記述16 塗り潰された家路 第2節
空は青、大地は緑。花は紅、風は白。
陽だまり香る風になびいた少女の髪は、大樹の幹、豊かな土壌と同じ色をしていた。
「こんにちは。やっと起きてくれたんだね、私の神様」
柔らかく、暖かく、華々しく。セピア色にぼやけていた視界が少女を中心に鮮明な色を付けて広がっていく。
ここは恵みのある世界。少女と、少女にとっての「あなた」のための、祝福に満ちた世界。
「ぼーっとしてる? またどこか遠くのことを見ているの?」
少女は黄金色の木漏れ日をその身に浴びながら、鳥が囀るように軽やかな笑顔をこちらへ向ける。
空虚な暗室に一滴の雫がこぼれ落ちたような幻覚が、開いた視界の中に広がり、消える。その後に今まで感じたことがないような、穏やかであるが確かな熱を持った感情がどこからか舞い上がるように湧き出てきた。
夢だ。夢を見ている。
これは脈々と続くはずだった日常の切れ端だ。
遠い昔に消え去ってしまった、過去の記憶の繰り返し。
後にも先にも進むことがない、すでに閉ざされてしまった記録の再生。
ぬるま湯に全身を浸すような心地の良さが、心の奥の奥まで染み渡っていく。
あぁ、なんて都合の良い白昼夢。
「世界を見守るのってどんな気持ちだろう。私には全然想像できないよ。だって私はこの村を出たことすら無いんだもの」
少女は冷たい泉の水に足首を浸し、パシャパシャと爪先でしぶきを跳ねさせる。そして不満そうに唇を尖らせた。
「羨ましいな……あっ、でも、ごめんなさい! フォルクス様だってこの泉から出られないんだものね。遠くから見るのと、実際に触れるのは違うよね。それなら私にだってわかる」
ころころ変わる表情を追いかける。追いかけて、見つめて、どんな言葉を返すべきか、どんな顔をするべきか、懸命に考えていたんだと思う。
「私ね、フォルクス様がしてくれるお話が大好きだよ。火を噴く山があるとか、勇敢な戦士が剣を振って勝ち取った国があるとか、大地の果てに海っていう大きな湖がある、とか……この世界に知らないものがいっぱいあるってことすら、あなたが教えてくれるまで知らなかった。私はあなたに比べると、ずっとずっと小さいね」
眼を少し閉じるだけで、あの日々の中で少女に語り伝えた世界の情景が浮かび上がる。
一度も踏み込んだことが無い、はるか遠くにある故郷の姿。
あるべきものを、あるべき場所へ。自然は自然のままに、生命は生命のままに。
花も緑も風も大地も、全てがあたりまえの祝福に溢れていた、春の日の木漏れ日の隙間から見る景色。
何処でもないこの小さな泉から、それらを見守り続けることが唯一の存在理由だった。
誰にも知られず、自分にすら気付かれぬまま、ただ見守り続けていた。
「あなたと一緒に探しに行けたらいいのになぁ」
この一人の少女を除いて。
少女は水の中に沈む大きな影に手を伸ばし、濡れて冷たくなった腕をそっと撫でる。
「でもその夢もそう遠くないかもしれない。だって、フォルクス様ってどんどん人間みたいになっているじゃない。ほら見て、指だって五本あるよ。あとはこのカリカリした鱗と、尖った爪と牙と、角……は、カッコイイから残してもいいよね!」
小さな頭をキョロキョロと大きく動かしながら、化け物の全貌を見上げている。その姿に異形を前にした恐怖など一欠片もなく、少女は屈託のない笑顔と無邪気な愛情だけを与えてくれていた。
「そういえば、今日はフォルクス様がもっともっと人間っぽくなった時に着るための服を持ってきたんだよ! あそこのバスケットの中に入れてきたの。少し前に儀式で使っていた聖衣なんだけど、サイズが大きくて他に着る人がいなかったんだって」
取ってくるね! と一言告げて泉から上がる。服の裾を少しだけ絞ってから、裸足のまま草の上をほんの少しだけ駆けていく。木陰に置かれていたバスケットの中には少女のランチが入っているものだと思っていた。大きなバスケットを両手で抱えながら戻ってきた少女は、やはり笑顔で泉の傍に座り込み、蓋を開ける。
「ほら、綺麗な青色でしょ!」
ほんのりと干し草の匂いがするバスケットの中には、深い泉の底から空を見上げた時に見ることができる、あの美しい色彩を模した布が丁寧に折りたたんでしまわれていた。
そうか、これは青色と呼べばいいのか。
「青って素敵だよね。この泉の色と同じだからかな、見ているとフォルクス様のことを思い出すの」
そう告げる少女の瞳こそ青く輝いていることを、本人は恐らく気付いていなかったのかもしれない。
不思議に思いながら見つめていると、不意にその輝かしい青色に不安の雲がかかる。その時の少女が真に何を思って心を曇らせたのか、本人の口から伝えてくれる以上のことはわからなかった。
「フォルクス様は素敵だよ」
青色の布をぎゅっと胸の前で抱え込んで、そっと瞳を閉じる。
「村の人は誰もあなたのことを信じてくれないけれど、私はあなたのことをいっぱい知っている。大きくて、カッコよくて……少し怒りっぽいところとか、誠実すぎるところとか、律儀で綺麗好きで……私の傍にいてくれる。贅沢かな。神様を独り占めするなんて」
その寂しげな横顔を、やはり見守ることしかできない。それだけで十分だと少女はよく口にしていたが、本当にそうだったのだろうか。
「でも、独り占めって……なんだか違うかな? あなたに愛してもらうのって難しそうだもの」
愛とは何か。少女が欲しているのならば、浴びるほど与えてやりたいと思った。けれどそれはどこに行けば手に入るのだろう。泉から一歩も出ることができない身分の、この短い腕で届く場所にあるのだろうか。
「私がどれだけあなたを好きだと言っても、あなたがどれだけ私を好きだと言っても、生まれたばかりの神様は愛と情がわからないんだもの。
でも、大丈夫だよ。私はそんなフォルクス様のことも大好きだから!」
あどけない顔立ちを軽やかに歪めた、純潔の微笑み。何度も見たはずのその表情を、初めて出会ったような気持ちで見つめていた。
『―――…』
その自信に満ちた笑顔を見た途端、意思とは関係なく体が動き、自分では聞き取れない言葉を発していた。彼女はそれに応え、丁寧に言葉を返す。その返ってくる言葉の一つ一つが「私という存在」をこの世界に繋ぎ止める。
「そう。ありがとう、フォルクス様……あぁ、私、本当にあなたのことが大好き。
あなたの瞳は深い森に茂る草葉の緑。あなたの肌はあの立派な祭壇に敷き詰められた大理石の白。あなたの髪はかの空よりも、この泉よりも美しく鮮やかで……凛々しい視線、人ならざる物の大きな手の平。きっときっと、あなたはこの世のどんなものよりも優れている。
あなたが、人間だったら良かったのに」
彼女は私にとっての母であり、想い人であり、掛け替えのない友であった。
己のことなど何一つわからないのに、彼女のことだけは知っていた。
彼女が話しかけてくれるから、彼女が教えてくれるから、私は私がここに在ることを知ることができた。
さもなくば私はただの幻想にすぎなかったはず。否、今も幻想であることに変わりはない。彼女の幻想であるということが大切だったのだろう。
この世でたった一人だけ、私を見つけてくれた大切な人。私に全てを与えてくれた人。
必要だから欲する、そんな単純な気持ちを愛と呼んではいけないのだろうか。彼女は私を無知だと言うが、きっと与えられる物の色くらいは区別できているはずだ。彼女が青が好きだと言ったなら、私もきっと青が好きなのだ。
私はあなたの青色を愛している。