記述16 塗り潰された家路 第4節
もう一度、暗転した世界に光が差し込む。その光明を待っていたとばかりに閉じていた瞼を開いた。真っ黒な闇の中に沈んでいた意識と視界が沼の底から浮上するように、現実の世界まで帰っていく。すると、そこまで来たところで、自分がさっきと同じ場所に立っていることに気付いた。
周囲には穏やかな風が吹いている。空には小さな雲が群れになって流れていて、木の葉の海の中からは鳥がさえずる音が聞こえてきた。
目の前には崩れる気配など少しも感じられない守護神像が無言のまま佇んでいる。その奥には変わらぬ様子の神殿が建っているのも見える。
まるで一時の悪い夢から目覚めた後のような気分だった。
変わらぬ平穏な村の景色。けれども、その中にステラの姿だけは無かった。
夢は、まだ続いているのだろうか。
首を捻り、左右を見渡し、少女がどこかに隠れていないか何度も確かめる。そうしていると、不意に背後から誰かが話しかけてきた。
「やぁ、お兄さん。旅の巡礼者かい?」
驚いて振り返ると、麦わら帽子を被った素朴な風貌の男が不思議そうな顔をして立っていた。
そこでやっと、村の中に人の気配が戻ってきていることに気付いた。
麦わら帽子の男の後ろに見える景色の中には、当たり前のように隣人同士で談笑し合う村人たちの姿があった。
一方で、帽子の男は振り返った俺の顔を見て目を丸くする。
「都の偉い人だと思ったが、もしかしてアブロードだったか?」
「アブロード?」
「あぁ、知らない? 巡礼者でもないのか? アブロードってのは、このウィルダム大陸の外から来た人等のことを言うんだよ。お兄さんがあんまりにも男前な顔立ちをしているもんだからさ、別の人種だとでも言われないとおじさん自信が無くなっちまうよ」
「ウィルダム……ここはそんな名前の土地なのか?」
「そう! この大陸を守っている守護神ウィルダム様からいただいたありがたいお名前だ。そこに建っている御神体はウィルダム様の姿を象っているんだよ」
「え?」
男の言葉に再び驚かされ、示された先にある神像を見上げる。
なんと、さっきまで見ていた物と形が違う。
『龍』によく似ていると思っていた造形は基礎となる形状をそのままに、柔らかく、流線的な輪郭をもったものに変化していた。頭頂部には雄大な角の代わりに装飾的な翼があしらわれ、丸みを帯びた口元に牙は一切なく、四肢の先には爪も無い。被膜の翼の代わりにはマントのように広がった羽根のようなものがついている。
神像の頭部に刻まれた表情は柔和で優しげだが、それが俺にはとても居心地の悪い不気味なものに感じられた。
確かに変わっている。では、何が変わっているのか。これは神像の形が変わる程度の微細な現象では留まらないと直感する。きっと他にも変わっていることはあるはずだ。だとすれば最も気がかりなのは、姿の見えないあの少女のこと。
「ステラ・シルヴァはこの村にいるか?」
会話の文脈を食いちぎるような、突拍子もない問いかけになってしまった。村人の男は急な質問に戸惑い、腕を組んで考えるポーズをとる。
「女の子の名前だな? けども……ステラなんて名前はここいらじゃ聞いたことないねぇ」
「そんな馬鹿な……」
この小さな村の中で、年若い少女の名を聞いたことがないなどあるわけがない。漠然と感じていた焦燥が密度を濃くして不安とともに胸の内に広がっていく。
「でも、シルヴァさんの宅ならこのすぐ近くにあるよ。案内してやろうか」
こちらの心中を満たす不安のことなど少しも察した様子なく、男は親切そうな笑みを浮かべて歩き出す。
言われるがままに男の後に付いていく。まもなくしてやってきたのは、質素な佇まいをした一件の木造住宅。
備え付けの呼び鈴をカランカランと鳴らすと、家の中から大きなエプロンを着用した痩せた男が顔を出した。茶色の髪に、青い眼。どことなくツリ気味な目元に既視感があり、ステラの血縁者なのだろうと直感的に理解できた。
男は突然の訪問者にしばし不審な言葉を連ねていたが、俺を案内してくれた同郷者が仲介してくれたおかげでなんの諍いもなく話が進んだ。
「中へ、どうぞ」
家主の男は奇抜な装いの自分に何を思ったか、柔和な笑みを浮かべ、室内へ来客を招き入れる。
「家内はちょうど留守をしておりまして、すみませんがお茶は出せんのです」
「気にしなくていい。そう長居するつもりはないんだ」
「そうですか……」
男に勧められるままにテーブルに向かい合って座る。
家の中は物で溢れていた。そのほとんどが植物や動物の毛皮、あるいはそれを加工する道具であるように見えた。
確かステラの家は繊維衣類の加工を生業としていると聞いていた。だとすれば、ここは確かにシルヴァの家なのだろうか。
向かいの席に座ったシルヴァ家の主人が口を開く。
「あなた様はもしや、レトロの知り合いでは?」
「レトロ……?」
この状況で、全く想定外の人物の名前を繰り出された。驚きと困惑が混ざり合った奇妙な感覚が芽生える。
どうしてそんなヤツの名前が出てくるんだ?
「おや、その反応を見るに、やはり知り合いでしたか。そうですよね、こんな何もない田舎者の家を訪ねる理由なんて、あの子のこと以外考えられません」
嬉しいのか悲しいのか判別がつかない表情で自嘲的な微笑を浮かべる。昔を懐かしむように細めた小さな目には、慈愛のようなものが滲んでいるような気がした。
「親子なんですよ。信じられない話かもしれませんが、あの希代の天才はうちの一人息子なのです」
「……信じられません」
そう言わざるを得なかった。当たり前だ。目の前に座っている男は、多少老けて見えはするが大げさに見積もっても四十前。あのレトロの外見と比較しても若すぎる。いや、そもそもレトロは何十年も昔に死んだはずだ。エッジは確かにそう言っていた。そう、エッジがいるはずならば、この男は彼の祖父にあたる。なおさらおかしいだろう。
混乱する頭で考える。そうして今目の前に広がっている光景の全てが、やはり自分が見ている長い長い夢の続きなのだという結論にいたる。
これもまた、失われていた記憶をもとに再生された、遠い過去に見た光景なのだろう。
しかし、ならば俺は一体いつから存在していたのか?
「いっそ誇らしいですね。あの子は私たち夫婦にとっては出来すぎた息子です。だからこそあんなにも早く家を出て行ってしまった」
「彼は今どこに?」
「もう四年も前に上京しましたよ。何か目的があったみたいですが、結局私には何も教えてくれませんでした。職人として成功しているのか、たまに噂を聞きはするのです。とはいえまだ十六の若造。親の心が死なぬ限り心配に思うのも仕方ありませぬ」
十六歳。それはステラと同じ歳だ。
「ステラを……ステラという名前の少女を、知っていますか?」
恐る恐る尋ねてみる。
「はて? 全く耳にもしたことのない名だ」
男に嘘をついている素振りは一切無かった。あまりにあっさりと返ってきた答えに眩暈がしそうになる。
ここはステラ・シルヴァの故郷ではなかったのか。ならば自分は一体、どこの世界に流れ着いてしまったのだろう。
ついさっき目の当たりにした世界が崩壊する直前の出来事のことは、この身で体験したものとしてありありと、鮮明に思い出せる。確かに壊れ、無くなってしまった。ならばその後に残っているこの場所は何だろうか。
そして……嫌な推測が頭の中をよぎる。レトロ・シルヴァという、同じ村で生まれ、同じ家名を持ち、同じ環境で育った誰かがステラの代わりに生きているという、最悪の推測。
あの神像が象る龍の姿が、別の龍に入れ変わっていたことと同じように。
私とあなたがいた世界は……もう、何処にも無い。
崩壊する夢の中でステラが最後に教えてくれた言葉が頭の中を反響する。
何処にも無い。世界から彼女の存在が消し潰され、その代わりに、彼女がいたはずの場所にレトロがいる。
あたかも初めからそうであったかのようにすり替えられ、書き換えられ、ステラの存在の全てが無かったことにされている。
だとしたらどうだ。こんなこと、あって良いはずがない。
「俺は、もう一度レトロに会わないといけない」
ただの妄想じみた推測に過ぎないはずなのに、そう思い至った途端に口から焦りの滲んだ決意の言葉が吐き出された。
その一言は目の前に座るレトロの父を名乗る男の耳にも届いた。独り言のようなものだったのに、彼は何を思ったかニコリと軽やかに笑う。
そして親切心のおもむくがままに、このようなことを教えてくれる。
「あの子は今、アルレスキューレの城下街で機織り職人として暮らしていますよ。あそこは素晴らしい所です。きっとこのウィルダム大陸の何処よりも美しい、夢のような都です」