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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述15 狂王の花嫁
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記述15 狂王の花嫁 第5節

 一晩が経ち、日が暮れた頃になってから、エッジが待っている部屋の扉をノックした。コンコンッと小気味が良い音を二つ鳴らしてから少し待つと、ドアノブが回り、扉がゆっくりと開いていった。開いた扉の間から、一日ぶりに会うエッジが顔を出す。

「わざわざ来てくれてありがとう、ソウド。昨日はせっかく検査に付き合ってくれていたのに、悪いことをしてしまった」

「謝罪なら昨日のうちに受けてるぞ。もう気にすることじゃない」

 エッジは「ありがとう」とまた感謝の返事を短く繰り返すと、立ち話では悪いからと俺に部屋の中へ入るように促した。

 中へ入ると、天蓋付きの豪勢なベッドの横にテーブルセットが置かれているのが目に入る。とりあえずこの椅子に座ればいいのかと思い、確認をとるためにエッジの方を振り返った。すると、エッジは開いたままの扉の前で、ドアノブを握りしめたままぼんやりと立ち尽くしていた。

「どうしたんだ?」

 声をかけられたエッジがゆっくりとこちらを振り返る。

「すまない、考え事をしてしまっていた」

「それなら椅子に座ってからにした方がいい」

 立ち止まっていたエッジの側へ近寄り、彼の腕をそっと引く。掴んだ腕は肩からぶらさがっているだけのように力が抜けていて、どうしたのかと心配になった。エッジの顔を見る。すると俺の顔を真っ直ぐに見つめていたエッジの瞳と視線が重なり合った。

 そこから二人とも微動だにせず、見つめ合ったまま黙り込んでいると、不意に、エッジの大きな琥珀色の瞳から、ほろりと一滴の雫がこぼれ落ちた。

「エッジ?」

 沈黙を破り、名前を呼ぶと、エッジは我に返った様子で目元に白い指を伸ばす。自分が泣いていることに気付いたらしく、慌てて涙を拭う。けれど拭ったそばから、また新しい涙がぽろぽろと頬のうえをつたって流れ落ちていく。

 俺はポケットからハンカチを取り出し、エッジの代わりに顔についた涙を拭き取ってやった。

「とりあえず座ろう」

 震え始めたエッジの手を取り、一緒に部屋の中を少しだけ移動する。ベッドの側まで連れてくると、エッジはそのままの流れでベッドの縁に腰をかけた。

 それからもう一度開いたままの扉の方へ移動して、扉を閉じる。あの様子では誰かが入って来てはまずいんじゃないかと思ったので、念のために鍵も閉めておいた。

 エッジはベッドの縁に腰掛けたまま、またぼんやりと虚空を見つめている。

 俺はテーブルの方から椅子を一つ持ってきて、エッジの正面から少しずれた場所に配置した。濡れたハンカチを彼の膝の上に置くと、エッジはそれを握りしめて、もう一度両の瞳から涙を流し始めた。

 椅子に腰かけ、エッジの涙が落ち着くまで傍で待つ。

 嗚咽の一つも聞こえてこない静かな涙だった。

 不躾に顔ばかり見つめていては悪いと思い、向ける場所に迷った視線が窓の方へ向かう。カーテンが半分だけ開いたままになっていた窓の外には雪が降り始めていた。耳をすませば壁の向こうからは風の吹く音も聞こえてくる。今晩は大雪になるのだろう。

「気を遣わせてしまって、すまない」

 長い長い時間の後に、エッジがぽそりと小さな声で呟いた。

 気を遣っているのはそっちの方だろうとは、心の中だけで思うことにした。

「何かあったんだろう? 無理に聞いたりする気はないが、エッジが話したいっていうなら、最後までちゃんと聞いてやる。ゆっくりでも良い」

「ありがとう」

 エッジの声はか細く震えている。ハンカチの端で涙を拭い、再び顔を伏せる。拭い損ねた涙が膝の上に落ちて、小さな丸い染みを作った。

 エッジは何かを言おうと口を微かに動かし、けれど上手く声が出せず、また口を閉ざすことを繰り返した。

 沈黙が長く続いた。窓の外で降る雪の勢いが徐々に強くなっていく。時間が流れ、夜が深まり、室内の気温がいくらか下がってきたような気がした。部屋には古びたガスストーブが一台置かれていたけれど、ここへ来た時からずっと火は灯っていない。

「寒くないか?」

 エッジは小さく首を横に振ったが、薄い部屋着に上着の一枚も羽織っていない姿では説得力が無い。ひざ掛けの一つでも置いてないかと部屋の中を見回したが、すぐに目に付く場所には見当たらなかった。

 ならば仕方ないと思い、俺は椅子から立ち上がってエッジの側へ近付いた。

 エッジの肩にそっと手を触れると、やっぱり冷たくなってしまっている。

「無理をするなと言っただろ」

 そう言って俺は、エッジの体を腕の中に抱き上げ、ベッドの上へ横たわらせた。柔らかい羽根布団と暖かい毛布とを被せ、子供をあやすように手の平でトントンと叩く。

 赤く染まったエッジの瞳が、俺の顔を上目遣いに見つめている。この城へ来る前の彼ならば簡単には見せてくれなかったであろう、力なく弱り切った表情だ。それがまるで幼い子供のように見えて、とても切なく、辛い気持ちが胸の内から込み上げてきた。

 どうしてこんなに優しい人が、涙を流さなくてはいけないのだろう。

 理由が気になって仕方ないのは、その原因を突き止めて、解決してやりたいと思ってしまうからだ。けれど今の弱り切ったエッジの口から何かを聞き出そうとするのは、とてもよろしくない。今はただ、辛い言葉など口に出さず、静かに休んでいてほしかった。

「ソウド……」

 重ねた毛布の隙間から、エッジの震える手がはみ出して、俺の服の裾を掴んだ。その手を取って、自分の右手の上に重ねる。冷え切った指先の温度を少しでも自分の中の熱で温められたら、どれだけ良いかと思った。

「ごめんな、ソウド……話さなきゃいけないことがたくさんあったのに、俺は……」

「いいんだよ。今日じゃなくたって、構わない。また明日の夜もここへ来るから。その次の夜も……だから、今は安心して休んでくれ。なんなら、子守歌の一つでも歌ってやって構わないぞ」

 冗談を言ってみたところで、今のエッジには笑い返す力が残っていなかった。こぼれるのは笑い声ではなく、涙ばかり。

「どうしようもないな、俺は……お前に優しくされてしまうと、すぐに胸がいっぱいになって、何もできなくなってしまう。これでは、あの頃と同じだ……」

「あの頃?」

「…………ごめん……今のは、やっぱり聞かなかったことにしてくれ」

 重ねられていた手の平が宙へ離れ、まだ冷たいままだったエッジの左手が遠ざかる。赤い眼の上に白い瞼が覆いかぶさり、その目尻にできた薄い隙間をまた一滴の涙が流れ落ちていった。

 それからエッジは一言も言葉を発さず、まるで呼吸をしていないかのように静かにベッドの上に横たわり続けた。眠りもせず、動きもせず、ただそこに横になっているだけ。心の安らぎからは縁遠く、顔はすっかり青ざめ、頬の憂いはいつまでたっても乾かない。

 愚かな俺が、エッジの心が休まらない理由が、傍に自分がいるせいだと気付いたのは随分時間が経ってからのことだった。

 窓の外は真っ暗で、降雪はますますと勢いを増していき、風が吹く度にガタガタと窓枠が揺れて音をたてた。俺はベッドの横で座り込んでいた体をやっと立ちあがらせて、少しばかり落ち着かない調子で部屋の中を歩き、半開きだったカーテンを全て閉めた。それからずっと明々と照っていたままだった部屋の明かりを消し、最後にもう一度エッジのいるベッドの方を振り返ってから、なるべく音を鳴らさないように、ゆっくりと扉を閉めた。

 部屋を出る。

 すると途端に、空気が変わる。

 風通しの良い廊下の空気は部屋の中より冷え込んでいるはずなのに、少しも寒さを感じなかった。

 どうしてこんなことになったのか。

 ドアノブを握りしめたままでいた手の平に自然と力が入り、金具が軋む音が鳴る。その些細な音の一つすら腹立たしく感じられた。

 そして踵を返し、エッジが眠る部屋の扉に背を向けて歩き出す。

 すると廊下の突き当りまできたところで、ちょうどよく一人の執事服の男が曲がり角の奥から姿を現わした。男は俺を見た途端に小さな声を上げて驚いたが、すぐに「失礼しました」と頭を下げてそそくさに立ち去ろうとした。その腕を掴み、無理矢理立ち止まらせる。

「デニスという侍女はまだ起きているか?」

「ひっ! は、はいっ。この時間なら恐らく、侍女部屋で机仕事をしている頃かと」

「わかった」

 掴んでいた腕を離し、振り向かずに侍女部屋の方へ向かう。城の見取り図ならば頭に入っているから迷うことは無い。最短ルートで長い廊下を移動し、回廊を渡って別棟へ入り、侍女部屋の扉を叩く。

「デニスはいるか」

 こんな夜分遅くに何事か。そう言いたげな表情で扉を開けた見習い侍女は、部屋の外に立つ俺の姿を見た途端にすぐさま部屋の中へ引っ込んでいった。侍女部屋の中から「デニス様、デニス様!」と慌ただしく先輩を呼び寄せる声が聞こえてきて、まもなくしてまた扉が開き、今度はデニス本人が顔を出す。

「ぜ、ゼウセウト様! このような時間に、どういったご用件で……」

「昨日の夜、それか今日の日中だな。何かあっただろ」

「えっと、何か……というと……」

「知ってることを話せ」

 しばしの沈黙。その後に、デニスは観念した様子で告白する。

「その………………昨日の夜、イデアール様がお休みになられている地下研究所の安静室から、誰かの……すすり泣くような声が聞こえて……」

 

 始めはどうせイデアールのものだろうと思ったが、よくよく聞いてみると声が違う。

 その後に、イデアールの声も聞こえてきた。初めて耳にするゆったりとした口調で「お前は本当に、何も知らなかったんだな」と、誰かを嘲っているようだった。

 

「そ、それ以外は何もっ、何も知りませんからね!」

 全て話し終えたデニスは俺から逃げるように距離を取り、侍女部屋の奥へ引っ込んでいってしまった。

 何も言わず部屋の扉を閉める。手にはまた自然に力が入っていたようで、閉じた扉がドシンと大きな音をたてた。


「あのイデアールとかいう男がエッジに何かをした」


 頭の中を埋め尽くしていた仮定が確信に変わる。

 俺はまた部屋の扉に背を向け、今度は地下研究所へ続く昇降路の方へと足を進めていった。


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