記述16 塗り潰された家路 第1節
この大陸の中央には、標高が高いわけでもないのに何故か一年中雪がふり積もっている不思議な雪原地帯がある。
中央にあるから中央雪原という簡単な名前を付けられてはいるが、周辺に生きるものたちにとっては畏敬の念を抱かざるを得ないほど恐ろしい場所でもあった。
ハイマートはそんな中央雪原の末端に領地を持つちいさな街だ。セメントを四角く塗り固め、三角の雪避け屋根を被せただけの無機質な外観の建物ばかりが建ち並ぶ、辺鄙な街並みが特徴だ。しかし何分積雪の多い地域であるために、寒冷期を迎えるとともに景色のほとんどは雪の中に埋まって見えなくなってしまう。
街中を巡回する除雪機の稼働音はうるさいし、住んでいる住民の表情だっていつも暗い。水が美味しいということだけが唯一の良点であると、皮肉をこぼすものも少なくない。
そのうえ、ペルデンテとの戦争の火蓋が切って落とされた今では表を歩いているのは城下の方から配属されてきた兵士ばかりで、街中にいるのにまるで軍事基地の敷地内にいるような気分になる。
街全体に漂う鬱屈とした雰囲気に嫌気がさして、何の気はなしに空を見上げる。すると分厚い雪雲の間からこぼれ出た大粒の雪の塊が一つ二つと顔の上に落ちてきて、冷たく肌の下に沁み込んでいった。
あの無慈悲で絢爛な太陽の光は、この街にはほとんど届かない。ほんのりと薄暗いベールがかかったように見える空気中には微細な氷雪の粒子も混ざり込んでいて、そのために周囲の視界はいつも霧がかかったようにぼんやりとしていた。
「国境沿いに設置されている金網はグラントールとの戦争が終わってから管理が疎かになっていてね。ペルデンテが大陸を左回りに迂回して攻めてきた時のため、今の内に電波塔などの機能を修復させておくべきだろう……というのが今回の遠征の主な目的と内容だ」
「つまり俺が来る必要なんて無かったと?」
「その通り。仕事は監査なり何なり色々あるけど、君ほどの手練れにはいくら何でも役不足さ。なんでわざわざそんな遠征に付いて来ちゃったのやら。監視を任されている俺の身にもなってくれよ」
隣を歩いているディノが通信端末の画面をいじりながら、ひねくれた文句を言う。支給された黒い軍用コートを雑に羽織っただけのその姿は雪景色の中で些か寒々しい。彼にとってはこの程度の寒さならどうということもないらしいが、見ているだけで鳥肌が立ちそうになる。
「ペルデンテが雪原の上を通って攻めてくることは考えないのか?」
「馬鹿なこと言うな。あんなところ、大型の軍用ギアでもおいそれと立ち入れないよ」
「だがあそこには……」
巨大な氷の柱があると聞いた。
「旦那さん、またエッジ様のこと考えてるなぁ?」
「悪いか?」
エッジとは結局あれ以来ほとんど会話をしていない。「また来るから」と言って会いに行った夜も、その次の夜も、初日と同じように黙って傍に寄り添うだけにしかならなかった。
『あのエッジという名の子供はな、お前という存在に恐怖を感じているのだ』
二人で一緒にいる時に頭の中に浮かぶのはイデアールから聞いた、悪意に満ちた助言の数々。エッジは俺のことを恐れている。再び彼と顔を合わせた時に、それはきっと本当なのだろうと気付いてしまった。エッジは……真実を知ることによって俺がどんなことを思うのかと、ひどく恐れているようだった。そしてそれが、詳細を知りたくて仕方ないと思いながら接する俺の意思にも背いていることについても、後ろめたさを感じている。
話すことも、話さずにいることも辛いのだろう。ならば俺はいっそ、今のエッジから距離をとるべきなのではないか。
そう思い始めた頃、黒軍隊長ダムダ・トラストが、俺にとある提案を持ちかけてきた。
『近々行われるであろうペルデンテとの戦闘に備えて、中規模の遠征部隊を結成することになりました。主な任務内容は国境沿い区画の設備点検と監査。そして彼らが向かう最初の滞在場所がハイマートになることも、同時に決定しました』
どういう経緯であるかは知らないが、トラストは最近の俺とエッジの間に流れる気まずい空気と、その原因になっている事情について情報を得ているようだった。そのうえでこの俺に、一時エッジの傍を離れてハイマートへ行ってみると良いと言ってきた。
国境の街ハイマート。またの名を牢獄の街バスティリヤ。
イデアールはそこに行けばエッジを苦しませているものの正体がわかると言っていた。ならば、行ってみるべきなのだろう。何を考えているかわからないトラストの企みと誘導に従うのは癪ではあったが、実際、良い機会であることは確かだった。
そうして俺は、エッジとひと時の別れの挨拶をした後に、このハイマートという雪ふる地までやってきた。
「悪かないさ。考えるなっていう方が無理だろうし、一途なのはいいことだ。けど旦那さんは少しばかり鈍感が過ぎるから、見ていて可哀想に……」
話の途中で立ち去ろうとすると「いやはや、怒らせたかな?」とニヤニヤしながら付いて来る。
こんな得体の知れない男に同情されたところで気分が悪くなるだけだ。聞いた話ではコイツはあのダムダ・トラストの実子だと言うじゃないか。信用なんてできるわけがない。というか父親にそっくりすぎて相手をしているだけで疲労が溜まる。悪い奴ではないのだとは思うが、そんな印象を抱かせること自体が演技である可能性だってあるんだ。まったく気の休まらない相手である。
しばらくディノの独り言を聞かされながら街を歩いていると、幾つもの仮設住宅が建てられた広場に出る。地面には積雪対策のために鉄製のパイプが敷き詰められていて、その上をカツカツと歩き進んでいく。すると突然、広場の奥から大きな声が一つ、ふっ飛んできた。
「ソウド・ゼウセウト! 着任早々命令違反とはどういうつもりだ!?!?」
振り返ると、およそ雪景色に相応しくない容貌をした大柄の男がこちらに向けて怒鳴り声をあげているのが見えた。
金軍御用達の土色コートを着ているのはいいのだが、ディノ同様前は閉じないしその下も薄着で胸板が丸出しだし、何より頭に被った金色の兜が悪目立ちしすぎている。ロングコートに金色兜なんて馬鹿でもしない不格好さではなかろうかと思う。
「誰だオマエ?」
率直な疑問を口にしてみると、後ろでディノが「うわぁ」と呆れ声で笑った。大男は血気盛んな様子で肩を怒らせながらズンズンとこちらへ歩み寄り、大声で名乗りを上げる。
「王制国家アルレスキューレ国軍第二部隊!! 隊長!!
グロル!!! ヘイトバーグであるッ!!!!」
唾が飛ぶくらい顔面を近付けながら大声で名乗られる。声量のために前髪の先がふるふると揺れた。
「どこかで会ったか?」
「当たり前だ!!」
「俺はよく記憶喪失になるからオマエみたいな人相の濃い相手でも……」
「前に会ったのは三日前だろうが!!」
「そりゃ悪かった」
「すみませんね、ヘイトバーグさん。このヒトデナシときたら、他人に関心を持つための機能が尽く死んじまってるもので」
「命令違反は貴様もだ、ディノ・トラスト!! 全く、これだから黒軍の連中は……オラッ! 点呼を取るんだからさっさと向こうに並べ!! 今度は遅れるんじゃねぇぞ!!」
ヘイトバーグはガミガミと文句を言いながら整列した兵士の一団の中へ戻っていく。今から昼礼でも始めるつもりだったのだろう。来る途中に軍内規則をアレコレとうるさく聞かされていたのを思い出すが、内容をほとんど覚えていない。なにせそれどころの気分ではなかった。
「早く並ばないとまた怒鳴られるぞ?」
軽口を叩くディノの脛でも蹴ってやるかと後ろを振り返る。
すると……
「……女の子?」
ディノの向こうに広がる雪だらけの景色の中に、一人の真っ白な少女が立っていた。
真っ白な髪、真っ白な肌、真っ白なワンピース。かなりの薄着なのに、凍え震えることもなく静々と立ち尽くしている、不可解な出で立ち。
この街の住民にしても様子がおかしい。その少女が、ふとこちらの視線に気付き、手を振った。まるで「ここにいるよ」と言わんばかりに。
「どうした、ゼウセウトの旦那?」
「いや……向こうに真っ白な服を着た女の子が立っているんだ」
「なんだそれ、オバケか何か?」
そう言ってディノもまた少女の方へ顔を向ける。
「……誰もいないぞ?」
「そんなはずは……」
「雪だるまでも見間違えたんじゃないかい?」
ディノの顔を見ても嘘を吐いている様子はない。本当に彼の目には少女の姿が見えていないようだった。
そんなことがあるのか?
もう一度街の方を見ても、やはりそこには少女が立っていて、変わらず細い手を振っている。
遠くからじっと見つめていると、不意に少女は後ろを振り向き、どこかへ走り出してしまった。
「待て!」
思わずその背を追って走り出す。
「ちょっと旦那さん!? 昼礼どうするつもり!?」
「勝手にしていろ!!」
「もー、困った監視対象だ」
ディノの小言を背中で聞きながら、少女が走り去った方に向かって駆けだしていった。
見知らぬ街、凍った歩道。足元の雪が重たく絡まり、何度も体を倒しそうになりながら小さな背を追いかけた。慣れない雪の上を、懸命に、懸命に。足がもつれ、追いかけるにはあまりに頼りない足取りではあったが、少女は時々立ち止まってこちらを振り向き、「おいでおいで」と手招きしながら待ってくれる。
色のない少女。
『―――、―――、』
頭の中に誰かの、少女の声らしき音が聞こえてくる。言葉になりきれていない声の意図を汲み取ることはできないが、何かを俺に伝えようとしていることだけはよくわかった。
何より俺はこの声を、あの少女を、知っているような気がした。いや、知っているんだ。それがどこで聞いたものか、どこで見たものかを覚えていないだけで。知っている!
「待ってくれ! ―――っ!!」
誰かの名前を大声で呼んだ。それと同時に強烈な耳鳴りが頭の中を引っ掻き回し、自分が何と声を出したのか聞きそびれた。
なぜ名前を知っている? なぜ姿を知っている? あの子は一体、どこの、誰?
雪の上を草原か何かのように軽やかに駆け抜けていく少女。その背中をひたすらに追いかける。深い深い雪の霧が視界をどれだけ遮っても、少女がどこにいて、どこに向かっているのかを感じ取れたから、後を追うことができた。
まるで幻想世界にでも招待されているような、現実離れした追走劇。
その途中で、必死に追いかけていた少女の足がパタリと止まり、くるりとこちらを振り返る。その顔が、表情が、雪の中にハッキリと浮かんで見えた。
目尻の少しつり上がった大きな眼。その白い瞼の間に収まった、青い、青い、美しい青色の瞳。
口元はうっすらと弧を描き、頬をほんのりと赤らめて、とても綺麗に、可憐に、無邪気に微笑むのだ。
あの人に似ている!
そう気付いた途端、少女の姿が吹雪に飛ばされるように一瞬で掻き消えてしまった。
唖然とし、その場で足を止める。
息を切らしながら改めて周りを見回すと、自分が見知らぬ街景色の中に立っていることに気付いた。
軍の仮設キャンプがある街の外縁部ならすでに随分と練り歩いたから知っているはず。だとすればここはまだ立ち入っていなかった中心部だろうか。外縁部で主流だったセメント製の建物とは明らかに趣きの異なる石造りの大型建造物が少ない土地を奪い合うように窮屈に建ち並んでいる。
無骨な石造りの建物に見下ろされながら歩いていると、その中に紛れ込むようにして一つたたずむ小さな塔の姿が目に入った。ほんの三階建て程度の高さで、塔というには物足りない簡素な風貌だったが、俺はその外観に見覚えがあった。
『神女の天翔』 ラムボァードの美術館に展示されていたという、一枚の絵画だ。
実物は知らず、ディアから渡された画像データで見ただけだったが、その絵のことはよく覚えている。
急ぎ足で近付き、塔の外観を眺める。絵で見たものより幾分か小振りでみすぼらしいが、間違いなくこの建物だ。一番上の三階部分の壁から牢獄には相応しくない小さな出窓が付いているのが印象的だったことをよく覚えている。
塔は現在何にも使用されていないようだ。だから入口の扉には鍵がかかっておらず、簡単に中に入ることができた。
廃墟然とした塔の中を探索する。擦り切れてむき出しになった石の床に、干からびて凍り付いた毛皮の絨毯。割れたまま転がっている電球。剥がれ落ちた布の壁紙。換気が悪いじめじめとした空気と、苔むした石から漂う腐った臭いは、あの頃と変わっていない。
あの頃……?
一階には数人が酒を酌み交わせる程度の粗末な机が置いてある。机上には薄っぺらい金属のジョッキと酒瓶が当時のままに放置されていた。酒瓶の中に中途半端に液体が残っているのを見るに、その内帰ってくるつもりだったのだろうか。机の向こうには石に布を巻いただけの硬いベッドが二つあるだけで、他には空っぽの小さな牢屋が一つ。その後ろには二階に続く石造りの階段。
二階へ登ると部屋が二つ。一つは下の階のものと大差無い牢屋で、もう一つは鉄の扉を挟んだ窓の無い部屋。粗末な内装と黒ずんだ床。石に繋がれた太い鎖や、壁に掛けられたままの物騒な得物の数々を見るに、拷問部屋だ。
残るは、三階。そこでなぜか、階段に向かおうとした足が一瞬止まった。しかし気にせず歩きだす。
冷たい石で敷き詰められた階段を一段一段踏みしめながら登っていく。すると登れば登るほど、不気味な既視感が胸の内に沸々と湧き上がってきた。
きっと、ここなのだろう。
期待を抱く感情とは別に、このまま何も得ずに引き返した方が良いのではという不安な気持ちも浮上する。
だが、逃げ帰ってどうする。知らずに納得できるか。過去を持つ人と言葉を交わすならば、己も過去を持たねばならない。せめて自分が何者なのか答えられるくらいには。
最後の段を越え、最上階の床をしっかりと両足で踏む。三階にある部屋は全部で三つ。その全てが牢屋。
階段を上がってすぐ脇にある一室を黒い鉄格子越しに見つめる。石に囲まれた何も無い空間。窓も灯りも無い、誰もいない、誰かに捨てられた小さな部屋。
ここだろうか? いや、違う。
しっかりと閉じられた鉄格子の方へ伸ばしていた左手をスッと引き戻す。そのまま一つ目の牢屋を通り過ぎ、その隣に目をやる。
あの出窓がある牢屋だ。他とほとんど変わらない、がらんどうの内装。それなのに窓があるだけで外からの光が射し込み、部屋全体が明るく華やいでいるように見えた。開け放たれたままの鉄格子の向こうから届く、塔の外を舞う雪の澄んだ香り。白い光の中でチラチラと瞬く土埃。
その前にふとたたずみ、目を見張る。酷く冷たい静寂の中、俺はこの景色を美しいと感じてしまっていた。
「よくもまぁ、おめおめとこの地に顔を出せたものだ。お前の出来損ないな頭の中には『恥』という概念すら存在しないのか?」
突然背後から声が聞こえた。
虚を突かれ、驚きながら振り返ると、階段の前に誰かが立っている。暗がりで姿がほとんど見えないが、掛けられた声の色から察するに成人した男性だ。
……男性? 声? そもそも何故こんなところに人がいるのか。
「……誰だ」
どこかで会ったことがある相手だろうか? 目の前の暗がりに立つ男ではなく、自分に向かって疑問をなげかける。
「わかるわけないだろう? なにせ、何も覚えていないんだ。何度も何度も記憶を無くして、今じゃ自分が何者だったかもわからなくなっているんだろう?」
全てを知ったような口ぶり。人を嘲る傲慢な笑み。
「それなのにお前ときたら、目障りにもほどがある。人の幸福を奪うのがそんなにも楽しいのか?」
だがその声色に不快感はない。むしろ妙にスッキリと、空いていた隙間に収まるように脳の奥の奥へ届いた。
「自覚がなくとも罪は罪。罪には罰を。裁くのは神か、あるいはこの俺か。あの日の仕返しをしようってつもりじゃない。命を奪うつもりもない。だがな、」
まるで、愛しい恋人に囁かれているような……多幸感に溢れた…… 神秘の声。
「俺はお前がだいっキライだ!!」
男の高笑いにも似た罵倒と共に、突如、床が、天井が、塔全体が、音を立てて崩れ始めた。
足場を失った体が宙に投げ出され、瓦礫と共に落下する。
飛び掛かる瓦礫の雨の中、必死に目を凝らすと、その最中、崩れた天井から差し込んだ光が彼の姿をこの目に映し出した。確かに見えた。一瞬だけ、けれどその一瞬で充分だった。
細身で、背もそれほど高くない。すらりとした手足に、黒一色の奇抜な出で立ち。風に靡かない茶褐色の髪。歪んだ笑みを浮かべる性悪そうな口元。そして何より……見慣れすぎた琥珀色の瞳。人の身を越えた赤く鋭い神の瞳孔。
堰を切ったように湧き上がる憤怒と怨嗟の感情が、我が身が落ち行くほんの数秒の時の中、怒涛の熱量をおびて爆発した。
「レトロ・シルヴァ!!」
思い出した。俺も、オマエが大嫌いだった。