消えたページの行方
私が私宛に記した日記。それは開いてはいけないパンドラの箱だった。
「あぁ、まただ...」
この感情は一体何なんだろう。
懐かしくて、幸せで、とても心が満たされるのに、どこか寂しくて、切なくて、胸が苦しい。
大都市に聳え立つ高層マンションの巨大な窓から、その向こうに無限に広がる漆黒の空が次第に赤みを帯びて明るみ始める様子を見つめながら、私はベッドの上で小さな吐息を漏らした。
最近、なぜか夜明けと共に目が覚める。そして上手く表現できない不明瞭な気分に浸りながら、こうしてぼんやりと過ごすのだ。
これも俗にいうマリッジブルーの一種なんだろうか?
私は隣で安らかな寝息を立てている秀人の頰に触れると、そっと彼に体を寄せた。
私はもうすぐこの人と結婚する。不安も不満も何一つないはずなのにーーー。
「おはよう、愛!また眠れなかったの?」
職員証をゲートにかざして、ビルの8階にあるクリニックのスタッフルームに入ると、すでに出勤していた同僚の真由がコーヒー片手に私を見てクスクスと笑う。
「あぁ、おはよう真由。んー、なんかまた明け方に目が覚めちゃってね...」
ここ最近、毎日のようにこのやりとりをしている気がする。
それにしても、顔を見るなり笑いたくなってしまうほど、私は朝から酷い顔をしてるんだろうか。
自分で自分の顔を確かめるように頰をなぞる私に、真由はまた笑った。
「何か思い詰めた顔してる。結婚式のプログラムのこと?それともまだドレス選びで悩んでるとか?まさか年下でイケメンの、しかも結構稼いでる秀人を捕まえたってのに、不満だとか言い出さないよね?!」
「まさか!悩みとか不安とか不満とか、そうゆうのがある訳じゃないよ!でもなんでか毎日夜明けと共に目が覚めちゃうんだよね。何かすごく長い夢を見てた気がするんだけど、それがどんな夢だったか全く思い出せなくて。ただ...」
「ただ?」
「あ、ううん、何でもない...」
ただ、私は何か忘れてはいけないこと、忘れたくないとても大切な事を忘れてしまっているような気がする。でもそう思い始めたのはここ最近の話ではない。もっと、ずっと前からだ。
たぶん10ヶ月前の事故の後遺症なんだろう。
あれは雨の降る夜の出来事だった。
私はなぜか酷く慌てていて、街灯がまばらにしかない暗くて細い住宅街の路地裏を、傘も差さずにどこかへ向かって必死に走っていた。
次第に雨脚は強まり、遂にはまともに目を開けていられない程になった。滝のような雨が地面を激しく叩きつける音で、全てが掻き消されてしまう。視覚も聴覚もまともに機能しない状態で、それでも私は勘だけを頼りに無我夢中で走り続けた。
そうこうしているうちに大通りへ出てしまったらしい。
気付いた時には耳を劈くような甲高いクラクションの音と眩い限りのヘッドライトの光の中にいて、それと同時に身体にものすごい衝撃が走った。
“こうやって人は死んで行くのか——”
人生で初めて宙を舞いながら、そんな事を思ったのが最後の記憶だ。
それから1週間、私は昏睡状態だったらしい。
目覚めた時は妙な気分だった。長い眠りから覚めたというより、まるで一週間分の記憶を切りとられたような感覚だった。
例えて言うなら、日々の出来事が詳細に書かれた日記のある部分が滲んでいたり、虫に食われて穴があいていたり、字が汚くて読めなかったりするのではなく、数ページが丸々切りとられてしまったような感じだ。
それも初めから無かったかのように上手く切り取ってくれれば気付かないのに、明らかに切り取った痕跡があったとしたら、誰だってそこに書いてあったものが何だったのか気になるに違いない。
私はまさにそんな感じだった。
私の人生を記した分厚い日記から消えてしまったページ。そこに書かれていたものが何だったのか気になって仕方がないのに、思い出すヒントになるようなものが何も無くてもどかしい。
そんなモヤモヤとした感じが10ヶ月も続いているのだ。
だけど主治医の長谷川先生曰く、通常の眠りではなく昏睡状態という特殊な状態から目覚めたのだから、いつもと違う感覚に陥っても何ら不思議ではないのだそうだ。
脳に異常は見られず、事故以前の記憶もしっかりあるから気にする事はない、よくある事なんだ、と何度も時間をかけて説明をしてくれた。
だけどそれが私の中のモヤを晴らしてくれることはなく、無理にそうゆうものなんだと納得するしかなかった。
「愛?大丈夫?」
背後から真由の心配そうな声がしてハッと我に返った。
どうやら私はスタッフルームのど真ん中に突っ立ったまま、随分長いこと放心していたらしい。
「あぁ、うん、大丈夫。」
「やだもう、まだ半分眠ってるんじゃないの?仕方ないなぁ、コーヒー半分分けてあげるよ。ほら、マイカップ出して!」
真由が心配半分、呆れ半分の顔で私の私物入れを指差すので、本当はコーヒーはいつまでも口の中に香りが残る気がしてあまり好きではないのだけど、なんだか断れずに渋々巾着からマイカップを取り出した。
可愛げもない、キャンプ場なんかでよく見かけるアルミ製のコップだ。
「ねぇ?このコップってさ、全然愛っぽくないよね。お洒落でキレイめの愛がさ、まさかこんなアウトドア感が半端ないアルミ製のコップを愛用してるとは誰も想像しないよね。」
そう言って笑いながら、カフェでテイクアウトしたコーヒーを半分注いでくれる。
「確かに私の趣味ではないよね。でもこれを見た時に何だか無性に惹かれてちゃって、即買いしたんだ。そうゆうのってない?」
「分かる!分かるよ!ね、私のこのスマホケース見て?ヤバくない?センスの欠片もないデザインだなって思ったんだけど、なんかこのブッサイクな猫の柄に無性に惹かれてさ。高いのに思わず買っちゃったんだよねー!」
「え??これ猫なの?豚でしょ?!」
「酷っ!流石に豚ではないでしょ!!」
「えー?どう見ても豚だよ、豚ー!」
こんな風に笑い転げているうちに、いつも消えたページの事を忘れている。
そうやって大人しく忘れていれば良かったんだ。
切り取られたページには、切り取らなければならない理由があったのだろうから。