k01-03 雷帝と麗氷と・2
「――ふんっ、仲良しこよし。まるで初等グレードの学級会じゃな」
低くドスの効いた声。
振り返ると、新しい生活に胸膨らませる私の気分を一瞬にしてかき消すような、冷たく威圧的な目で私を見下す大柄の老人が立っていた。
……マスター・クアィエン。
随分とお酒を飲んでいるのか、顔が赤く紅潮している。
「まったく、最近の魔工学界隈はどうにかしておる。戦争も知らんようなこんな小娘を持ち上げて"美人すぎる女性マスター"だと? まったく平和ボケも良い所じゃ」
そう言って、カルーナ・ファミリアの面々を嗤笑するように見渡す。
あまりにも横柄な態度に何か言い返そうとするけれども、百戦錬磨の"雷帝"と呼ばれたその迫力に気圧され皆思わず目を逸らす。
「あら、マスター・クァイエン。平和ボケも良いじゃないですか」
それとなく、私達とクァイエンの間に割って入ってくれるマスター。
「戦争の殺し合いで無益に消費していた人的リソースを、建設的な研究に向けられるのが"平和"という事ですから。私達がこうして平和に過ごす事ができるのも、あなた方歴戦の勇士のお陰です。私は感謝していますよ」
涼しい微笑みを浮かべ、クァイエンの脅しなんて意にも介さないといった余裕。さすが"麗氷"の二つ名を持つだけの事はあるわ。
「……ふん、口だけは達者なようじゃの。まぁせいぜい精進せい」
「お気遣い心入ります」
そう言ってドレスの裾をつまみお辞儀をするマスター。
踵を返しその場を去るクァイエン。
その場に居た全員がホッと肩をなでおろす。
――ところが、次の瞬間とんでもない事が起きる
「マスター! 飲み物、飲み物!! もぉ、慌てて頬張るからですよ!」
声が聞こえてすぐ傍のテーブルを見ると、食べ物を喉に詰まらたらしく胸元を抑えて涙を浮かべているマスター・ジン。
彼のために離れたテーブルから、飲み物を持って小走りで戻ってきたアイネが――急に踵を返したマスター・クァイエンとぶつかる。
「キャ!」
アイネの持っていた飲み物がグラスから少し零れ、クァイエンの礼服のズボンに小さなシミを付けた。
「あっ!! ご、ごめんなさい!! 大変、シミになっちゃう!」
そう言ってハンカチを取り出すと、しゃがみ込んで慌ててクァイエンのズボンを拭き出すアイネ。
「……」
黙ったまま表情1つ変えずただ前を見つめるクァイエン。
その様子に、周りの誰もが戦慄しピクリとも動けない。
場の空気が完全に凍りつく。
「ど、どうしよう……中々落ちない」
一生懸命に何度も拭くアイネ。
やがて、クァイエンが近くのテーブルにあったぶどうジュースのピッチャーを音も無く手に取る。
こめかみに血管を浮かせ、固まった表情のまま静かにピッチャーを掲げる。
そして――
「――キャァ!!」
足元にしゃがみ込むアイネの頭に向け、ピッチャーの中身を一気にぶちまけた!
「……いかんいかん、飲みすぎたか。手が滑った」
何が起きたのか分からず、ビショビショのままポカンとクァイエンを見上げるアイネ。
薄青色のドレスが飲み物の色で紫に染まる。
「おい、あんた! あんまりだろ! ぶつかったのは悪かったが謝ったじゃねぇか!」
ようやくのどに詰まらせた食べ物を飲み込んだのか、駆け寄って来たマスター・ジンがクァイエンに詰め寄りその胸倉を掴む!
……けれど、さすが”雷帝"と呼ばれキプロポリス中にその名を轟かせた歴戦の戦士。
身長190センチ近くのある筋骨隆々の老兵は、眉の1つも動かすことなく掴みかかる腕を締め上げ、片手でそのまま軽々と投げ飛ばす。
ジンは成す術もなく倒れ込み、アイネのすぐ横に転がされる。
そんな2人を見下し、クァイエンが言い放つ。
「情けでテイルに置いて貰っておる"大罪人"風情が。このような場に出てこようなどと思う事自体がおこがましいわ。身の程をしれぃ!」
「て、てめぇ……!」
立ち上り再びクァイエンに向かって行こうとするジン。
その腕をアイネがさっと掴み、力強く引っ張る。
「マスター! 大丈夫です。私の不注意ですから」
俯くアイネの髪から飲み物がポタポタと滴っている。
「でも、お前!? 言われっぱなしでいいのかよ!? それに、そのドレス。大事な一張羅だって言ってたじゃねぇか」
「マスター!! せっかくのおめでたい場ですから、やめましょう。ね?」
そう言って顔を上げるアイネ。
怖いのか、悔しいのか……震える手を必死に堪えて精一杯の笑顔を作っている。
鋭い睨みを利かせたまま、無言で立ち去るクァイエン。
その視界に入らないよう誰もが慌てて道を開ける。
マスター・ジンの言う通り、この場に居た全員がさすがにやり過ぎだとは思ってるはず。
だけど、テイルの実力者と大罪人……あまりにも分が悪すぎる。
誰も何も言わず、見て見ぬふりをして会場は徐々に元の賑わいへと戻っていく。
「……おい、大丈夫か?」
立ち上がり、アイネに手を差し伸べるジン。
「……はい! あ、これお酒みたいです! 酔っぱらっちゃいそうだから私帰って着替えますね」
その手を取り立ち上がるアイネ。
……下手なウソ。ワインがピッチャーで置かれてる訳ないじゃない。
「家まで送るぞ」
「いえ、せっかくですからマスターは最後まで楽しんでください! 私のせいで変な空気にしちゃってごめんなさい」
誰に、と言う訳でもなく会場に向かって一礼するアイネ。
……勿論誰も気にも留めていない。
ジンの手をそっと振りほどいて独り会場を後にする。
ホテルの従業員が何事も無かったように淡々と床の掃除を始める。
その頃には会場はすっかり元通りの活気を取り戻していた。
なんだろう……皆にとっては、酔っぱらった爺さんが躓いた道端の石ころを怒鳴りながら蹴飛ばした程度の事なんだろうか。
あの子は……私の幼馴染は石ころ以下の存在なんだろうか……
それをただ見て見ぬふりしている私は、ここに居る他の人達と一緒なのか……
そんな考えがグルグルと頭の中を巡り、その後の事はあまり覚えていない。