記述16 塗り潰された家路 第3節
ぐにゃりと歪んだ光の渦が己の体を包み込んでいく幻覚を見た。暗闇と混じって灰色に変色した光が瞼の裏でチカチカと点滅し、痛覚を刺激するほどの眩しさに目を開く。
すると、目の前にあったのは華やかな森林だった。
宝石のような木漏れ日に照らされた新緑と、どこまでも高く高く澄み渡った空。落ち葉すらも鳥の羽根のように軽やかで、手の平で感じる大地の柔らかい弾力も居心地の悪さを感じるほど暖かい。
絵画の中でしか見たことがない鮮やかな色彩を帯びた自然の景色。俺は、この景色を見たことがある。
草花の上に横たわっていた体を起きあがらせる。瞼に手を当て、両眼を閉じた後に、そっと開く。緑に溢れた景色は変わらない。そしてその変わらない景色の中に、あの青い泉があることに気付いた。
あの、とは何か。俺はこの泉のことをよく知っているような気がした。
そうだ、夢を見ていたはずだ。俺はこの泉と、その周囲に広がる森林の景色を夢の中で、誰かの眼を通して垣間見た。しかしてその夢と同じ景色が目の前にあるのもおかしな話で……だとすれば、これも夢なのかもしれないと思い直す。
「俺は塔から落ちたはずだ」
混濁した意識を掻き漁り、最後に自分が何をしていたかと思い出す。
塔にいた。薄暗く、肌寒く、じめじめとした牢獄の臭いが漂うあの場所で、あの人に出会った。いや、出会ったのは男だ。茶褐色の髪に琥珀色の眼を持つ細身の男性。歳は二十半ば。悪戯に成功した子供のような意地の悪い表情をしていたため若く見えたが、実際はどうだろう。
何より重要なのは、彼が俺のことを知っていたということだ。知っていた、といっても、イデアールやトラストのそれとはまた違う既知であったに違いない。そう、何故ならこの俺の方もあの男の顔を覚えていたからだ。
レトロ・シルヴァ。その名は皮肉にも、自分の大切な友であったエッジの父親の名と一致していた。偶然名前が同じだったわけではない。あれはエッジと同じ眼をしていた。彼以外の誰一人として同じ物を持っているとは思えない、独特で、印象的な光を宿した瞳だった。俺はその眼に神聖すら感じる時があったが、あの男のそれにはエッジよりももっと歪な気迫が含まれていた。この世の何もかもを見下すような、傲慢な心に身をゆだねて爛々と輝く、人ならざるモノの眼。そこに混ざる明確な悪意が、真っすぐに俺に向けられていた。
あの男、レトロは俺を憎んでいた。そして俺も、レトロのことを憎んでいた。憎み合っていたことだけを覚えていて、そのうえで何故こんなにも嫌っているのか理由がわからない。
『わかるわけないだろう? なにせ、何も覚えていないんだ。何度も何度も記憶を無くして、今じゃ自分が何者だったのかもわからなくなっているんだろう?』
レトロに言われた言葉を思い出す。あの男は俺の記憶のことを知っていた。まるで記憶障害に陥る以前の俺を知っているかのような口ぶりで、罪だの、罰だの勝手なことを言う。裁きがどうだの、神がどうだの。
あぁ、ダメだ。今ここで考えていても仕方ない。
気疲れでどっしりと重たくなった体を、ぐっと背伸びでほぐしてから立ち上がる。ただ立ち上がっただけなのに、ふわりと宙に浮く錯覚がした。まるで魚が初めて陸に上がった時みたいな……いや、そんな感覚では誰にも通じないのだが、そう喩えることでしっくりくるくらい奇妙な感覚があった。しかしそれもすぐに消え失せる。俺は両の足でしっかりと土の上に立っているじゃないか、と。
もう一度泉の周りを一望すると、木陰の下に空っぽの籠が置いてあるのを見つけた。そこでふと、自分の着ている服がいつもと違うことに気付く。真っ青に染色された肌触りの良い布を簡単に縫い合わせただけの衣服で、確か「聖衣」と呼ばれていただろうか。随分と厳かな響きだ。しかしその聖衣という言葉はさっきまで見ていた夢の中で聞いたもの。夢で見たそのままの情景と、まるでその続きの世界に自分が入り込んでいるようだった。どこまでが現実なのだろう?
何かを思い出せそうな気がする。そうだ、女の子がいたはずだ。まだ大人になりきれていない未成熟な少女がここによく遊びに来ていた。その少女に会いに行こう。そしたらきっと、何かがわかるはずだ。
そう思いいたるや否や、森の奥、もしくは出口に向かって歩きだす。道はわかる。きっと初めて歩く場所ではないのだろう。
自分の記憶なんてどこまでも信用できないが、記憶よりもっと奥にある魂に刻み込まれた何かはしっかりと残っている。道標とでもいうべきものであろうか。確証も何もない曖昧な自信だったが、それでも何も知らない自分なんかよりはよほど頼りにできる。
事実、俺はあっという間に森を抜けることができた。
森を抜けてすぐの場所には集落があった。舗装されていない自然そのままの地面の上に、質素な造りの家屋がいくつか建っていて、森林に囲まれ、中ほどに清らかな小川が流れる、どこにでもあるようなのどかで平和な村だった。
だが、この村には人の姿がなかった。どれだけ村の中を歩き回っても、家屋の中を覗き込んでも、誰の姿もみつけられない。奇妙に思って「誰かいませんか」と声を出してみても、どこからも返事は帰ってこなかった。
道の脇には真っ白な布が干したまま放置されていて、その周りには生活道具が無造作に置きっぱなしになっている。誰かがつい先ほどまで火を使っていた痕跡すらあって、外に置かれていた窯の中の水はまだ温かさを残していた。まるで村の中から突然人間だけが消えてしまったようだった。
やはりこれは夢の続きなのだろうか?
自分の手の平を見つめ、両手を重ねてみる。重なり合った肌と肌はその下にある肉の温度をお互いに伝えあい、確かな熱を持っていることを俺に教えてくれた。ふれた感触はある。強く握りしめた時の痛みもある。手首に指を添えれば、脈があることだってわかる。
それなのに目の前にある光景には少しも現実味が持てていないままだ。だってそもそも、俺にはこんなところに来た覚えなんてない。
というか……こんな自然が豊かな場所が、今のウィルダム大陸にあるわけがないじゃないか。
どうにもおかしい。そう思いながら顔を上げると、ふと、村の奥に一際異質な雰囲気を持った建造物がそびえ立っているのが目に入った。真っ白な石材を積み上げて建てられた、いわゆる『神殿』と呼ばれる部類の建物だ。
見たところこの神殿は村の中で最も大きな建物のようで、ならばここにならば何かあるのではないかと思い、近くまで行ってみることにした。
神殿の壁面には緑色の蔦がたっぷりと絡まっていて、土埃をかぶって色褪せた石材の表面にはふわふわとした苔がたっぷりと生えている。外観を見る限り古ぼけてはいるが、周囲の草が刈られていたり、供え物と思わしき品々が入口に積んであったりするあたりから、ここに祭られている何かに対する信仰が途切れていないことはしっかりと感じ取れた。
集落全体から漂う牧歌的な雰囲気には似つかわしくない、大きくて立派な神殿だ。そしてその入口の前には、何かを象った大きな彫像が建っていた。
その像は、なんだろうか? 獣のような、蛇のような、この世のものとはとても思えない異形の姿をした『何か』を象る像。
雄鹿のように縦横に広がった雄大な角を持ち、蛇のような骨格の頭部を持ちながら、その口の中には尖った牙をぎっしりと生やしている。細長い胴体には獰猛な獣の爪を持つ四つの脚。背には羽毛が無い被膜状の翼を一対備えている。頭部に彫り込まれた相貌は凛々しく、異形でありながら都合よく擬人化された表情には親しみやすさも感じられた。神殿同様に真っ白な石材で造られているためか、色はわからない。
あの絵に描かれていた『龍』というモノと、少し似ているとも思った。
「それは神様を祀る神像だよ」
いつの間にか、像の前に人が立っていた。
「えっ?」
振り返り、目を凝らし、何度も何度もまばたきをして確かめる。
「お久しぶり、フォルクス様。いいえ、ソウド・ゼウセウトさん」
今いる場所からあと三、四歩。近付けば触れられる距離。
茶色の髪、青色の瞳。夢に見たあの少女が立っている。
「私はステラ。ステラ・シルヴァ。この小さな村で生まれ育った、しがない村娘」
少女、ステラはほのかに首をかしげ、俺の顔を真っ直ぐに見つめる。
時間が、心臓が、呼吸が止まるような、強烈な刺激が頭の中を一瞬で通り過ぎていった。
「どうして……ここに?」
どうして、どうして……どうして? と、途方に暮れた子供のように、疑問の言葉があふれ出して止まらない。
なぜそんな疑問を抱くのかもわからなかった。それなのに、心は体を揺り動かし、激しく鼓動を高鳴らせる。
この驚きの理由も、歓びの理由も、悲しみの理由すらも、わからない。
「どうしてだろうね」
軽やかな声色で、ステラはイジワルなことを言う。
それからぴょこんと音が出るような仕草で、一歩こちらに近付いて、俺が立っている場所の周りをくるりと一回りした。もう一度正面までやってきたところで、彼女は俺の顔を見上げるようにのぞき込み、桜色の唇をひらめかせた。
「ここは神様のために造られた村なの。それで……そこに建っているのは、この大陸の偉大なる守護神を祀る大切な神殿でね、これを守るのが、この村に生まれた者の使命なんだって。ほら、見てごらん」
ステラに神像の台座部分を指し示され、言われるがままにそこに書かれた文面を読み上げる。
『 我ら人の身に与えられし 恵みの天地フォルクス
永劫なる大河に漂流する孤島の上に 我ら人の営みはありけり
この空の果てに生は無く この海の果てに土は無く
神よ 何処におわすれば 我らを真なる本流に導きたまえ 』
「これはね、この村にずっと昔から伝わっている神話だよ。この広くて小さな大陸に住む人間が、世界を知ろうと模索し、理解しようと歩み寄り生まれた歴史上の産物。先人が後世を生きる子供たちを導くために用意した人造の灯。ただし夢幻の類。そうやって偶像を讃える人間たちを、創造主たる神は嗤っているかもしれない。けれど確かにここには信仰があった。私も……神様を信じていた。みんなの言う神様とは違ったけれど」
かみ、さま……?
「神様なんていう得体のしれないものを信じているのか?」
「えぇ、そうよ。だってこの世界は美しいじゃない」
ステラは当たり前のように言い張り、ニコリとあの笑顔で笑う。
「ソウドさんは何かを信じたことはある?」
「信じる?」
「そう、信じる。それは願いや祈りに似ているね。心の底から『そうあって欲しいと思う』こと」
唐突な問いかけに戸惑ってしまう。けれどもその答えを思い浮かべる中で真っ先に浮かんだのは、目の前にいる少女の姿そのものだった。
「もっと、一緒にいられると思っていた」
声に出して伝えた途端、押し止めていた七色の感情が水滴となって視界を滲ませていった。鼓動がトクトクと鳴っている。
そんな、今にも泣き出しそうな俺を見て、ステラはもう一度クスリと笑う。
「あなたって本当に正直ね」
笑われるようなことを言ったつもりはない。けれどもくすぐったそうに微笑むステラの表情を見ていると、たとえ馬鹿にされていたとしても悪い気はしなかった。
一緒にいられると思っていた。ずっと一緒にいたかった。
ステラが傍にいてくれたあの日々は、何事にも代えがたい幸福……そうだ、そうだったんだ。
そしてその幸福は過去の話だ。手が届かないほど遠くへ離れ、色褪せて、もともと何があったのかわからなくなるくらい掠れてしまった、遠い遠い過去の思い出。
「ねぇソウドさん。自分が何者なのか、思い出せた?」
ステラは問いかける。わからない、と、駄々をこねるような気持ちで首を振る。本当は思い出したくないのかもしれない。
「大丈夫。あなたは今まさに思い出そうとしている。あともう少し。だって私のことまで思い出せたじゃない」
「……ステラ?」
「うん。私はステラ。ステラ・シルヴァ。もはや、あなたの記憶の中にしか存在しない、消却された魂。それでも確かにここにいられるのは、あなたが思い出してくれたから。ありがとう」
「ステラ、何を言っているんだ? それじゃあまるで死んだような口ぶりじゃないか」
「そんな寂しそうな顔をしないでソウドさん。過ぎたことをどうにかしようなんて、それこそ神様にしかできっこないの。私とあなたがいた世界は……もう、どこにも無いのよ?」
ステラがその一言を告げた途端、
真っ青な空にピシリと不自然なヒビが入り、
たちまち空が窓ガラスを割るような巨大な音を立てて弾け飛んだ。
弾けたのは空間だ。空が割れたのと同時に周囲の全てが時を止めた。空も、大地も、風も、目の前のステラすらも時を止め、一寸も動かない。
天上の割れ目はどんどんと拡大していく。やがて先の見えない真っ暗な割れ目の奥底から霧のような形状の黒い雲がこぼれ出るように入り込んできた。それは見る間に広がり、世界に暗い影を落としていく。
俺はこの雲を見たことがある。しっかりと覚えている。忘れもしないあの悍ましい漆黒の暗雲が、俺から何もかもを奪っていった。
黒い雲はまず空に浮かぶ白雲を消し、青を消す。風も喰い、音も喰い、這い寄るように静かに世界を包み込んでいき、やがて大地に暗雲が触れた途端、草も土も粒子状に崩れて消えた。
暗雲は瞬く間に村を喰らい尽す。家屋が崩れ、人の営みが壊れ、何もかもが粉々に砕け、真っ黒な粒子に変わって、あの大きな割れ目に吸い込まれていく。穴だらけになった大地が悲鳴を上げ、足元がぐらりと大きく傾いた。
これは、自分の記憶を元に構成された追体験の世界。
混乱極まる目の前の状況とは裏腹に、酷く冷静な脳が、やっとその事実に辿り着く。
だとすれば俺はこの景色をどう受け入れればいいのだろうか。何者かの手によって今にも粉砕されそうになっている自らの故郷を前にして、俺は何を思えばいいのか。
嘆けばいいのか? 恨めばいいのか? 悔めばいいのか?
静止して動かなくなったにも関わらず、目にも止まらぬ早さで崩壊していく世界。このまま俺は取り残される。この記憶の中の光景が崩れ落ちるまであと少し。ならば、せめて、
「ステラ!!」
力の限り名を叫び、すぐそこにいたはずのステラに手を伸ばす。
例えコレが過去の夢を見ているにすぎなかったとしても、救い出せなかった未来があったことを覚えていても、今、同じ場所にいるならば諦めることなんてできない。
大地が崩れるより先に歩を進めれば、彼女に近づくことができる。そう信じて。せめてもう一瞬だけでも長く、彼女の存在を噛みしめていたくて、精一杯伸ばした指先が、 ステラの体に重なり、 宙を切る。
ハッとするような冷たい閃光が胸を貫いた。
その次の瞬間、暗雲は瞬く間に微笑んだまま静止したステラの全てを包み込み、粉々に砕いた。まるで最初から生き物ではなかったかのように、簡単に。
四散した粒子はキラキラと輝きながら他の物と同じように宙をしばらく漂うと、割れ目の向こうに吸い込まれていく。その最後の一粒が暗闇の奥に消えるのを無様に見送ったと同時に、大地も砕け散った。
支えを失った体が宙に投げ出され、再び落ちていく。落ちていく。
何もかもが暗雲に覆い隠され、視界が黒で塗りつぶされる。やがて空気すらも無くなってしまった頃、落ちているのか浮いているのかもわからない曖昧な感覚の中で、俺は意識を手放した。