前編
この前、偶然聞いてしまった話が胸につかえる様で、なかなか苦しい。曰、他のベテランを差し置いて何故ボクが見習い機関士になるのかと。
一日の仕業を終えて寮に着く。煤と油と汗でデロデロだ。仕業服の帽子を取り、建物に入ると、寮母のおばちゃんがボク宛の手紙を渡してくれた。差出人は父だった。まためんどくさいやつかなと思ったけども、開けないと言う選択肢はない。部屋について、電気をつけようとしたら電球が切れた。今日は機関車の前照灯の球も切れたし、全く何でか電気と因縁でもあるのか。電球をつけ直すか。
「―!?」
だーッ!?口金から電気がーッ!!スイッチ忘れてた!?
痛い目にあった…まあ、いいや。帽を机に置いて、襟元のボタンを明け、首から胸元に回していたタオルを引き出す。息苦しいんじゃ。どかりと座って封筒を開ける。手紙と一緒にポロリと切符が出てきた。行き先は母の実家の最寄り駅、そしてその近くまでの夜行列車の寝台券。正直嫌な予感しかしない。えっと何々…
『祖父の源吾朗が倒れたんで見舞いに行け。その間の仕事に関してはこちらで手配してるから、気にするな。切符は同封してある。
ps済まないが母を止められなかった。少しの間だあら辛抱してくれ、頼む。』
いや。耐えてくれといわれても…母さんボクの事嫌いじゃん。この切符や寝台券を見るに最低で二泊三日。母とそれだけ長く居たくない。でもおじいちゃんのことは好きだし…
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夜行列車を待つ。ホーム前端を見れば萩野機関士と谷川機関助士、十喜津見習い機関助士が引き継ぎ列車を待っていた。それに対して、ボクは、精神的に何とか耐えられる限界の、女物の服を着ている。仕業服以外でこのホームに立つのは久しぶりだ。普段このホームには仕事で来るくらいだ。
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滑り込んできた列車の車内に入る。えと、Aの29、Aの29…ああ、ここだ。手荷物を下ろす。中には、着替え数種、タオル数本、見習い機関士の試験向け教材、アレのための襤褸布は要るかどうかわからないから一応。
列車が動き出す。連結器による衝撃はきわめて小さく、さすが萩野機関士、大正以来の大ベテランだと思わされた。下手だとガチャーンと大きくくる。うん?窓の外を帽子が飛んでった?十喜津見習い機関助士のやつだろうな。帽子とばすとその仕業の間、身が入らなくて機関士さんたちにどやされる。ボクもやった、誰しもが通る道だ。顎紐はしっかりと使おう。
外は暗くなってきた。ボクの時計だと、19時。寝るか。
ぬぅ…外がうるさい…外といっても列車の外ではなく、寝台のカーテンの外だ。おばはんと車掌さんがなんだか戦っている。舌戦で。
「下の寝台の男の人がいやで寝れないんです。移動できませんでしょうか。例えば女ばかりの車両とか。」
「その男の人が何かしたってなわけじゃあないでしょう。それにね、この列車、空いてる寝台もうないですよ。」
そりゃ無体な話だ。というか、そんな車両があるならボクも行きたいけど、あるわけがない。つか声でかいよ。寝れない・・・これが美人さんならともかく、おばんがやってんだからなんとも。
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むわ、朝だ。眠い。全くひどい寝覚めだ。オバハンは結局うるさいし、萩野機関士から引き継いだ機関士が下手で、連結器の衝撃はガツーンと来るし。
明治の工部省からの伝統、「工」の字が元となった図柄の浴衣から、着替える。早着替えは得意というものだ。機関車の仕事をやっていれば割りと必須の技能だ。ここで間違っても仕業服や国鉄の制服を着てはならない。母に殺される。
駅で降りると、既に母が待機していた。しこたま海水を飲んだような、吐きたくても吐けない、そんな気になった。会っただけでこれだ。これからの二泊三日、どうしよう…