記述15 狂王の花嫁 第6節
昇降機の扉が開いた先に広がる地下研究所第三階層のフロアには、昨日行った検査室があった階とは明らかに異なる重苦しく沈んだ空気が充満していた。
様相は奇天烈怪奇。床も、壁も、天井も、目に見える全ての場所が機械で覆い尽くされた奇妙な光景。天井には細かいコードが毛細血管のように絡み合っていて、壁にはいたるところに青い電子画面がチカチカと点滅しながら浮かび上がっている。
無機質な発光ダイオードの白色に照らされた狭い通路の雰囲気は鬱々としていて、上層の明朗な雰囲気を保っていた廊下とは似ても似つかない。壁際にひしめき合っている用途不明の機械からはそれぞれ異なる動作音が漏れ聞こえ、静かな廊下の中で音と音とを絡め合い、歪な旋律を生み出している。
昇降機から一歩踏み出す。不法侵入のような行為に及んでいるはずなのに、警報の一つも鳴らないことに怪しさを感じる。それどころか周囲を見回しても、人の姿が少しも見当たらない。
通路に入ってすぐ左手側にあった扉の先には、無数のモニターを壁一面に張りつけた大掛かりな規模の監視室があった。コックピットのような形状をした座席部分は複数人が同時に画面を操作できるように設計されているが、今は誰も座っていない。モニターには研究所内の各所に設置されているらしいカメラの映像が映ったままだったが、その映像の中にも人影というものはまるで映り込んでいなかった。
監視室の横を通り過ぎ、やけに静かな機械まみれの通路を奥へと進んでいく。
移動する度にカメラと思わしき装置がジジッと虫が鳴くような音をたてながらこちらを向く。監視室には誰も人がいないというのに、カメラだけはしっかりと稼働しているみたいだ。
明らかにおかしいと警戒しつつ、通路の一番奥まで足を進めてみると、曲がり角の先に一つだけ明らかに雰囲気と外観が異なる、不可解な部屋を見つけた。
やたら頑丈に作られた鉄製の入室扉の横には『安静室』と書かれた灰色のプレートが吊るされている。
ここに違いない。そう思い、扉に手を伸ばす。腕にかかる重たい手ごたえとは裏腹に、力を入れるだけですんなりと扉は開いていった。ここにも鍵はかかっていない。
鉄の扉が開くとともに、部屋の中に籠っていた湿っぽい空気が扉の外へ流れ出てきた。重たく静まりかえった室内には照明の一つも灯っていない。まるで暗渠とした闇そのものが固形物と化して空間の真ん中に鎮座しているような、真っ暗闇。
懐から取り出した通信端末のライトを懐中電灯の代わりにして、部屋の中へ足を踏み込んでいく。薬品棚に作業机。使い古した医療機器。病室というよりは実験室に近い雰囲気をもった部屋だ。空気にはきつい薬品の臭いが混ざっていて、息を吸う度に鼻の奥がツンと痛む。
あの王様モドキは本当にここにいるのか?
通信端末のライトを部屋の中央の方へ向ける。何かの液体をまき散らした後みたいな大きな黒い染みがこびり付いた薄緑色の床板。その先に、暗幕のような黒色のカーテンに囲まれた天蓋があった。見た瞬間、彼はあの中にいるのだろうなと、すぐに理解した。
近付き、分厚い黒カーテンの布を掴みあげる。天蓋の中には大型の手術台が一台だけ置かれていた。そしてその上には……人間のような形をした何かが、静かに横たわっていた。
一瞬、自分の心臓の音が止まったような気がした。
途方もないほどの静寂と、時間の停止。
しばらくしてやっと反応を取り戻した脳味噌が、目の前に見えている光景の整理を始める。
ミイラのように干乾びた肌。剥ぎ取られた皮膚。剥き出しになった筋肉。
これは一体なんだ。
赤紫に変色した人間の肉。血管の代わりに通された鉛色の管。隙間から見え隠れする機械仕掛けの骨格。喉や胸に空いた大きな穴。いたるところに埋め込まれた金属板。
全身にくまなく差し込まれた透明なチューブの中を流れていく得体のしれない液体。一つや二つではなく、一つや二つではなく、チューブは部屋中のいたるところ、足の踏み場がないほど乱雑に散乱している。その全てが、彼と、機械との関係を物理的に繋ぎとめているようだった。
はたしてこの人間は生きているのだろうか。頭の中にそんな切実な疑問が浮かび上がってきたところで、
「またお前か」
異形の何かは俺に話しかけてきた。
しわがれてか細いものであったが、その声色は重厚で、聞き慣れたイデアールのものに違いない。ならば、彼は本当にイデアール本人なのだろう。
「わざわざ調整日にやってくるとはご苦労なことだ」
思いの外流暢に言葉を発し始めた男の様子を見て、呆気にとられていたせいで忘れかけていた怒りが胸の内に舞い戻ってきた。
そうだ。今の彼がどんな状況にあろうと関係ない。俺には全く、関係ないことなのだ。
「イデアール・アルレスキュリア。オマエに用があってきた」
「皮肉でも言いに来たか?」
「言わせてもらうのは文句の方だ。オマエ、エッジに一体何をした?」
「はて、何のことか」
「とぼけても無駄だぞ。デニスという世話係の女から、昨日の夜にこの安静室からオマエとエッジの会話が聞こえてきたと聞いた」
「なんだそのことか」
イデアールの穴が空いた喉からヒューヒューと息が漏れる音がする。嗤っているのだろうか。
「私はアレに、レトロ・シルヴァの真実について話しただけだ」
「レトロだと?」
思いがけない人物の名前が出てきたことを怪訝に思う。けれどおかしくはない。イデアールはレトロ・シルヴァという男のことを何かしら知っていて、その真実の一端をエッジに話し聞かせた。そのせいで、エッジはあんなにも心を沈めてしまったのか?
イデアールが言葉を続ける。
「懺悔のようなものだった。己がこの世に生まれ落ち、生を謳歌しようとしたが故に生じてしまった、罪と罰と。それらを嘆き、どこへともない場所へ向けて懇願する。赦してくれと。私は間違っていたと……そうだな、確かにアレは私の足元で涙を流しながら俯いていた。私とアレとが交わした言葉とは、つまるところ、そういう部類のものであった」
アレという呼び様に眉根を寄せる俺の様子などには見向きもせず、イデアールは重く平坦な声色で言葉を続ける。
好き勝手なことを言われているのに、どうにも素直に怒りの感情を露わにできないのは、今の彼が纏っている雰囲気が普段の見知ったそれとまるで異なっているからだ。外見が違うことは見ればわかる。けれど口調や態度までもが、随分と……人間的になっているように見えた。
いつもはあんなにも、この世の全てを妬んでいるような危なっかしい目付きをしているのに。
「回りくどい言い方をして、誤魔化そうとでもしているのか?」
「ソウド。お前には、あの子供が苦悩する理由が何なのか、本気でわかっていないようだな」
「なに?」
名前を呼ばれたことに、一瞬心が反応した。なぜコイツはこんなにも軽い調子で俺の名前を呼ぶのか、初めて会った時にも奇妙に感じたことを思い出した。
「理由……真実……そんなものを誰かに教えてもらおうと必死になることからして、すでに十二分に滑稽なのだ。それは元より、お前の中に備わっていたもの。解き明かすべき謎などではない。なぜならお前は知らないのではなく、覚えていないだけだからだ。あぁ、本当に、無様に落ちぶれたものだな。私なんぞより、よっぽどか」
話をどこまでもはぐらかし、冷笑ばかりするイデアールの態度にいよいよ腹が立った。俺は手術台に乗り上がり、イデアールが着ている手術着の胸倉を掴みあげた。体中に巻き付いていたチューブが揺れ散らばり、静かだった暗幕の中にカラカラと乾いた音を鳴らし散らばる。
「俺の話をしに来たんじゃない。オマエはエッジに酷いことをしたのかと、それだけを聞きにきた」
「したと言ったらどうする」
「オマエの顔を思いきり殴り飛ばす」
「ますますお幸せな脳味噌であることが露見したな。ソウドよ、それであのエッジとかいう名前の子供が救われるとでも思ったか?」
「オマエなんかがエッジの名前を軽々しく呼ぶな」
「ソウドが許さずとも、エッジの方は許すだろうな」
「なんだと?」
「なぜならアレは、私によく似ている。希望ばかりにすがる愚かな性分も、美しいと尊重したがるものの種類も、乾きを潤すために欲するもののかたちも、手に取るようにわかる。それをアレもまた同じ。よく理解している。だからこそ、この薄汚い死にぞこないの老人に甲斐甲斐しく付き従ったりするのだ。他でもない、次は我が身という恐れの感情が赴くがままにな」
掴みあげて引き寄せたイデアールの、赤黒く爛れた顔面の左半分が歪に軋む。嗤っている。嘲っている。今回は私の勝ちだとでも言いたげに、色のない虚ろな眼差しを俺に向けて喜んでいる。
それが無性に腹立たしくて仕方なかった。
「わからないか。わからないだろうな。ならば聞かせてやろうか、ソウド・ゼウセウト。あのエッジという名の子供はな、お前という存在に恐怖を感じているのだ。それは出会った時からずっと、ずっと変わらず。だからこそオマエは、アレから大事なことなど一つも教えてもらえないでいる。エッジには、そうだな、お前に真実を知られるだけの勇気というものが、まるで足りていない」
恐怖。
その言葉は、俺の煮え滾った心の中にすんなりと入り込み、気になって仕方なかった疑問という鍵穴の中に、すっぽりと『答え』として収まってしまった。
俺はエッジに、怖がられていた。
「アレはバケモノだぞ、ソウドよ」
言葉が出なかった。イデアールがまた何かを言おうとしているが、少しも頭の中に入ってこなかった。
怒りのために熱く火照っていた体温が、冷や水をかけられたように急激に低下していく。
「あの子供は、この世界を容易に滅ぼすだけの力を持った、邪心のサナギ。その証拠として、ヤツはもう何十年もの間、老いも死にもせず、たった独りでこの世界を彷徨い続けている。そしてそれはまた、お前も同じだ。
いいか、ソウドよ。私はさっき、昨日の真夜中にエッジとあの大罪人についての話をしたと言ったな。だが逆に、エッジの方は私に何を聞かせたと思う。教えてやろう。アレは自分がいつ、ソウド・ゼウセウトという異形の怪物と出会い、別れたか、その一部始終を告白するための話をしたのだ。それで勝手に涙を流し、さめざめとすすり泣き始めた。
もちろんついこの間の出会い話などではない。四十年と少し前、牢獄の街バスティリヤで初めて顔を合わせた時の話だ。その出会い以来な……ソウドよ、貴様はすっかり壊れてしまった。私なんぞよりよっぽど酷く、深く、凄惨に。
だから、なぁ。今のお前はこの世界を恨んでいる。深く、深く、根深く、妬み、憤り、嫌悪している。それでいい。お前の在り方はそれでいい。それでこそ終焉は近づいてくるというもの。今もまさに、この世は滅びに向かって着実に時を進めている。
現人神は死に、神はこの世を見捨てたもうた。繁栄を止めた世界は行き先を失い、神の呪いを受けながらも暴れ、浮浪し、世界の寿命は加速する。大気は汚れ、海は淀み、大地は干からび、生物は等しく死に絶える。爛々と光り照る太陽のみが神の怒りそのもののように世界を焼き付くさんと輝き続けていることこそが、その証だ」
薄い金属板で出来た瞼をゆっくりと閉じ、イデアールは静かに語る。
「私は世界が美しかった頃の記憶を持っている。誰一人覚えてはいない、愛すべき世界、失われた世界。私は、今のこの世界が憎らしくて仕方がない。嫌いで、嫌いで、それで何故……生きなければならないのだろうか」
再び瞼を開け、イデアールは海中の底のように深く沈んだ青色の瞳で、俺を見据える。
「ソウド……お前が世界を滅ぼしてくれる日を、楽しみにしているぞ」
ぐちゃぐちゃに干からびた頬を引き、ニヤリと歪な歯を見せて笑った。
「イデアール……?」
「あぁ……すまないな、ソウドよ。もう少しお前と話をしたかったが、気が遠くなってきおる。もう夜も深いことだ、麻酔が切れる前に眠ることにする。また、会おうか……そして……あぁ、お前がまだ性懲りもなく、あの可哀想な子供に手を差し伸べたいと、今でも本気で思えるのならば……全てのことの始まりであるバスティリヤに行けば良い。何か思い出せてしまえるやもしれないな」
そうたどたどしい口調で言い残し、イデアールは再び金属板の瞼を閉じた。それ以降は顔の皺一つも動かなくなり、本当に、ただの死骸のようになってしまう。
後には、すっかりと温度を失ってしまった怒りだけが虚空の中に浮かんでいるだけ。
好き勝手にべらべらと言葉だけ残して、勝手に息を引き取るように眠りやがった。
そうは思いつつも、もはや怒るに怒れない。
少なくとも、彼は俺よりもエッジのことをよく知っていた。それはきっと、本当なのだ。
ならば、なんだ? 俺はどうすればいい?
掴みあげたままだったイデアールの胸倉から手を離し、手術台から一歩足を退かせるようにして離れる。靴の裏で踏みつけたチューブが、ぐちゃり、と嫌な音をたてて潰れた。
部屋の中は相変わらず真っ暗で、いつの間にか手放していた通信端末は手術台の上に転がって、付けっぱなしのライトをあらぬ方向へ向けている。端末をひったくるように拾い上げ、俺は暗幕を力一杯引いて天蓋の外へ出ていった。振り返ったりなどはしない。あんなわけのわからない男の顔なんて見たくもない。
開いたままであった扉の前まで引き返し、そこでふと、入室扉のすぐ脇にあった薬品棚の中に、一つだけ明らかに異質なデザインをした写真立てが飾られているのを見つけた。
草花をモチーフとした可愛らしい装飾で縁取られた、手の平ほどの大きさをした写真立て。そこには氷水晶のような美しい髪に、深い水の底を思わせる青い瞳の少女の写真が入っていた。
そう、驚く程そっくりな。
眼、鼻、顔かたち。髪の色、肌の色、優し気な微笑み方の一部始終まで、そっくりそのまま、彼と同じ。
ただ少し、瞳の色と、女性であるということだけが違っている。違っている。なのに、一緒なのだ。
それを見て俺はまた言葉を失った。途方もないほどやるせない感情が体の内側から湧き上がって来て、目の前が真っ暗になるような心地がした。
『バスティリヤに行けば良い』
さっき聞いたばかりのイデアールの言葉が頭の中を反響する。
自分だけが何も知らない。
どうしようもない現実を、まじまじと目の前に突き付けられている気分でいっぱいになる。
エッジは知っていた。イデアールは知っていた。ならば俺はどうしたらいい。
そんな、ひどく情けのない疑問を胸の内に抱えたまま、俺は真っ暗な安静室の中を後にした。