で、王族ともすればことさら重要視しているのだそうだ。
「古いものを葬り、新しいものを招き入れる。この祭りの日には様々な儀式が行われる。例えば婚姻、あるいは王の即位式など」
「まだ早いんじゃないか?」
「当たり前だ。今回はそれとは別……前段階のようなものではあるが、私を主君と定めた従士団を結成することになった。そのための叙勲式を執り行う。それで……」
話を聞きながら釜戸の火を吹き消した。まもなくしてぐつぐつと鍋の煮える音も消えて、室内が水中に沈んでいくようにゆったりと静かになっていった。
そんな少しぎこちない空間の中で、イデアールは見つめていた新聞の紙面から顔を上げ、真剣な表情で俺の方を見つめた。
「お前を、私の従士団に招き入れたい」
目に見えない大きな使命に攻め立てられた、この国の未来を背負う偉大な若者の決意に満ちた眼差しをしていたと思う。しかしそれは見方を少し変えただけで、分不相応な少年の救命サインのような何かに変わり果てる。俺はイデアールの瞳の奥にこもった二つの側面を見比べる。すぐに口に出せる言葉が思いつかなかった。
「従士になればこの国の民になれる。この仮初めの住居を出て、城内の兵舎にお前を招き入れることだってできるのだ。お前の実力ならば私もよく知っている。きっと良い地位と待遇を得られるだろう。それに……お前はいつも自分の居場所に困っているように見えた。私はお前の力になりたい。次期国王の身分から至るものではなく、私個人の願望として……お前と、できるならば一緒にいたい」
「……随分気に入られたようだな」
「人並みの欲求だとは思ってもらえないか?」
「オマエにしては上出来だ」
目の前に差し出されたものは紛れもない善意だった。このイデアールという若者と出会ってから、もうすぐ半年になるだろうという時に交わされた会話だった。その間に彼とは何度も顔を合わせ、何度も言葉を交わすうちに、気付いたらこんな奇妙な関係になっていた。
傍から見ればただの友好関係だったかもしれない。けれどお互いにとっては確かに奇妙に感じられたのだから、奇妙と表現するより他にない。一緒にいると心地いいから一緒にいたいなんて、そんなものは、当時の何も知らない自分には容易に飲み下せないほど複雑な感情だったのだ。
その頃の俺の心は本当に未熟で、出来損ないで、良い物を素直に良いと受け入れることすらほとんどできていなかった。だからこそ悪意にも敏感で、何故そんなものがこの世にあるのか疑問に思いながら、何故それが自分の中から湧いて出るのかもわからず、ただ、ただひたすらに、心を混迷させていた。
「俺はレトロ・シルヴァが嫌いだ」
脈絡もなく呟いた言葉に、イデアールの肩がピクリと揺れる。
「オマエはどうだ、イデアール・アーニマライト。オマエはあのヒトならざるモノをどう思う。憎いか? 妬ましいか? あの男はオマエの敵であり続けると、今ここで断言できるか?」
「私は……」
唐突な質問にイデアールは言いよどむ。当たり前だ。困るとわかっていなければこんな問いかけはしない。俺はこの問いの先に欲しい言葉を定めてもいないのに、わざわざ困らせるために質問をした。自分には迷うほどの能力がなかったから、だから、代わりに彼に迷わせる。
俺に善意を向ける彼の導いた答えこそ正解であると信じたかった。
「私は、あの者を妬んではいるが……嫌ってはいない。悪い噂は絶えないが、ああ見えて人柄の出来たお方だ。膨大な才能と人を引き付ける魅力を持ちながら、誰の上に立つべきかを自らの意思で選んでいる。自分が認めたそれ以外にどれだけ非難されようが構わないと、高らかに笑うあの雄姿に……私は、憧れてすらいる。自分の前に道を作り続ける彼には迷いが無い。だからこそ、委ねても良いと思えてしまえる。私が愛さなければならなかった人すらもだ」
「オマエの眼を通した時、あれはそんなに美しく見えるのか?」
「美しいよ。彼の最も近くにいるエルベラーゼが教えてくれる。とても嬉しそうに、愛し気に微笑みながら。素晴らしいと、愛していると教えてくれる。私には彼女の言葉を、想いを、見ている景色の全てを否定することができない」
イデアールのくすんだ青の瞳から、はらはらと涙が落ちる。声も、肩も、震えている。
「私の願いは、あの子の世界が美しくあり続けることだ」
愚かだと思った。そんなことを言い出す彼も、彼に答えを委ねた俺も。
「あぁ、それでいい。オマエに王様なんて向いていないんだ」
それからしばらくして、あの二人は城を出ていった。
救国の聖女の生まれ変わりとも謳われた王女の駆け落ちに国中が沸き立った。騒ぎは年を跨いで終わりなく続き、冬葬祭も中止となってしまった。
けれどまもなくしてひっそりと開かれた叙勲式では、俺はイデアールという若き主君の前に立ち、『忠誠』というには甚だ意志が浅い誓いの言葉を述べた。
ソウド・ゼウセウトという名前は、その時にイデアール・アーニマライトから与えられた名前であった。
『私とともにアルレスキューレを護る剣になれ』だなど、まるで愛の告白のような言葉じゃないかと思い返す。