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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
伝承0 それでも神話は生誕するのか
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讃美歌と祝福

 空は見慣れない色をしていた。それは世界に光が満ちている証拠だと、彼以外の誰かが言っていた。見渡す限りに広がる真っ平な大地には、見たことがないくらい鮮やかな色を付けた若草が、どこまでも、どこまでも、地平線の彼方まで生い茂っている。

 草原の真ん中、世界の端っこ。

 彼はそんなところをポツリと独りで歩いていた。

 雨上がりの空に浮かぶ、小さく千切れた雲の群れは、甘ったるい香りを帯びた花弁たちと共にそよ風に吹かれ、流され、遠くへ消えていく。風は彼の頬を撫で、彼の髪をサラサラと遊ぶように揺らしながら去っていく。

 長く伸びた前髪の間から、真っ赤に腫れた二つの瞳が光を浴びて輝いた。眩しそうに眼を細め、どこでもない地平線の彼方だけを真っすぐに見つめていた。


「何も無いな」

 彼は呟いた。

 

 踏みしめた大地の上に生える小さな草花の芽吹き。遠い空の果てから聞こえてくる小鳥たちの歌声。生きとし生ける全てのもののために溶けて消えた、氷山から流れ落ちる雪どけ水の冷たいせせらぎ。

 そういった素晴らしいものの一つ一つを、見つけられずにいるわけではない。美しいとすら思っていた。けれどもそこには、どうしようもないほどに大きな虚しさがあった。得たものより、失ったものの方が多かったからだ。奪われたというのならば、なおのこと辛かろう。

 

 彼は苦しいのだ。苦しめたのは私なのだ。

 

 それでも……嘆き悲しみながらでも、彼は前へ進もうとする。

 だからこそ彼は今も歩き続けている。それもまた美しいことだと思っていた。私には、ついぞできやしなかった。

 

 彼は歩いた。どこへともなく歩き続けた。行きたい場所なんてどこにもなくても、歩き続けた。

 何を求めているかすらわからないのに、毎日毎日、日が暮れても、朝が来ても、いつもいつまでも歩き続けた。

 どれだけの時が過ぎただろう。その間にも世界は色を変え、形を変え、金色の太陽の光と共に彼の行く道を照らし続けた。

 彼が足を止めるのは、歩き疲れて一歩も動けなくなった時だけだ。けれど空腹を満たす果実の成る木を前にしても、喉を潤す湧き水の傍を通っても、人の住む家屋が目に入っても、「やはり何も無かった」と意地を張る。まるで読めない文字で書かれた看板と鉢合わせてしまった時のように、眉をひそめ、目を逸らす。そうやって無理矢理にでも見なかったことにしながら、一人旅のようなものを続けていた。


 一度だけ、後ろから何かが倒れる音がして、歩いてきた道を振り返ったことがある。

 振り返った所で、やはり何も無い。道標の看板は遠いどこかへ消えていた。

 

 彼は歩く。周囲がどれだけ景色を変えても、歩き続ける。それが彼の罪滅ぼし。

 朝を迎え、夜を迎え、いつしか草原はどこかへ消え失せ、石畳の道、鉄板の床、赤い血だまりなどの上を歩くようになっていった。

 世界は鮮やかに劇的に変貌していく。そんな中で彼一人が変わらぬ歩みを続けていた。

 変わりたいと思ったことはある。だからこその罪滅ぼし。

 苦しみが欲しかったと彼は言う。悲しみを抱いていたかったと彼は言う。時が経てば経つほど安らぐ怒りを失わぬよう、かさぶたを剥がしては傷口を抉ることを繰り返していたいと彼は言う。

 あぁ、なんて惨め、なんて虚しい、なんてひもじい。

 この魂には罪があり、罰が必要なのだと彼の全てが叫びたがっていた。


「それはオマエたちだって同じなはずだ」

 

 どれだけ月日が流れようとも、どれだけ景色が移り変わろうとも、失ったものが二度と帰らないというのならば、失ったものに愛されることも、赦されることも二度と無い。失うとはそういうこと。奪うとはそういうこと。

 だから、罪。だから、罰。

 忘れること、忘れないこと、はたしてどちらが優良であっただろうか?

 結局彼は、その命の終わりまで、己の内に芽生えた罪の意識から目を逸らすことができなかった。最期まで、自分を責め続けていた。

 私が彼に殺されることを望んた時、彼は全てを赦さずにいることを約束してくれた。その選択の果てに、どれだけの苦悩が待っていようと、全て受け入れ、命の終わりまで背負い続けると口にした。彼が私にただの一つの嘘も吐けないことを、私は誰よりも知っていた。その誠実さを利用した。私は、やはり卑怯者だったのだろう。

 罪滅びしのためだけに生きる日々の中、時が経つほどに摩耗していくのは、理性だったという。いつの頃からか、彼は全てを恨むだけの悪しき怪物へと変異してしまう。彼を見て、彼を語り継ごうとした人々は口々に言う。

『あれは邪悪に堕ちた偉大なるものの、成れの果てだ』

 今となってはもう、彼が怒り続ける理由を知るものは一人もいない。

 

 

「あの人の笑顔を覚えているのは俺だけで、あの人の心からの願いを伝えられたのも俺だけだった」

 

 

 覚えている。この矮小な魂の真ん中に、今も深く深く刻み込まれている。

 眼を閉じれば思い出す。灰色の空の下に広がる物語。

 いつだって陰鬱に湿っていた曇天の空。殺風景な不毛の大荒野。

 嘆き。苦しみ。血と涙。怨嗟の入り混じる人間どもの断末魔。


 私は幸せになれなかった。あなたを幸せにすることもできなかった。


 みんながみんな、この物語を『悲劇』と読んでいる。


 私と過ごした日々には苦痛しかなかっただろう。

 それでも、あなたに出会えて良かった……なんて言ってもらいたい。

 

「ああ、もちろん! もちろんだとも!」

 

「こんなにも辛くて息もできないくらい苦しいのに、いつまで経ってもこの思い出を手放すことができないのは、遠い記憶の中で寂しげに微笑むオマエの横顔を、その向こう側に映り込む世界の広がりを、『美しい』と思っているからだ!」

 

「俺は生きる墓石に成り果ててでも、オマエの過去の全てを語り継いでいこう。オマエの輝きを、オマエの正しさを、オマエの願いを、祈りを、悲哀を、不幸な結末を、いつまでも忘れずに生きていこう。俺自身の無念と共に」


 本当はもう気付いているんだろう。そんな生き方は不毛だと。

 彼にとって変化は恐怖でしかない。忘却は浄化であり、虚無と孤独は幸福への導きに変わっていく。時が経つほどに、彼は怒りを忘れていく。

 彼は自らの幸福を不誠実だと拒むだろう。それなのに呼吸するほど、体の奥へ澄んだ空気が染み渡っていく。嫌なことぜんぶ、ぜんぶ、みんなみんな、忘れていいよと優しく諭す。摩耗した心をゆるく浅く蝕んで、正しさのもとに創り変えようとする。

 あなたはもう、変わってしまっている。


「そんなことは認めない」


 あなたは私のいない世界でも生きていける。


「見捨てないでくれ。見捨てたくないんだ」


 あなたなら大丈夫。

 

 

 あなたが私の愛した世界に憧れたことと同じように、私はあなたと共に生きられたからこそ、世界を美しいと信じられたのだから。

 

 

『あなたが生きるこの世界が、今日も明日も明後日も、変わらず美しくありますように』

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