記述15 狂王の花嫁 第4節
古風な佇まいをした王城の地下に街一つ分にも匹敵するほどの面積を誇る巨大な研究施設が展開しているなんて、誰が想像できるだろうか。メタリックな銀色の柱と光沢のあるグレーの壁板。神経質に磨きあげられたフロアタイル。そこら中の壁に設置された電光掲示板。真っ白な蛍光灯の照明に照らされた明るい研究所の様子は、陰気で後ろめたい実験ばかりを繰り返しているだろうという当初の想像とは正反対の印象を受けるものであった。それこそ火を付けるためにマッチ棒を使っている地上の日常と比べたら、別世界のように思えて仕方ない。
白衣の研究員たちが忙しなく行き交う長い廊下と、その脇に等間隔に並ぶ実験室へ続く扉。壁の向こうから聞こえてくる静かな機械の駆動音、空調のファン。かすかに香る薬品の臭い。
そういった研究所内の光景を手持ち無沙汰に遠目に見物しながら「エッジは今頃何をしているのだろう」と考える。バタリと音をたてて閉じたきり、一度も開く様子が見られない検査室の扉を見つめていた視線が、あてもなく宙を彷徨う。嫌なことを言われていないだろうか。本当に検査だけで済むのだろうか。妙な実験に付き合わされてはいないだろうか。想像を巡らせてみたところで不安と心配の気持ちしか浮かんでこない。不毛に思って考えるのをやめたところで、暇な時間が消滅してくれたりはしない。
侍女のデニスに案内されてこの地下研究所にやってきてから、すでに一時間が経過した。検査が終わるまでには時間がかかると聞かされていたため待ちぼうけをする心構えはできていたのだが、実際に待ち始めてみると心配すること以外にやることがなくて困ってしまう。
できれば検査室の前からは離れたくなかったのだが、この先何時間あるかわからない待ち時間中、ずっと何もせずに立っているのもどうかと、一時間が経過した今になってやっと思い直した。
とはいえ研究所という特殊な施設の中を無関係な自分が好き勝手に歩いて良い気もせず、迷いながら廊下を歩いていると、検査室からそれほど離れていない場所に『ラウンジルーム』と書かれた部屋を見つけた。こんなものまで用意されているのかと感心しつつ、結局俺はエッジが出てくるまでの残りの待ち時間をこの部屋の中で過ごすことを選んだ。
シンプルで機能的なデザインのソファが並ぶラウンジルームには、研究員たちが休憩時に利用するための各種設備が整っていた。ボタンを押せば勝手に飲み物が出てくるドリンクサーバーの横には本棚もあって、棚の上には様々なタイトルの論文書、雑誌、新聞が並んでいる。時間つぶしになると思い、その内の一つである新聞を手に取ってみると、一面に載せられた『次期国王はイデアール・アルレスキュリアで確実』などという不愉快な文字と顔写真とを目にしてしまった。新聞を棚に戻し、代わりに一つ上の段に並んでいたフィールドワークの書物を手に取り、近くのソファに腰掛けた。
そうして好き勝手にくつろいでいると、他に誰もいなかった静かなラウンジに、一人の年老いた研究員が入ってきた。
研究員は先客がいることに気付くと、俺へ向けて深々と頭を下げてドリンクサーバーの方へ向かっていった。何かを察したのだろうか、気をつかってくれた彼はサーバーから二つ分のお茶を取り出し、その内の一つを俺が座るソファの前のローテーブルに無言で置いていった。それから少し離れた席で読み途中だったらしい論文書のページを開く。
けれどいくらか時間が経ったところで、その研究員もラウンジから出て行ってしまった。
エッジが検査室から出てくる様子はまだない。
検査室の扉が開いたのはかなりの時間が経過した後のことだった。けれど部屋の中から出てきたのはデニス一人だけで、エッジの姿はどこにもない。デニスは結局部屋の前で待つことにしていた俺の姿を見て、「まだ時間がかかりそうです」と、口にしづらそうに言葉を述べた。俺はそんな彼女の表情があまり明るいものではないことに疑心を感じた。
「まさか、何かあったんじゃないだろうな?」
「いいえ……あの、検査自体は順調?でして……ですがその、結果があまりよいものではなくて、それで」
「それで?」
「こ、これっ! 手紙を! エッジ様から手紙を預かってきたので、ゼウセウト様に!」
デニスは手に持っていた四つ折りの紙きれを俺に向けて差し出す。それを受け取り、中を開いてみると、そこには走り書きではあるが几帳面にまっすぐ並んだ文字が書き込まれていた。エッジの字と同じだ。
手紙の文面は、長い時間外で待っていてもらっていたことへの感謝と謝罪の話から始まっていた。その後には、検査の結果があまり良いものではなかったこと、追加の検査が入ってしまったために今日はもう検査室の中で夜を過ごすことになりそうであること。だからソウドは先に自室に帰って休んでいてくれて構わない。
最後には『もしよければ、明日の夜に会って話がしたい』という約束の時間と場所が書かれていた。
どうしたものかと考えながら、手紙から目を離すと、怯えたような表情のデニスと目が合った。
「あのあのっ、すみません!」
「なんでオマエが謝るんだ」
そう言うとデニスは口を一文字に引き締めて黙り込む。なんでオマエが謝る。彼女に八つ当たりして何になるんだと、自分で言った言葉を心の中で反復する。
なぜだろう。手紙を読み終わった瞬間から、苛立ちの感情が胸の奥からにじみ出てきて、うまく平常を装えない。待ち時間の間に何度も反復して考えていた不安が的中してしまったせいだろうか、はたまた単純に、あれだけいつも健気にがんばっているエッジが「一人になりたい」と言い始めるほど落ち込むことが起きてしまったことに理不尽を感じているからだろうか。
自分の怒りの謎と向き合うためにしばしの間黙り込んでいると、目の前でずっと何かを言いたそうな顔をしていたデニスが、ついに口を開いて何かを問いかけてきた。
「……ゼウセウト様は、エッジ様の不調についてご存知だったのでしょうか」
質問の意味が、一瞬本当にわからなかった。
「なんのことだ?」
「精神疾患の話です」
デニスは言う。検査の過程で行ったカウンセリングの結果、エッジには精神面に健康上の問題があるとの診断がされた。精神名。気分とパーソナリティ、感情コントロール、強迫観念。
それは例えば、憂鬱な気分がいつまでも続いたり、人との関わりに過剰の恐怖心や不安を感じたり、必要以上に自分のことを責めたり後ろめたく思ったり。そういった症状が物心ついた頃からずっと続いていた。
エッジにとっては当たり前のことすぎて、全く自覚がなかったらしいが、現代の医療科学の目から見れば立派な精神病患者である。
精神疾患、特に気分に関わるものだけに限定すれば、ウィルダム大陸で生きる人間ならば八人に一人というほどありふれた症状だ。しかし、数が多いからといって深刻でないわけではなく、重症化すると寝たきりになったり、自分を強く責めすぎて自傷行為に走ったりすることがあり、最悪の場合自らの手で命を絶ってしまうまでにいたる。治療するには投薬と療養が必要であるが、その両方を十分に満たせる患者は多くないため、結果としてアルレスキュリア人の自殺率は極めて高いものになっている。今話しているデニスも、過去にこの病気によって友人を複数人失っている。エッジにはその内の一人になってほしくない。
「誰かが傍にいて支えてあげなければいけない病気なんです。独りでは苦しいから……大丈夫だよ、と安心させてくれる人が必要です。でも、私はエッジ様とは出会ったばかりですし、結局のところ仕事で付き添っているだけの立場にあります。なので、できればゼウセウト様に、その役割を担っていただきたいのです」
「……エッジは、今独りなのか?」
「まだ検査の途中です」
今にも手の中で握りつぶしそうになっていた手紙を折りたたみなおし、ポケットにしまう。話を聞いている最中、俺の視線はデニスから検査室のドアの方へ自然と流れていっていた。
唖然とした気持ちでいっぱいだ。
「あのっ……それと、エッジ様には他にも……えっと…………私の口からは、とても言えない検査結果が出ていました。エッジ様はそのことを自分からゼウセウト様に伝えようと考えているようでした。そちらの手紙に書かれていた約束も、その話をするためのものだと思います」
「……そうか。教えてくれてありがとう。明日の夜、時間を空けておくから、今はしっかり休んでいろと、エッジに伝えておいてくれ」
「かしこまりました。あの、ゼウセウト様、これからお帰りでしたら、昇降機の位置はわかりますか? 地下研究所は複雑な構造をしていますので、希望がありましたら地上まで案内いたします」
「大丈夫だ。オマエにも他にやることがあるんだろう」
「かしこまりました。では、私はまた検査室の方へ戻りますね」
デニスは少し落ち着かない様子で俺の前から一歩離れ、頭を深々と下げてから検査室の中へ戻っていく。
後には呆然と立ち尽くした自分だけが残っていた。