その3-麺処夏野-
『夏野・涼菜麺』
カラフルな絵文字で描かれたその名と、画面一杯に映る山盛りの野菜の画像を眼にした瞬間、ゴクリと喉が鳴ったのを今でも憶えている。
この日、ラーメンブロガーの僕は、新ネタ探すべくネットを徘徊していた。そこで見つけたのがこのページだった。
「野菜の主張がすごいな」
思わず声が漏れた。
名前から察するに冷やし麺だろうか。薄茶の大きな丼に、色とりどりの夏野菜がこぼれんばかりに盛り付けられている。
それも冷やし中華のような細切りではなく、大振りのざく切りだ。
トマトは不揃い、胡瓜は手でちぎったように見える。コーンは粒々ではなく削ぎ切りした塊、オクラも茗荷も丸のままだ。
一見すると乱雑なようだが、野菜各々の個性ときらめきを存分に引き出す手際は、明らかに意図的なもの。
鮮烈で、無骨で、やんちゃで、おしゃれ。女性的ではない、言わば男性アイドルのような魅力を投げかけてくる。
出汁も野菜のみ。肉や魚介を使わないのは物足りないかと一瞬思ったが、玉葱や芋などの根菜に加えセロリ、アスパラなど香り高い野菜をふんだんに使うことで、パンチのあるスープに仕上げてあるとのこと。
麺は自家製の手打ち、素材は全て地元産らしい。
地元?
改めて店舗紹介に眼を通してみる。
店の名は『麺処夏野』。画面には山里の古民家が写っていた。
さて地元とはどこだろうと案内図を見て、唸った。予想通り、というか予想をこえる山奥だ。
いちおう関東ではあるが、その北端に位置する又木町という、聞いたことのない町。そこの夏野地区という土地で、有志が集まり地元振興のため古民家を改装して、この春オープンしたらしい。なるほど、そういうコンセプトか。
ルート検索すると、東京からはJRの幹線で一時間半ののち、支線に乗り継いで一時間、さらに私鉄ローカル線の終点まで二時間揺られて、最後は徒歩で10km。自然保護区のため、自動車の乗り入れは不可とのこと。
うーむ、これは……。
行くしかないな。ラーメンブロガーの血が騒ぐぜ。
盆休の初日、僕は始発電車に乗って北を目指した。
電車の乗り継ぎもさることながら、最後の10kmは山道もあるちょっとしたハイキングだ。軽装ながら山歩き用の装備も身に付けていた。
早朝のためJR線はガラガラだったが、ローカル線に乗り継いでから乗客が増えてきた。始発駅だったので座ることは出来たが、次第に混雑していく車内に田舎の風景を楽しむことも出来ず、仕方がないので眠ることにした。
終点の又木駅に着き、やれやれと腰をさすりながら外に出た僕は、そこで信じられない光景を目にした。
「な、なんだこれ……」
そこにあったのは、田舎の終着駅とは思えないほどの人混みと、駅前広場を折り重なるように連なる果てしない長蛇の列。先の方を眼で追うと、遠くの山へと向かう田舎道を一直線に続いていた。
僕は嫌な予感に襲われながら、近くの人に訊ねた。
「すみません、この行列って」
「ああ、夏野だよ。あんたも行くの?」
「ええ、はい」
するとその男性は僕の姿をジロジロと見た後、まあいいかと頭を掻いた。
「頑張ってね、無理しないように」
「はあ……」
男性と別れ、さてどこへ並べばいいのかと辺りを見回すと、100mほど先に『最後尾』と書かれたプラカードが見えた。
「ここが最後尾ですか」
「あ、はい」
若い女性からプラカードを受け取り、代わって掲げる。
「すごい行列ですね。初めて来ましたけど、いつもこうなんですか?」
「そうですね、私は五回目ですけど」
「へー、五回も。よほど美味しいんですね」
すると彼女はなぜか、視線をそらした。
「ええ、たぶん」
「たぶん?」
「実は私、まだ食べたことないんです。いつも途中で諦めちゃって」
「えーっ」
会話の間にも人は増え、僕達の後ろにも長い列が出来ていた。プラカードは次々と人の手を渡り、すぐに見えなくなった。
「お店までいったい何時間かかるんでしょうね」
「ごめんなさい、私最後までいたことなくて」
「ああそうでしたね、すみません。でも今日は一緒に頑張りましょう」
「はい、よろしくお願いします」
笑顔が眩しい。名は美咲ちゃんという、僕より二歳下の大学生だった。
行列は遅々として進まず炎天下の田舎道は死ぬほど暑かったが、彼女との会話は楽しく辛さも紛れた。
それに道沿いには屋台が立ち並び、飲み物やかき氷などでいくらでも渇きを癒すことが出来たのだ。
というより、屋台はお祭り会場のように沿道を埋め尽くしていた。しかも焼きそばやたこ焼、土産物に野菜に服やアクセサリーまで売っている。
「何というか、商魂たくましいな」
「それどころじゃないですよ。あれ、気付きました?」
美咲ちゃんが指さす方を見ると、畑道に沢山の車が列をなして停まっている。その多くが県外ナンバーのようだ。
なるほど、山には入れないからここから歩くんだなと納得しかけた直後、その光景の異様さに気付いた。なんと、そこに停められている数百台もの車の全てに、黄色い駐禁ステッカーが貼られていたのだ。
見れば数人の警察官らしき人が、ステッカーの束を手に次々とやって来る自動車を細いあぜ道に誘導している。車が停まるとペタリとステッカーを貼るが、降りてきたドライバーと揉めるような様子は見られなかった。
ひょっとして皆さん、反則金と減点を駐車料金と割り切ってるってこと?
僕はふとサイトにあった文章を思い浮かべ、なるほどこれも「地域振興」かとうなずいた。
三時間ほどかかって、ようやく山の入口にたどり着いた。
「ふう、木陰は涼しいですね。私、ここまで来たの初めてです」
「そうですか、もう半分くらいは来たはずだから頑張りましょう」
「はいっ」
だがそこからが問題だった。
既に正午を過ぎているが、相変わらず歩みは遅い。そのうえ100mほど進んだところで急に空に雲がかかり始め、辺りが暗くなった思ったら土砂降りになってしまった。
幸い雨はすぐに止んだが、傘など役にも立たず二人ともずぶ濡れになってしまった。
「美咲ちゃん、大丈夫?」
「うん、平気」
山道は次第に狭く傾斜もきつくなってきた。前も後ろも果てしない人の列、みな無言で歩いている。
このあたりにはもう屋台もない。山に入る前に飲物とカロリーバー(呆れたことに屋台で売っていた)をしこたま買い込んだのは正解だった。
暫くすると、吊橋のかかった谷に出た。
橋は板張りで、並んで歩けるほどの幅はない。それなりの強度はあるようだが、なんとも頼りない感じだ。
前方の人達は、数人ずつ間隔を開けて順番に渡っている。
「どうする?」
「怖いけど頑張る。隆さん、離さないでね」
手を繋ぎ、ギシギシと音を立てる橋板を踏みしめ、慎重に進んで何とか渡り切った。
ホッとして、笑みを交わす。さて行くかと前を向き手を離そうとしたら、美咲ちゃんは逆に強く握り返してきた。
思わず振り返ると、熱くうるんだ目でじっと僕を見つめてくる。僕も手に力を込めて応えると、腕を抱え込むように体を寄せてきた。
「行こうか」
「うん」
その時だ。
「おい押すな!」
「馬鹿、順番を守れ!」
「揺らさないで!」
後方で突然沸き起こった騒ぎ声。橋が大きく揺れ、乗っている十人ほどの人は綱や底板にしがみついていた。
吊り綱は大きくたわみ、支柱が根元からグラグラと揺らいでいる。
「危ない!」
「橋から離れろ!」
「キャーッ!」
次の瞬間、橋は大勢の悲鳴と共に谷底へ崩れ落ちて行った。
谷の両側に残された人々は、目の前で起きた惨劇を、ただ呆然と見送ることしか出来なかった。
「救助を呼べ! 警察に連絡しろ!」
「だめだ、圏外だ!」
「おい、どうするんだ。戻れなくなっちゃったぞ」
周囲に動揺が走る。
谷の向こう側でも騒ぎが起こっている。だがそのうちの幾人かが、麓に向かって走り出すのが見えた。
「仕方がない、ここは後方の人達に任せるとしよう」
「じゃあ我々は」
「進むしかないだろう」
僕と美咲ちゃんも、手を繋いだまま皆の後について進み始めた。
だが相変わらず列の歩みは遅く、足取りはさらに重くなっていく。やがて陽が沈み、人々は道端に座り込む。
「隆さん」
「大丈夫、君は僕が守る」
暗闇の中、震える肩を抱き寄せると、美咲ちゃんは夢中でしがみついてきた。
すすり泣く彼女の唇は、とても温かかった。
翌朝、人々は再び歩き始める。
だが暫く進むと、崖崩れで道がなくなっていた。
前方の人達は立ち停まることなく、山の中に向かって進んでいる。僕達も続いて山に入った。
どこまで続くとも知れぬ、道なき道。虫は多く、樹上から山蛭も降ってくる。
猪が、熊が、雀蜂が人々を襲う。
人々は逃げ惑い、あるいは糧を得ようと果敢に挑みかかる。
手持ちの食料や水はとうに尽きた。僕達に残されているのは、前に進みたいという、その意志だけ。
陽は沈み、また昇る。
あれから何日経っただろう。
麺処夏野には、まだ着かない。