願い叶えば
たぶん私はこのまま流され続けていくのだろう。
最期まで、ずっと。
物語でよくあるような、いわゆる、前世というものを、私は憶えている。
前世の私は、私ではないようで、私となんとなく波長が合うような感じの男の人。夢でときどき断片的に見るそれは、とても生き生きとしていて、今の私ではとても考えられないような、生き方。
自由で、強くて、楽しくて、努力もいっぱいして、仲間もいて。
外の世界を目一杯楽しんでいる、そんなヒト。
それと比べて、今の私はどうなのだろう。
ずっとずっと流され続けてきた。
そして、これからもきっとそうであり続けるのだろう。
女に生まれて、普通の家族に恵まれて、飢えずに、ただただ言われた通りのことだけをして生きていく。
しあわせかと訊かれたら、しあわせだと答えなければならないと、想う。
平穏な生活で、苦しみはない。
小さな悩みはたくさんあるが、命の危険はない。
こんな生活、欲しいと願うヒトは、たくさんいるだろう。
ひとつ、可笑しいのは、現実感がない、ということだけ。
まるで、夢の中を漂っているよう。
私は、今を生きているのだろうか。
今日は、お見合いの日である。
良いおヒトを、親が見つけてきてくれたらしい。
念入りにお化粧をして、綺麗なお着物を着て。髪を結い上げ、大きなおりぼんで結ぶ。鏡を見返すのは、何年も何度も見てきた自分の顔。歳相応にかわいくて、綺麗で。
私は今までどんな顔で笑っていたのだろう。
ほら、また、これだ。
ときどき、自分がわからなくなる。
自分だけじゃない。親や友人、知識さえも、あいまいに、靄に包まれて感じる。
いや、わかってはいるのだ。たぶん。おそらく。
でも、それを意図的に想い出そうとすると、途端にわからなくなる。
なぜなのだろう。
そんな風にぼんやり考えていたら、お見合い先のお家に着いたようだ。
大きくて立派な家だ。
もしも、このお見合いが上手くいったら、私がこのお家を取りし切らなければならないのだろうか。いや、違うのだろう。こういうお家は、他所からきたお嫁さんは、ただのお人形になる。程のいい働き手が増えるだけなのだろう。
歩き辛い履き物で、静々とお手伝いさんと想われる方の案内に着いていく。
後ろで優しい両親が緊張しているのを感じる。
こんな立派な縁、どこで見つけてきたのだろうか。私なんかのために、なにか無理をさせてしまっていたのなら、申し訳ない。感謝の心を持って、あとでお礼を言おう。
こちらのお席に着いて、お待ちください。と言われて、お手伝いさんのような方はいなくなってしまった。
磨き上げられた背の低い木製の卓。座り心地の良い長椅子。
両親に挟まれるように座る。
慣れない靴のせいで、足に違和感がある。靴擦れを起こしていないと良いのだが。
親子水入らずの空間に、少々緊張が解けかかった頃合い、正面の扉から声がかかった。
開かれて、そこにおわすは私のお見合い相手。
これまた立派なお家に似合う、立派な男のヒトだ。
どんなヒトかと訊かれたら、目と鼻と口が付いています、としか答えられない。といいますか、あまりヒトの造詣には興味がわかない。さらに言えば、ヒトの顔を憶えるのは苦手である。
もっさりとお髭をたくわえた相手の父親。一部の隙もなくきっちりとした装いの相手の母親。その両親に似合わず、穏やかな雰囲気を漂わせたお見合い相手。
お相手は、トオム という名前だそうで。
その自己紹介に、私は、ツキ と申します。と返した。
決まり文句のような返答を、お互いの両親がし合い、あとは若いおふたりで。と、残されてしまった。
私の人生に一度か二度あるかないかの場面でも、やはり現実感がない、と薄っすらと想いながら。トオムと名乗った相手を見遣る。
相手は口を動かして、これまた決まり文句を言ったようだった。
私はふたりでそのお綺麗で立派なお庭を散策することになった。
お庭は綺麗だった。池には色鮮やかな魚が優雅に我が物顔で泳いでいたところが、特に印象的だった。
転ばないように。変な返答をしないように。そんなことばかり考えてトオムのあとについていった。
いろんなことを訊かれた気がする。
私は、答えるべき答えを口にした。
この世を探せば、きっと、私が言ったことがそのまま載っている模範的な返答集が見つかるであろうと想われる。
こんな私は、つまらない。つまらないと想われて、このお見合いは終わる。
そして、このお見合いは流れて、身の丈にあった良縁に恵まれるだろう。もしくは、一生独身か。優しい家族と暮らしていくのは何の問題もない。うちには家を継ぐ予定の弟もいる。就職ができるならば、ひとりで暮らすのも良い。
これまで通り、我を出すでもなく、相手が求める答えをそのまま言う。
我もなにも、そんなものはないのだから。
ふと気がつくと、お見合いは無事に終わり、帰りの帰路についていた。靴擦れはしていなかったようだ。
両親は満足気な様子で。私は両親に、ありがとうと言った。
両親の笑顔は、いいものだ。
今、私はきっと、このふたりに似た笑顔を浮かべているはずだ。
どうだ。私だって笑っている。どんな顔で笑っているのかなんて、わかりきっている。今の顔がそれだ。鏡を見れば、きっとそれがうつしだされる。なにも心配はない。
弟が、おかえり、と言って、家族の帰りを喜ぶ。
ただいま、と返し、私は着飾ったものを丁寧に外す。
顔を洗えば、鏡にうつるのは、いつもの私。
私はさっき、どんな顔で笑っていたのだろう。
想い出せない。
でも、想い出せないのが普通なのだ。だれだって、自分の笑った顔なんて、見たことがないはずなのだから。
そうでしょう。
鏡の中の自分はなにも答えてくれなかった。
数日後、あちらから、正式な婚約の申し込みがあった。
私のなにが良かったのだろうか、とても不思議に想ったのだが、きっと、なにも悪いところがなかったところなのだろうと、解釈して、その婚約に了承した。
家族はみな喜んだ。
その笑顔を見れた私も喜んだ。
私が、入籍できる年齢になったら、式を挙げようと言われた。
はい。と答えた。
友人たちは、皆口々に、おめでとう、と言う。
その言葉に、ありがとう、と返すのも、慣れてきた。
羨ましいと妬まれて、意地悪をされた。どうすれば良いかわからず、戸惑っていたら、いつの間にか止んだ。
そんなこんなで、毎日を曖昧にぼんやりと過ごしていたら、とうとう結婚の日がきた。
この日まで、お相手のトオムさんとは、何度も会ってきた。お茶をしたり、お出かけをしたり、お家にお邪魔させていただいたり。
顔を合わすのも、お話しをするのも、慣れたとは想う。
しかし、ちまたに言う、恋愛感情とやらは、未ださっぱりだ。情がわいてるかどうかもわからない。
そもそも、私は私の感情がいまひとつわからない。
家族や友人の笑顔を見ると、心が落ち着いたり軽やかになったりするが、その他の感情、哀しみや怒りなどは、今世を何年も生きているが、わからない。
夢で見る、前世の自分はどうやってあんな風に泣いたり笑ったり怒ったりしているのだろうか。
両親からは、昔から表情がわかりにくい子だと言われ続けている。
友人にも言われる。
表情筋が仕事を放棄しているのだろうか。それとも、私がなにも感じていないから表すべき表情がないのだろうか。
後者であると、自分では考えている。
今は式を挙げる準備をしている。
緊張もしていない。期待も不安も感じない。ただ、流れていくだけ。
重たい衣装を着させてもらい。そわそわとしている母に、化粧をしてもらって。
綺麗だ。綺麗になったね。そんな言葉を、私を見て幸福そうな顔でお祝いしてくれる身内に、感謝の言葉を言う。
鏡の中の私は、とても綺麗だ。
私は鏡の私を見慣れているので、自分の造詣の良し悪しはわかる。
今日は一段と美しい自分だ。
浮ついている周囲を見ると、私でさえも嬉しいような気がする。
私はココにいていいのだろうか。
悪い癖だと想う。
ふわふわとした心地に、酔いそうだ。
私がココにいないとしたら、だれがココにいるのだろうというのだ。
一応、今日の主役は私であろうに。
皆が待っている。
花嫁姿の私を。
式は厳かに進み、私は、今日初めて、きっちりと正装をした、夫となる相手と顔を合わせる。
綺麗な私を見て、トオムは、ハッと目を見開く。
そして、笑顔になった。
ああ、私は、今、トオムさんの笑顔を見て、心が動いた。
たぶん、私にとって、トオムさんは、家族や友人たちと同列くらいには大切な存在になっているのだろうということを、今、この場で、やっとわかった。
おそらく、この目の前のヒトとは、家族になれるだろう。
そのことがわかったので、私はやはり今まで通りに、流されていける。
自身の感情が少しくらいわからなくとも、生きていけるだろう。
このヒトの笑顔を見て、私は、私を保つだろう。
私はきっとココにいていいはずだ。
目を瞑ったら、掻き消えてしまいそうな、この現実で。
私は存在する。
ぼんやりとすることは多いだろうが。ふわふわと地に足をつけることが難しいだろうが。
きっと、生きれる、はず、なのだから。
私の生活は少し変わった。寝て起きる場所が、あの大きなお家になった。
お手伝いさんたちもたくさん住んでいて、気をぬくと迷子になりそうになる。
義父母とは、今のところは良好な関係であると想われる。
お手伝いさんたちに教わりながら、大きなお家に慣れていく。池の綺麗な魚さんとも友だちになった。
以前と同じく、小さな悩みは絶えないが、何事もなく、日常は過ぎていく。
少々手こずったのが、夫との夜のほうの生活だ。あれはいろいろと難しい。私はどうも、感覚が鈍いようで、私の反応を一々気にしてくださるトオムさんは、試行錯誤を繰り返してがんばっていたようだった。正解の反応をだれにも教われなかった私も試行錯誤をして、今ではまあまあ円滑に進めることができるようになった。
前世で男だったはずで、それなりに恋愛経験があるようだった私は、どうやっていたのだろうか、視点が変わるとなかなか判断しづらい。
感覚が鈍いというか、よくわからない、というのが当たりだ。
痛みなども感じにくく、子どもの頃、怪我をしても泣かずに偉い偉い言われたが、なぜ他の子が泣くのか理解ができなかった。いいや、痛みはわかる。痛覚はちゃんとある。でも、それを認識する部分が靄がかっているのだ。
今でも、料理中に包丁で指を誤って切ってしまったとき、痛いということが想い浮かばない。ああ、だれかに叱られるかもしれない、血を止めなければならない、料理に混入させるのは危ないことだ、などと考えるだけ。
また、痛みだけではなく、触覚、聴覚、視覚、嗅覚、味覚、これら五感すべてが、他人よりも鈍いと想われる。なにか専門機関で測ったわけではないが、私にはそのように感じられる。
たとえば、だれかに名前を呼ばれるとする。そのとき、聴覚で聞き取って、返事をしなければならないと、考える。その感覚と思考の外側に、私は存在する。霧の向こうにいる声に返事をしようとするような感覚だ。
あいまいな感覚で過ごしていても、日々は勝手に進んでいく。
夫であるトオムさんとふたりでいることには慣れた。
妻としてのふるまいや務めなどもできるようになった。
トオムさんには家族としての情を持って接することができていると想う。
トオムさんの声で、ツキさん、と呼ぶ声を聴くと、やわらかく返事をしようと想ってしまう。
だいたい、上手くやれているのではないだろうか。
ぼうっと生きているか死んでいるのかわからないような私を、妻に望んでくれた奇特な方は、日々お忙しそうに働いている。
なんでも、夫は偉い方だそうで。妻として挨拶やもてなしなどをしなくてはならなくなってやっと知った事実だった。
なるほど、結婚前に、意地悪をされたのは、この夫が、対外的にとても価値のあるヒトで、その妻となると、自由にできる財産や名誉が多くなるからだったのだ。ということを長い年月をかけて理解した。
自由にできるお金は増えたようが、欲というものもやはりさっぱりなので、ほとんどを夫のお財布に押し込めている。
ここのところ、以前にも増して、もやもやすると考えていたら、ご懐妊。だそうで。
なにがなにやら、と首をひねっていたら、夫も、義父母も、お手伝いさんたちも、実家の両親も、飛び上がるかのように嬉しそうにおめでとうを何度も連発するので、これはおめでたいことが起きたのだとわかった。
自身の中に、自分以外の命があるのだと想うと、人体の神秘に関心せざるを得ない。
私に子育てということができるのだろうか、という問題点だが、なんとか流れに乗って流れ流れて大丈夫だろうと考えている。
情緒が育っていないというか、ほぼ無いに等しい私に、似ていないことを願うくらいのことしかできない。
そこらへんは私以外のヒトをお手本にがんばって欲しいと他人事のように想う。
てなわけで、大きくなってきたお腹を抱えて横に寝るのは難しいと、そんなことを悩んでいたら、産まれました。
さすがに陣痛は、痛みを感じた。痛みの波を味わってぼやっとしていたら、いつの間にやら出てきてくれていましたが。
オギャアではなく、ニャアアと泣く赤ん坊。私の子。私が生んだ、私の赤ちゃん。
くちゃくちゃの小さなお顔を拝見すると、なにやら感慨深いものが。湧いてきません。
はい。と、トオムさんに渡すと、泣きながら笑うというとても器用なことをするので、それを見た私の心はじんわりとあたたかくなった気がした。
子の名前は、ツキト。男の子だそうで。ニャアアと泣いて、元気に生きている。
この子は、現実感を持って生きて欲しい。私の前世のように、自由で、感情豊かに。
子育ては、ツキトくんの乳母と一緒に手分けしてやっている。
義母が乳母さんを用意してくれていたらしい。
子育ては大変だと皆が言うので、私だけではないと、ありがたい。特に、情緒教育をお願いします。
夜泣きに起こされて、半分寝ながら乳をやる。
さっきまで見ていた夢は、例の前世の自分だ。前世の自分は、なんという名前で、どういう最期だったのか、未だに知らない。そのうち、夢に見るだろうと想っているが、そのとき、私はなにか感じることができるのだろうか。
ツキトくんはすくすくと育っていく。
私がぼうっとしている間にも、何年も経っているかのように、想えるほどだ。
ツキトくんは感情がきちんとあるようだ。
私のときとは違って、私の弟のときのようだと、私の両親は言ってくれた。私はさぞかし育てにくかったろうに、見捨てず、愛情を注いで育ててくれた両親は偉大であると、改めて感謝した。
トオムさんは、お仕事が大変お忙しいのに、ツキトくんと触れ合いにきてくれる。子育てにも参加したいのだそうだけど、時間が許してくれない。
夫は、私とは大違いな生活を送っている。私は気がついたら一日、二日経っているが、トオムさんは一分一秒無駄にできない日々。
そんな中、ツキトくんや、私にさえも、時間を作ってくれるのだから、このヒトは超人なのではないかと、少々疑っている。
ツキトくんは、願った通り、私に似ず、表情がころころと変わる良い子になった。
んま。と私のことを呼ぶ。
この子が笑顔になると、私の心は沸き立つようだ。
残念ながら、私の他の感情は、ツキトくんよりも劣っているままであるようだが。
私は、怒ったり泣いたりがわからなくても、もう、しょうがないと考える。嬉しい、喜び、感謝。これらさえわかれば、良い。
それで、良い。私は、私のままで、良い。たぶん。
ツキトくんがなにか、やらかしたときに、感情的にならないで受け入れて言葉で指摘するのは、良いことだと、褒められた。
感情的になれないという不具合によって、なにやら勘違いされたようだが、素直に褒められておく。
言葉で何度も教えるのは、両親が私にしてくれたからだ。それを私は、ツキトくんにもしているだけのことだ。
両親がそのような教育をしてくれなければ、私は、ヒトとしておかしなヒトになっていただろう。たとえば、私が怪我をしたときに、それは痛い、というものだと、言ってくれて、怪我をするのはいけないことだ、危ないことだと教えてくれた。私は怪我をするのは極力控えるようになった。痛いという感情を表に出すことが上手くできなかった私への、最高の教育だったと想う。今でも痛みはいまいちわからないけれども。両親がそうやって教えてくれなければ、私は意味もなく怪我をし続けただろうから。
ある日、お外を散歩しているときに、ツキトくんがなにかを見つけてきた。なにを持っているのか、よくわからない。
それはなに。訊いてみた。
ツキトくんが答えた。
聴き取れなかった。
もう一度訊いてみた。
また、答えてくれた。
聴き取れなかった。
私は、今、本当にココに存在しているの。
また、悪い癖が顔を出す。
夢うつつで、感覚がひどく鈍い。
遠くのほうで、ツキトくんがしゃべっている。
聴こえているはずなのに、わからない。
曖昧。あいまい。アイマイ。
風が吹く。
固いはずの地面がふわふわと、雲のよう。
晴れた空は霧がかる。
自分の呼吸さえも、はるかかなたに。
ツキトくん。お母さんは、生きているのかな。こんなでも、生きていると言っていいのかな。
私は、どこに、いるの。
ハッとした瞬間、トオムさんが目の前にいた。
先ほどまでしていたお話の続きを話していて、私はそれに相づちをうっていた。
ねえ、私は、今、という時間をちゃんと、過ごせているの。
時間がひどくあいまいだ。
今が何日で、何時で、何年なのか、わかっているはずなのに、わからない。
それでも、私は生きていて、現実を認識せずとも、現実にいる。
母さんは、ぼくのことが、好きじゃないんだ。
泣きじゃくりながら、ツキトくんがそう言っている。
好きってなんだろうか。いや、そんなことを考えている場合ではない、はずだ。
母さんは。私は。ツキトくんが。
好き。だと想う。たぶん。おそらく。
そう、想う。そう、想いたい。
ツキトくんの涙がこぼれていくのを、止めることができない。
ツキトくんの乳母も、お手伝いさんたちも、義父母も、トオムさんも、みんな、ツキトくんの涙に驚き、そして私を見る。
こんなとき、普通のヒトならば、どう想うのだろうか。前世の私なら、どう想うのだろうか。
子どもに愛情を疑われる、母親を。
わからない。
流れ流れていく日常が、止まる瞬間、私は私を保てなくなる。
流されて生きていっている私は、止まった瞬間、どうすればいいのか、どうしたいのか、わからなくて。
こんなとき、他のヒトや、前世の私ならば、自分の想うようにやるのだろう。流れを自分で作るのだろう。
私は、千切れて消えてしまう雲のように、散り散りに消えそうになってしまう。
私は今を生きていないのだろうか。ココは本当に現実なのであろうか。
気を抜いたら、また、だれかが作ってくれた流れにのって、揺蕩っている自分がいる。どこまでも流されていく。どこまでも。どこへでも。
ツキトくんは、母親が愛情を示すのが苦手な生きモノであるという結論を得たようで、のびのびと急速に育っていっている。
その結論は、父親から教えてもらったモノだそうで、トオムさんは、私のことをそのように想っているのだとも解釈できる。
私の周囲にいてくれるヒトたちは、みんなそう想っているのかもしれない。私が、感情を表に出すのが苦手なのだと。
ということは、もしかしたら、私には、表には出ない感情というものが備わっているのかもしれない。という逆説的な説が考えつく。
今までのことを省みるに、私には、正の感情は存在するのだろう。喜怒哀楽でいうと、喜と楽だ。怒と哀はどこにいってしまったのだろう。
そんなこんなで、流されて生きてきた。
ツキトくんは私の背を超した。大きくなったものだ。
ところで、だれにも言ってこなかったことがある。
前世のことはもちろん、言ったことはなかったが。それではない。
前世から今世で、変わらなかった、普通のヒトとは違うこと。
私はヒトの寿命が見える。
もちろん、自分のモノもだ。
ということで、今日がその自分の命日になる予定の日である。
いつもと変わらない時間に起きて、台所で料理をして、トオムさんとツキトくんと、家のヒトたちとみんなと朝ご飯を食べる。
今日の目玉焼きは上手にできたので、美味しいのだろう。今日も美味しいよ、とトオムさんが言ってくれる。このヒト、褒め上手、というよりは、私のことはなんでも褒めたがるらしく、私がなにもしていなくとも褒めてくる。
忙しいトオムさんは、朝食を素早く食べると、私にいってきますのチュウをねだってから、足早に出勤する。
ツキトくんも小さい頃は、トオムさんの真似をして、チュウをねだっていたのだが、最近はご無沙汰である。ので、今日は久しぶりに不意打ちで私からツキトくんにチュウをする。顔を真っ赤にしながら、嬉しくも恥ずかしいという複雑な表情を見せてくれて、情緒が無事に育ってくれたみたいで良かったと改めて想う。
お手伝いさんたちはもう慣れたものであるので、何年経っても熱々な夫妻のなんちゃらは見て見ぬ振り。いつもありがとう、と感謝の言葉を口にすると、こちらこそですよ、奥さま、と言われる。
義父母は義父母で忙しいようで今日もどこかへ出勤である。
全員のいってきます、に、いってらっしゃい、と言って、お弁当を渡す。卵焼きも上手く焼けたので、きっと、みんな美味しく想ってくれるはずだ。特にトオムさんは、帰ってきたら褒めてくれるだろう。
私の部屋は、いつも片付いているので片付ける必要はない。
日記などもないため、見られて困るものはない。
ただ、一筆、ありがとう、と紙に書いてみた。しかし、殺風景な部屋に一言だけ書いた紙が置いてあるのはいささか不自然だと想い、やめる。
私がどんな風に死ぬのかは、知らない。
他人に迷惑をかけない死に方だと良いとは想うが、それだけである。
私が大切に想っているであろう、実家の家族、トオムさん、ツキトくん、義父母、この家のヒトたち、友人、は、皆、私よりも長生きをする予定であることがわかっている。見えている。
それは私が生まれたときから知っていることである。
お手伝いさんに外出することを伝える。見送られて、外へ出る。
良い天気だ。
新鮮な空気を吸って、深呼吸。
花の香りがする気がする。
いい気分だ。
気がついたら、青い空が見えた。
どうにも、自分は仰向けに倒れているようだ。
死因は、転倒からの、頭部強打、かな。
あっけない。
笑われてしまうような死に方。
でも、たぶん私にはそれでいい。
それで十分だ。
怒りも哀しみも感じず、痛みもあいまい。
私の人生は、私の今世は、しあわせだったのだろうと言えるもの。
それで、いい。それで、充分。
見えたモノがある。
私の前世の、死ぬときのこと。
どうして、自分だけがこんな想いをし続けて生きなければならなかったんだ。寿命が見えるなんて呪い、なければ良かったのに。哀しみも憎しみも怒りも悔いも痛みも、すべてを感じなければ。
ああ、前世の自分は願ったのだ。
自由奔放に生きて、変な能力に翻弄された、山も谷も多かった人生を生き切って。
今世のように。なれば。と。
私も、生きてみたよ。
とても、しあわせだった。現実感が薄くて、私が私を掴んでいるのが大変だったけど。
嬉しいこと、たくさんあった。ありがとう。
でも、でもね。私、哀しみや、痛みを、おもいっきり、感じてみたかったかもしれない。強い、感情を、持ってみたかったかもしれない。
周りに流されてみるのも、とても良かったけれど、自分の意志で流れを作って切り拓いていくのも、してみたかった。
前世の、あなたのおかげで、私は能天気に流されて生きれたけれども、私はあなたが羨ましいのかもしれない。
あれ。痛い。いたい。イタイ。
痛い。痛さを、私は、今、感じて。
これが、痛み。
痛い。痛い。痛い。逢いたい。
逢いたい。
みんなに。
逢いたい。
トオムさんと、ツキトくんに。
逢いたい。
家族のみんなに。
逢いたい。
感情が。あふれる。溢れる。零れる。
私の中に、本当は、こんなにもたくさんの感情が。あったんだ。
あれほどまで、あいまいだった現実が、今やっと、この死ぬ直前に、はっきりと、感じられるようになった。
ありがとう。
私に感情を、痛みを返してくれて、ありがとう。
そして、さようなら。
もう、なにも、願わない。
トオムさん、ツキトくん、みんな、あいしてます。