鶴の恩送り
私は今、山の中にいる。
生業としては、渡り鳥と風景をメインにしているカメラマンで、今の若い人に言って分かるかなぁ?
喜劇も悲劇も演じられる俳優の、昔のドラマの作品と同じ職業と言えるだろう。
妻も娘もいる身だが、今追っている鳥は寒い時期にお目にかかる為、半ば単身赴任のように泊まり込む日が多かった。
「今年もオファーが来て良かった」
年々予算が削られ、その分色々な分野に手を出さなければならないのが現状だ。
日本がまだ元気な時代なら、北海道から沖縄まで遊びまわる若者達がいただろう。
夏にはマリンスポーツ・冬にはスキーなど、まさにサーフ天国スノー天国だ。
「こういう事言っているから、『うざい』って言われるんだろうな」
幸い、妻との関係は良好である。
『亭主元気で留守がいい』を地でいく仕事柄、残った妻と娘は友達みたいな関係を築いていた。
小さい頃病弱だった娘は、今は高校の陸上部に所属している。
たまに帰ると娘からは、「少しは走れば?」と言われてしまうくらい不健康な体をしていた。
正直、寄る年波には敵わない。今も完全防備で、撮影スポットに同化するように息を殺していた。
地元の人には『猟友会の縄張りもあるから気をつけなさい』と言われているが、近年ではタチの悪い人も増えているらしい。
この仕事は山を含めて、自然との共生関係を結ばないといけない。
猟友会の人が間引くのが仕事なら、俺の仕事は……。
雪が残る山は、色々なものを覆い隠してしまう。
すぐそこでは、樹々に積もった雪が重たそうに枝をしならせていた。
近くには小さな水場があり、そこに渡り鳥が飛来してくるはずなんだけど……。
静けさの中、いきなり大きな影が上空を過った。群れが飛び去った瞬間だった。
「ハァ……。すぐに撮れるとは思っていないが、タイミングってもんがあるだろう」
一旦仕切り直しと、水場の方へ向かった。
すると一羽の鶴が、バサバサと暴れながら飛び立とうとしていた。
しかし、それが叶うことはないだろう。
これがタチの悪いと言われているものの正体だと分かったからだ。
カメラの師匠からは、あるがままに撮影しろと口を酸っぱくして教えられていた。
戦場カメラマンとして名を馳せた師匠は、何度も『この仕事をするには覚悟が必要だ』と言っていた。
激戦地に赴く師匠とは違って、風景を切り取る私には無縁のことだと思っていた。
しかし、この現状はどうしたものか? この罠猟を見る限り、違法なものだとすぐに分かった。
「師匠、不出来な弟子と笑ってくれますか? 戦場で悲しみと笑顔を切り取ることは出来そうにないです」
身の回りの邪魔なものを下ろし、その上にカメラを乗せる。
こちらに気付いて警戒する鶴に向かい、私は武器など持っていませんと無駄なアピールをする。
この後、救出するまでに、かなりの労力と鶴からの攻撃を受けた。
間近で撮影出来る機会もあったのに、その姿を一枚も撮ることはなかった。
フラフラと飛び立つ鶴を眺めながら、それもまた良いのかなと一人考えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ねえ、今日は棒高跳びの先輩が来るんだって」
「え? それってうちの卒業生?」
「そうだよ。ということは、国体で優秀な成績を収めた……」
「はーい、集合。アップは終わったな?」
「「「「「はい!」」」」」
ここは放課後の校庭で、多くの運動部が目標に向けて頑張っていた。
幼い頃は病弱だった私も、今では『棒高跳び』で陸上部の一員として張り切っている。
うちの家系は、目標が見つかると一直線に向かうタイプのようで、『走り幅跳び』から徐々に空へ空へと向かうようになっていた。
「今日はこの学校の卒業生でもある、鶴崎が指導に来てくれた。鶴崎、自己紹介を!」
「はい、先生。みなさん初めまして、OGの鶴崎です。今日は、かわいい後輩の頑張りを見にきました」
「はいみんな、拍手!」
みんな体育座りで、自己紹介を聞いている。
鶴崎先輩を下から見上げると、陸上をするのに相応しいプロポーションをしていた。
スレンダーな体に見えて、カモシカのような脚。
カモシカは見たことがないけれど、絶対そうだと言えると思う。
走る際に邪魔になる髪もギリギリの長さで一つに束ね、デモンストレーションの一本は、まるで時が止まったようにも感じた。
一つ気になったのは、左足首に巻かれているサポーターのようなもの。
いつかは『あんなジャンプがしてみたい』と思える、目標の一人であり完成形でもあった。
簡単な自己紹介は早々に終わった。
声を掛けられたら学年と名前・得意種目を言うことになり、それぞれの競技ごとに分かれて行った。
鶴崎先輩は一言で言うとオールラウンダーで、短距離でも長距離でも何でも卒なくこなしていく。
それは理論に裏打ちされた技術でもあり、『走り幅跳び』でさえ美しく思えるものだった。
「ほら、そこ。ぼさっと見ていないで、練習を続けろ!」
「先生、鶴崎先輩を見たいんですが……」
「気持ちは分かるぞ。だがな、俺の指導が無意味だと思うとな……」
「先生、そんなことは……ない……と思うような……?」
「そこ、断定してくれ!」
他の競技と違って、陸上部は一本ごとの集中力がものを言うスポーツだ。
だから普段は和気あいあいとしていて、この雰囲気がとても好きだった。
そして、とうとう鶴崎先輩が、『棒高跳び』のゾーンに入ってきた!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一人ずつ飛んで一言アドバイスを貰った後、『棒高跳び』グループのミーティングになった。
今回は鶴崎先輩が来ているので、主に質問会となっている。
突然の来訪だったので、質問を考える時間もなかった。
だから、『どうしたら高く飛べますか?』とか『普段、何を食べていますか?』とか『美容の秘訣は?』という、当たり障りのない質問ばかりがさっきから飛び交っていた。
そして、私の番が来た。一瞬だけ、左足首に目が行ってしまう。
「気になる……かな?」
「あ、いえ。……はい」
「貴女も記録を伸ばしたいタイプなの?」
「はい。でも、さっき友達が聞いたのと一緒の質問になっちゃうので」
「正直、私に翼があったなら、高さなんて気にしなかったと思うな」
「それは鶴崎先輩が、優秀な選手だからです。あっ……」
「ふふ、ありがとう。この足のはね。一種のお呪いなの」
「怪我ではないんですか」
「怪我はしたわ。でも、その時に助けてくれる人がいたの」
鶴崎先輩は、静かに語りだした。
それは多くの質問を総括したような回答だったと思う。
「地面を踏みしめ高く舞い上がった時、私達には翼が生えるの。それは一瞬かもしれない。でもね、そこには多くの羽根が集まっていることを決して忘れないで」
「羽根……ですか?」
「今日食べた朝ごはんを覚えてる? 起きた時の、朝陽のまぶしさは?」
「日頃の感謝……って事でしょうか?」
「うんうん、何でも良いの。その何気ない感動・喜びを力に変えられることが出来たなら、飛び立つ力に変わるよ」
「鶴崎先輩! ありがとうございます」
「「「「「ありがとうございます!」」」」」
「それって、カッコイイ彼氏を捕まえる力にも変わりますか?」
グループ内が一瞬のうちに、爆笑の渦に巻き込まれる。
最後に質問したのは、ムードメーカーの親友だった。
病弱だった私には、明るい日差しの下で運動が出来ること自体奇跡だった。
言葉の持つ重みで言えば、鶴崎先輩には敵わないだろう。
でも、いつの日か記録を出し、鶴崎先輩のように『空の素晴らしさと毎日の美しさ』を伝えたい。
そこでふと、父の職業を思い出した。
今度帰ってきたら、父に鶴崎先輩の教えを一番に伝えようと思う。