食ム部屋
蒸し暑い平日の午後であった、古いビルの一階に店舗を構える不動産屋へ、ミニタオルで首元の汗をぬぐいながら男が入ってくる。
磨りガラスに『△△不動産』と書かれた引き戸をガタガタと開け店内に入る男を、奥の事務デスクに座る中年の店主はさりげなく値踏みする。
二十代後半ほどで一見してサラリーマンとわかる、スーツの上着は着ておらずパンツにワイシャツだがさほど良い品ではないな、安い賃貸でも探してるクチだ。
なるほど店主の長年の経験は伊達ではないようで、男の用向きは婚約者と二人で住める程度の間取りと、結婚資金を余裕をもって貯めていくことのできるお安い家賃の物件を探しているという、身勝手というほどではないが虫のいい部類の依頼であった。
車二台分の駐車スペースがあり、あとは内風呂でさえあればよいという注文にこれから交渉する家賃の希望額の安さが窺える、うんざり気味の店主があまり人には話せない妙な噂のつきまとう物件を適当に当てがったとしても、珍しくもないよくある話で片付いてしまうことであろう。
物件案内の申込書を渡しながら店主は多忙を装い、今日すぐに見たいのなら自分で勝手に行ってもよい旨を男に伝える、このような安い仕事はわざわざ随行などせずとも、己の目で見て己で判断せよと突き放すのが最も効率的だ。
案の定安い物件にこだわっている負い目があるのか、男はこれから行ってきますと申し出て、店主の用意した『裏野ハイツ』『二〇二号』とメモ書きされた地図のコピーを手に店を後にした。
実物を目にして妥協ができればすぐに連絡がくるだろう、できなければこないだけのことだ、おそらく次のを見せろとは言ってこないであろう、などと男が路駐してある車へ向かう姿を窓から眺めつつ店主は考える、十年以上前の噂話が頭をよぎるがあまりにも滑稽な内容を思い出し鼻で笑ってしまう。
「人喰いの部屋ねぇ、いったい誰が考えたんだか…」
応接セットのテーブルに残っている物件案内申込書を手に取り、事務デスクに戻るまでの短い間だけ店主は男の名前を記憶していた。
「藤宮拓也か、俳優みたいな名前だな」
真上から照り付ける容赦のない日射しと、アスファルトから立ち昇る無慈悲な熱気に挟まれてホットサンドになった気分を味わいながら、拓也はクーラーの待つ車へと戻る、十年落ちのハイブリッドカーは最大風量にしてもそよ風程度にしかならない冷風を一所懸命送り出し、だがその風で生き返った心地になりながら、不動産屋の店主に渡された地図に印される物件への位置と道順を頭の中で組み立てる作業を済ませる。
おもむろにズボンのポケットから携帯を取り出そうとする、シートに座っているとなかなかに出しづらいようだ、身体を横向きにして脚を真っ直ぐ伸ばすことでようやくスルッと出てくる、慣れた手つきでメールの文面を打ちはじめ、にやけた顔で送信したようだ婚約者宛である。
『不動産屋で一件紹介してもらった、これから一人で見に行ってみるよ、結果も報告したいし今夜飲みに行かないか?こう暑いと君の次に冷えたビールが恋しいよ』
満足そうに頷くと携帯をポケットへ戻そうとするが、出すのにあれだけ苦労したものが簡単に入るわけもなく、すぐに諦めて助手席のシートへ地図と一緒にポンと置く。
溶けたゴムが粘りつく嫌な音をアスファルトに残し、路肩から車線へとそして裏野ハイツへ向けて車は走り出していく。
有栖愛子は仕事に追われていた、メンタルクリニックの事務所である、高校の同級生で親友でもあったこのクリニックの院長は、美人女医としてメディアで名が売れており診察診療の希望は引きも切らず予約は毎日ギッシリであった。
臨床心理士の資格を持つ愛子はその院長に請われてここで働いている、贔屓だのという声がないわけではないが、愛子の真面目な性格と仕事ぶりをよく知れば誰であれその口を閉じることであろう。
カウンセリングのレポートを整理しつつ昼はもうとうに過ぎ、夕方といえる時間を指す時計にため息をつきながら昼食抜きの腹がクゥと鳴るのを聞く、すっかり長時間チェックし忘れていたスマホを取り出すと三時間ほど前に拓也からのメールが着いていた。
「まあ、これでご機嫌をとってるつもりかしら…」
それでもフフッと笑うあたり拓也に軍配があがっているようでもあるが、空腹時に居酒屋の誘いを断るほどの理由もなく、むしろ積極的に了承のメールを送り返したのであった。
『営業のお仕事さぼって私用なんて悪い人ね、でも暑い中ご苦労さま、きっと冷えたビールがおいしいでしょうね、私もおなかが空いちゃったわ、会社から出るときにメールしてね』
しかしその夜いくら待てどもメールは来ず、それどころか心配して掛けた電話にも出ず、急な仕事が入り忙しくしていたら申し訳ないなと思いつつも胸騒ぎが収まらず拓也の会社へ問い合わせると、やはり帰社すらしておらず連絡がとれなくなっているという返答であった。
拓也は椅子の上に座っていた、食卓テーブルとセットで売られている木製の椅子であった、その椅子の上つまり座面に膝を抱えて座っている。
顔には怯えの色が濃い、椅子の場所も玄関のドアのすぐ前という普通ではない状況だ、玄関の横にはキッチンがあり流し台が置かれている、九畳のリビングの一部であるがその辺りにテーブルが据えられていたのであろう、残っていた家具はこの木製の椅子一つのみであった、だが拓也は何に怯えているというのか。
ほんの一時間ほど前に裏野ハイツに到着し、渡された地図のコピーを持って二階のこの部屋の前に立った、不動産屋は掛かっていないと言っていた鍵が掛かっていたため困り顔で思案していると、すぐに隣の部屋のドアが開き人の良さそうなお婆さんが出てきて開錠してくれた、浮浪者が入り込まないように鍵は掛けることになりお婆さんが管理しているという。
お礼を言い部屋に入る、このハイツは全室同じ間取りと説明されたので角部屋でなくともさほど損をした感じはしないであろう、さっそく部屋内を見て回る、入るとすぐ九畳のリビングが広がり玄関横の台所が目に入る、その横の壁には洗面台と風呂・トイレに続くドアがある。
リビングの向こうに六畳の洋室があった、洋室とはいっても木目柄のフローリングパネルを敷いただけの普通の部屋である、大きめの押し入れと小さめのクローゼットがあった、採光はこちらの洋室が良いようである、このハイツに決まるのであればここが寝室になるだろうなと想いを巡らせているようだ。
しかしこの猛暑の日に窓を閉め切っているにもかかわらずさほど室温は高くなく、嫌な熱気がこもってもいない、なんだか不思議だが住みやすいのは悪くないと独りごちてそれでも窓を開けようと鍵に手をかける。
「つっ…!」
指先から血が流れる、ポタリと数滴床に落ちてしまった。
「あ、まずい」
ズボンのポケットからミニタオルを取り出し床の血を拭き取る、ついでに切れた指先をタオルに巻き込む、そのとき『オォンオオォン』と突然部屋が鳴動するような音、同時に軽い眩暈を覚える。
「地震、かな…?」
呟いた言葉が終わらぬうちに。
『ゴトリ』
クローゼットの中で硬いものが動くような音、そしてそのまま静寂が訪れる。
拓也は薄気味悪くなってきたようだ、洋室からリビングへ引き上げて行きそのまま玄関で靴を履き、ドアを開けて外へ出…ることができなかった、鍵が掛けられたのではない、ドアノブはドアノブではなかった、よく見ると形を似せた金属の塊のようなものだった、ノブは回転するようにできておらず、よってドアを開く用途には使えない。
訳の分からない状況にしばし茫然となるが、ハッと思いつき携帯を取り出そうとズボンのポケットを探る、しかし見当たらない、左右と尻のポケットも上から探り無いと確認したとき、車内で助手席に放り投げた場面が鮮明に脳裏に蘇る、自分自身を殴りつけたい気分になった、出られないという事実は出たいという願望に火を点ける、すぐ横の流し台の上の小窓に飛びつく、窓の鍵を開けようと手を伸ばすがその手は途中で止まる、拓也は鍵を凝視しておりその表情はすでに恐怖に近いものになっている。
鍵は窓のサッシと一体化している金属の塊でしかなかった。
おそらく先程手を切った洋室の窓の鍵も同様のものであったのだろう、あまりの異様な出来事に拓也は非常事態のスイッチが入ったようだ、窓ガラスを割る試みをする。
タオルを巻いた右の拳でガラスの中央を狙い叩く、最初は控えめにしかし徐々に強く最後は遠慮なしに殴りつける、しかし殴っている最中に拓也はもう気付いていた。
「ガラスの感触じゃない…」
どう見ても安物の磨りガラスである、防犯目的に強化されたものですらないであろう、だが殴るとその感触は無機質なガラスや金属のものではない、何か…有機的な…否定はしたいのだが生物の、人間で言うなら肘や膝頭の硬い部分を叩いている感触であった。
ガラスに拳が届いていない、直感はそう告げていた、ガラスとこちらの間に何かがある、しかも有機的な何かが…想像を始めると止め処がない、もしかするとこの部屋全体がその何かに包まれているのか?目に見えぬ怪異の口の中に閉じ込められた場面が想像された時点で馬鹿らしくなり首を振って振り払う。
「まったくなんの冗談だ!」
不安を払うために虚勢を張って怒鳴った次の瞬間。
『ゴゴリッゴリッ!』
洋間のクローゼットのほうから先程とは比べ物にならないほどの大きな音が響く。
そして『ギギギィ…』と扉が勝手に開きはじめるではないか。
拓也はすぐ傍らにあった木製の椅子を引き寄せ玄関のドアの前まで後ずさる、そこからは洋間のクローゼットが真っ直ぐみえるのだ、だがクローゼットの扉板が面をこちらへ向けて開いているため肝心の内部は見えない、しかし異変を察知するために見張るには十分である、しばらくの間緊張しながら様子を窺うが音もせず動きもない、拓也はそっと玄関ドアの前に椅子を置きその上で膝を抱えて座る、床にも壁にも触れていたくない気分であった。
「で、警察、どうだった?」
良く言えば華やか、率直に言えば派手なタイプの美人が大きなデスクに肘をついて愛子に訊ねる。
「話にならなかったわ、連絡が途絶えてまだ半日だったし事件性が低いのはわかるんだけれど…」
クリニックの院長室であった、愛子は高校からの親友である院長の冴子に昨日のことを相談していた、朝一で警察へ行けと命じられ、もうすぐ昼になる今やっと戻ってきたのである。
「本当に失礼しちゃうわ、痴話喧嘩じゃないか?他に女がいるんじゃないか?最近うまくいってなかったんじゃないか?ですって、開いた口が塞がらなかったわよ」
「アッハッハハ、あ、いや失礼、まあそんなもんよね、目的の捜索願いは受理されたんでしょ?じゃあ他の諸々は事務手数料とでも思っておくのがいいわ」
ふうっと肩で溜息をつく愛子を親友は優しい目で見ながら続ける。
「愛子、今日はもういいわよ、後はやっておくから帰りなさい」
「で、でもまだたくさん仕事が」
渋る愛子に冴子の柳眉がピクリと上がる。
「愛子、あんた胸騒ぎがするって言ってたよね、これから自分で探す気なんでしょ?仕事に時間をとって後で後悔なんて私はされたくないわよ、仕事なんかいつもあんたの周りであんたに任せっきりのボンクラ共に押し付けなさいな」
冴子はここでふっと力を抜き今度は優しい声で。
「私もあんたの穴埋めぐらいできるし、他にも手伝ってほしいことがあればなんでも言いなさい、だけどいい?決して危ないことはしちゃダメよ?」
愛子が全幅の信頼を置く親友であった。
外の音はよく聞こえる、ハイツの前の通りを車やバイクが行き交う音、近所の主婦の立ち話や訪問販売員がどこかの家のチャイムを鳴らす音、拓也は焦っていた、時刻は夕方に差しかかりだんだん日が翳っていく、部屋の中も影の面積が大きくなり濃くなっていくのがわかる。
照明器具は外されていた、天井には照明器具に電源を供給するプラグが付いているのみである、真夏なので日没まではまだ時間がある、しかし出られる目途が立っていない以上は気休めにもならない、夜の闇は必ずやってくるのだ。
郵便配達でも新聞の勧誘でもなんでもいいから来てくれないものか、祈りながらもしかし、この部屋は現在は空き部屋である事実が来訪者の可能性をほとんど否定している、ならば部屋の前の外廊下を歩く者がいればこちらの叫びに気付いてくれるのではないか…と、僅かなチャンスも絶対に逃さぬよう思索を巡らせる。
祈りが届いたのであろうか、ハイツのすぐ前に一台のスクーターもしくは原付のバイクが停まる音がした、必死で音を探ると運転手がバイクを降り一階の部屋の前を順にまわっているようである、ポストに何かを投函して回っているようだ、チラシの類を配っているのか?ならばこの外廊下を歩いて奥の部屋まで行く可能性も大いにある!
頼む、頼むっ!と念じながら音に集中すると、カンカンカンカンと鉄製の階段を昇ってくる軽快な足音が聞こえ、外廊下をスタスタと歩いてくる。
「おおおーいっ!頼むっ!警察をよんでくれええっ!ドアを開けてくれええっ!」
窓を拳でドンドン叩きながらありったけの声で叫ぶ、磨りガラスの向こうにカラフルな制服であろうぼんやりとした姿が現れ一瞬の停滞もなく通り過ぎていく、奥の二〇三号室のポストにチラシを投函する音が聞こえる、聞こえなかったのか?いや、この距離でそんな馬鹿な…しかしチャンスはもう一度ある、戻って来た時こそ絶対に…近づく足音に合わせて今度こそはと叫ぶ。
「おおーいっ!おおおーいっ!行かないでくれえっ!頼むっ聞いてくれええ!警察をっ警察をよんでくれえっ!ここから出してくれえええっ!」
流し台すらガタガタ揺らして目いっぱい窓を叩き声を張り上げる、しかし窓の前を通り過ぎる姿には全く気付いた気配すらない、と、この部屋のドアの前で立ち止まる。
拓也はハッとして様子を探る、するとキィーカタンッとポストが開いてチラシを挟み閉じる音が聞こえた、そう、聞こえただけでこちらから見えるポスト口は閉じたまま、チラシも入ってきてはいない。
「どういうことだ、向こうの音は聞こえるのに…」
茫然とつぶやく言葉に応えるようにクローゼットから音が響く。
『ガンッ…ズルッ…ガッ…ズズズッ…』
拓也は慌てて玄関ドアの前に戻り、唯一自分の味方のように感じる木製のイスの後ろに回る、音は硬いものを床に打ちつけたあと柔らかいものを引きずっているように聞こえる、だんだんと具体的な様子のわかる音になってきている、姿を見せるのか?見たとき俺は耐えられるのか?恐怖で身体が強張る、小刻みに震えがはじまる、打ちつけ引きずる音はすぐそこから聞こえるように感じるようになった、そのとき。
『ゴロゴロゴロゴロ』
クローゼットの扉の向こうから何かが転がってくる。
こちらへ向かって動いてくる物に心臓が握りつぶされるほどの恐怖を覚える、がよく見るとそれは。
「車の、ハンドルじゃないか…」
リビングのちょうど中央あたりで転がるハンドルは倒れ、グワングワンと回りながらやがて床の上に動かなくなる、その静止したハンドルを凝視していた拓也は突然ガタガタと震えだす、木製のステアリングを支えるY字の金属パーツに開くいくつかの小さい穴、その穴の一つに白いものが引っ掛かっていた、それは人の指であった。
しばらくクローゼットの様子を窺い息を殺していたが、静まり返ったままなので椅子の上へ移動し膝を抱え座る、先程の出来事を想い起す、こちらの声や物音は外には聞こえていないようだ、それは窓を叩いたときの変な感触と無関係ではなさそうである、だが全て憶測だ、現状には何の役にも立たない、むしろ叫んだり派手に動いたりするとクローゼットの中の何かが反応するようだ、そちらのほうが問題である、極力気配を殺して静かにするしかないのか…膝をかかえる腕に少し力が入る。
拓也のすぐ後ろの玄関ドアを挟んだ外側に二〇一号室の老婆が立っていた、老婆の顔は無表情で先程拓也と話をしたときのにこやかさは欠片もない、スッと手を伸ばしポスト口に挟まっているピザ屋のチラシをつまむとスーッと抜き取る、二〇二号室のドアをまるで透かしてその向こうの拓也を見るようにジッと見つめる、やがてクシャッとチラシを握ると音もなく自室へともどっていった。
カーナビの音声が目的地への到着を告げる、愛子の運転するRV車は裏野ハイツをフロントウィンドゥに映していた、道沿いに走ってハイツの周囲を探ってみようと建物の裏側まで回ったとき、ハイツの駐車スペースであろう空き地に拓也の車が停まっているのを見つけ愛子は思わず身を乗りだす。
拓也が連絡を絶ったのは木曜の夕方からであった、現在は土曜日の昼過ぎ、丸二日ほどが経過している、拓也の携帯へは一時間おきくらいに五回コールして出なければ切るというのを繰り返してきた、長いコールでは消耗も早いだろうと電池の残量を気にしてのことである。
その携帯が助手席に置かれているのを運転席側の窓から見つめる愛子の顔は、見る者がいれば同情に目を伏せるであろう、拓也の車の鍵は付いておらずロックもしっかりと掛かっている、車を後にする意思があっての行動に見てとれるのが幸いだ。
昨日院長の冴子に早退をさせてもらってから愛子は不動産屋のリストアップを始めた、今までの拓也との会話を一つづつ思い出しながら条件付けをしていく、拓也と愛子の職場のちょうど真ん中がいいねと言っていた、テレビなどでCMを流しているような不動産屋は高い物件から見せられてダメだと言っていた、それから照れながら幼稚園か保育園が近くにあったほうがいいかも…とゴニョゴニョ言っていた。
思い出しながら潤む目にティッシュを当てつつ検索をしていく、拓也のメールには紹介された物件を独りで見に行くとあった、いい加減なやり方だと思う、個人で営業している小さな地元の不動産屋だろうと当たりをつける、物件を見に行くというのだから申込書の類にも記入しているであろう、地域も限定して再検索をかけ画面に表示された不動産屋のリストに片端から電話を入れ始める。
拓也が訪れた不動産屋に当たったのは翌日土曜日の午前であった、中年男性と思われる声の店主は、拓也の名前を告げるとプライバシーがどうのと言い出したので、捜索願いも出されていると切り札を切ったところ諦めたようだった、店舗を訪ねて詳細を聞くと、よくない話が付いてはいるがあくまでも噂話でしかないということなので咎めることもできずに、しかし『裏野ハイツ二〇二号』と書かれた地図のコピーをしっかりともらいここに至ったわけである。
あれから二日、拓也はどこで何をしているのか、胸騒ぎは日を重ねるごとに強くなっていく、愛子は空き地の向こうに見える裏野ハイツを見つめ、意を決したように歩き出す。
二度目の夜が来た、椅子の上で膝を抱える拓也の躰はおこりに罹ったように細かく震えている。
闇が怖い、いや、闇の中にいる何かが怖い、昨夜見たものはなんだったのだろうか、昨夜聞いた音はなんだったのだろうか、今夜もまたあんなものがやってくるのか?あいつらは俺をどうにかしてしまうんじゃないのか?
陽も完全に落ち、それでも家々の灯りですぐには闇は訪れず、しかしそれでもやがては静寂が辺りを包み込み、暗闇は暗闇の中でさらに闇を産む、昨夜拓也が見た闇はこの世に在ることを許されているものだったのであろうか。
クローゼットの音に怯えて気配を殺しているとやがて最初の夜が訪れた、流し台の上の窓から薄明りは入ってくるのでその近辺だけは完全な闇ではない、夜になったからといって特に何かが起き始めたわけでもなく静かなまま時間が流れていく、リビングの真ん中に転がるハンドルがなければクローゼットの物音も気のせいだったのではと思い始めていたことだろう。
人間は長時間の緊張の連続には耐えられない、どこかで緩めなければ自壊すらありえる、拓也が少し体を休めようと数瞬目を閉じたとしても誰も責めることはできないはずだ、だがそれでもやはりやめておけばよかった。
時間にしてせいぜい五秒であった、目を開くと拓也のいる玄関側と対角になる部屋の角に人影が立っている、窓からの薄明りが届かない場所である、本当に人かどうかも定かではない、しかし何故だか女性だということまでわかる、こちらには背を向けているようだ、白っぽい服が浮かび上がっているので服に垂れた髪の長さがわかる。
突然すぎたので恐怖はまだ追いついてきていない、おかげで不用意な叫び声を上げずに済んだ、しかし次の瞬間すぐ横でペタペタペタと子供が裸足で歩いている音がしたときにはつい。
「ひっ」
と微かではあるが悲鳴が漏れてしまった。
その悲鳴を発した途端に子供の足音がピタッと止まる、部屋の中央あたりであろうか…
それとは逆に部屋の角に静かに立っていただけの影が動き始める、首を…首を回しているのかあれは…?
躰は動いていない、首から上だけが首の運動をするように右に左に動いている、なにをしてるんだあれは?やめてくれ…まるでそのうち…首がとれてしまうみたいじゃないか…
『ズルッ…ズズルッ』
クローゼットから音がし始めた。
何かが這い出している、洋室の方は真っ暗闇で何も見えない、だが音は…這いずる音は、クローゼットから出た位置から聞こえる。
『ガランッ』
リビングの中央あたりで突然あがった音に飛び上がりそうになる、慌てて目を向けると置かれていたハンドルが持ち上がっている、続いてそれを持ち上げている姿がスーッと現れる、四~五歳の男の子か?全裸であった、薄明りが届く床に座っている背中が白く見える、その頭部はU字型に大きく陥没していた。
覚えているのはそこまでであった、気付くと夜が明けており誰の姿も無く、床のハンドルすら消えていた。
それからは動く気にも物音を立てる気にもなれなかった、明るいうちはひたすら体を休めたいと思った、そうしないとやがてやってくる闇に食われてしまう、そんな気が強くした。
そして二度目の夜がやってくる。
二〇二号室のドアの前、不動産屋は開いてると言ったが鍵が掛かっている、愛子が怪訝な顔でドア眺めているとすぐに隣の部屋のドアが開き、優しそうなお婆さんが声をかけてくる。
「あら、そちらのお宅へご用事かしら?」
お宅?空き部屋ではないのかしら?と疑問に感じながら。
「部屋を見に来たんですが、鍵が掛かっておりまして困ってたんですの」
「あらあら、そうなんですか、でもそちらのお部屋は三人家族さんが住んでらっしゃいますよ?」
「え、空き部屋ではないんですか?」
にこやかに教えるお婆さんの言葉に愛子が驚き訊ねると。
「その奥の二〇三号室が空き部屋になってますので、不動産屋さんの伝え間違いじゃないでしょうかね」
「ああ…なるほど、そうかもしれませんね、いえ、きっとそうですわね」
二〇三号室を見て帰るとお婆さんに告げ、思いついて尋ねてみる。
「そうそう、二日前の木曜日の昼過ぎ、男の方もこの部屋を見にきませんでしたか?」
「え…ああ、そうそう、そういえば来てましたね、同じく教えてあげたら二〇三号室を見て帰ったようですよ」
「帰ったところは見ましたでしょうか?」
「いえ、見てはいませんけど、その部屋にいなければ帰ったということでしょうからねえ」
何か違和感を感じるが、とりあえずお婆さんに礼を言い二〇三号室に入る。
一通り隈なく見て回る、拓也が閉じ込められているような形跡もない、閉め切っているためムワッとする熱気がこもっている、古い木造家屋の匂いも強い。
気配すらなかった、ここにはいない、見て回った結果も直感もそう一致していた、良くない噂なども馬鹿らしくなるほどに何もないガランとした部屋を後にする。
玄関を出るとお婆さんは二〇二号室のドアの前でこちらを窺っていた。
「どうでした?お部屋は気に入りましたか?」
にこやかに訊ねるお婆さんに近づきながら愛子は答える。
「実は、部屋ではなくて人を探しているんです、先程言った男の人…連絡が取れないんですが、何かご存じありませんか?」
しかしお婆さんの返答は先程と同じく、空き部屋を教えただけで後は知らないということであった。
二〇二号室にも聞き込みをしようとドアの前に立つお婆さんに訊ねると、二〇二号室は家族ぐるみでどこかへ出かけているという、ドアの前から動かぬお婆さんになんだか変な感じがするが、ならば一階の住人にも尋ねてみる旨を伝えてみるとそれには全く抵抗のない様子でそれがいいと返答がきた。
一〇一号室から順に尋ねてみる、不在であった、なんとなく人の気配はしなくもないが、居留守であろうか…諦めて一〇二号室を訪ねる、チャイムを押すといつのまにかドアの横の磨りガラスの小窓が薄く開き、そこから中年男性の声がしたので愛子は悲鳴を上げそうなほど驚いた、収まらぬ動悸をこらえて用向きを伝えるが、ぶっきらぼうに知らぬと答えがかえってきてすぐに窓が閉まる。
小走りに一〇二号室から離れ、少し動悸を静めてから最後の一〇三号室に望みをかけてチャイムを押す、三十代前半くらいの奥さんが出てくる、ご主人と三、四歳の男の子がリビングで遊んでいるのが開け放したドアの向こうに見えた、まともな話ができそうな相手にホッとしながら説明するが、返事は期待通りにはならず知らないということであった、思い付いて二〇二号室の住人である家族のことを訊ねると、今度は怪訝な顔をされてあの部屋に人が住んでいるの?と逆に聞かれてしまった、姿も見たことがないという。
礼を言ってドアを閉める、腑に落ちない点は幾つかあるものの、これで拓也の行方については行き詰ってしまった、自分の無力さをこんなに悔しいと思ったことはない、もし今拓也が救いを必要としていたら…と考えると、どうしようもない気持ちに涙がでそうになる、ハイツの前で途方に暮れてうなだれていると。
「あの、失礼ですが…有栖先生ではないですか?」
ハッとして顔を上げて声の主を見る、買い物袋を手に提げた五十代に見える男性、細面で眼鏡を掛けている実直そうな顔に愛子は見覚えがあった。
「あ…白川さんのご主人?」
クリニックに通う奥さんの世話をかいがいしく焼いている微笑ましい場面が脳裏に浮かぶ、愛子が担当をする奥さんはご主人より一回りほど若く、鬱の診断をされた奥さんの回復には仕事一筋のご主人の協力が絶対に必要とのカウンセリングで、目が覚めたご主人の変わりようはそれは見事であったと記憶している。
頭を深々と下げてその節の礼を告げるご主人が、驚く愛子を是非と招く先はなんと一〇一号室であった。
「理香、帰ったよー、お客さんなんだけど、誰だと思う?驚くなよー?」
楽し気な声は本心からのものであろう、予後経過が順調そうな様子は愛子の胸中に熱いものを生じさせる。
リビングに招じられテーブルの前に座ると、奥の部屋から女性の顔が半分だけ覗く、愛子はニッコリ笑って声をかける。
「白川さんお久しぶりね、お元気だった?」
すぐに大きく目を見張った顔が全部出てくる。
「有栖センセ~ッ!」
カウンセリングを始めた頃はガリガリに痩せていた、自傷も始めており家庭内は真っ暗だったと聞いた、入院が妥当との診断であったが愛子はご主人の意識改革で救う道を提案した、ご主人も涙を流しながら同意し、その結果は今、目の前にふっくらとした頬と血色の良い明るい笑顔がある。
台所からお茶を運んできてから、カウンセリングを卒業してからの三ヶ月間の生活を、ご主人は楽しそうに語ってくれた、まだ知らない人とは話せないが、安心して仕事に行けるようになったなど、回復ぶりを余さず報告してくれる。
優しく頷く愛子に一通り話し終えるとご主人はふと、自分たちのことばかりだったのに気付く。
「そういえば有栖先生は、こんなところで何をされていたので?」
聞いた途端に曇る愛子の表情にご主人はなにか訳ありと察する、愛子はすがる思いで事の次第を話し始めた。
「二日前、木曜の夕方ですか、私が仕事から帰って来たのがたしか…二十時近くでしたか、もう暗くなってましたが、それらしい方も見てませんし変わったこともなかったと…申し訳ありません…」
本当にすまなさそうな顔をして謝るご主人に慌てて手を振りながら愛子は、それでもやはり落胆の色は隠せなかった、諦めてお暇しようと口を開いたとき。
「理香知ってるよー」
愛子の横にちょこんと座る奥さんに驚く二人の目が集中する。
奥さんの幼児退行の症状は、鬱が回復して心が外に向けば自然と快癒していくだろうと診断されているが、それはまだ少し時間がかかりそうである、しかし今その言葉は愛子にとって千金の値があるかもしれないのだ。
「その人の声聞こえたよー」
「聞こえたって…ど、どこで?」
ご主人が訳が分からない様子で訊ねると。
「お水を飲もうとしたときにねー、そこからー」
奥さんが指差す先には水道の蛇口があった。
「水道…水道管…あっ!こういう建物の水道管って!」
愛子が言いかけたことをご主人も理解したようだ。
「はいっ!大抵各部屋の管が全部どこかで繋がってますっ」
「白川さん、声はなんて…なんて言ってたかわかる?」
自分の言葉が愛子にとって重要なことらしいと奥さんも理解したのだろう、真剣な顔になって思い出しながら話す。
「えーと、警察ーとか、出してーとか…言ってた!」
思わず愛子は立ち上がる、斜め上の天上を見上げていた。
「拓也さんは、このハイツの中に…いるっ!」
二時間ほど後、ハイツの前に警察車両が停まる、中からはあの不動産屋と私服の刑事が現れた、愛子に報告を受けた冴子がコネを使い呼んだ刑事である、不動産屋は空き部屋の確認と鍵の解錠のために任意で呼ばれたのであった。
待っていた愛子と合流し、二階の二〇二号室へ向かう、階段を昇ると二〇二号室の前にお婆さんが立っていた、先頭の刑事も何かを感じたのか立ち止まる。
お婆さんはこちらをジロッと一瞥すると、手に持った鍵を鍵穴に差し込みガチャリと解錠する、間髪入れずドアを開くと中から誰かを引っ張り出した、開いたドアでよく見えないが男性のようだ、弱っている様子で外廊下の床に転がってうめいている、するとお婆さんは今度は自分が二〇二号室へ入りドアを閉じてしまった、閉じた瞬間ガチャリとロックの音が響く。
床に転がる男を見て愛子が悲鳴のように名を呼びながら駆け寄る、刑事が慌てて救急車を手配する、連絡を終えて床で震える男を見て、ベテランの刑事はしかしどうしていいかわからなかった、長い刑事生活の中でもこれほど酷く怯えた人間は見たことがなかったからだ。
不動産屋が差し出す合鍵を差し込んでも二〇二号室の鍵は開かなかった、そのとき。
『オオオオーン』
不気味な地鳴りのような音が響きそして静寂が戻る、その音に頭を抱えて震えだした拓也は少し後に駆け付けた救急車で愛子とともに病院へと向かった。
愛子は救急車の後部窓から徐々に遠くなる裏野ハイツを見つめる。
窓から明るい日差しと涼しい風が入ってくる、拓也はベッドの上で刑事の報告を聞く、すぐ傍らには愛子も立っている、愛子の勤めるクリニックであった、刑事は話をこう締める。
「老婆はあれ以来見つかっていません、まったくどこに消えたのか…二〇二号室のリビングの床に写真が一枚だけ、残されてたのはそれのみでした」
「写真?」
拓也が訊ねると。
「ええ、婆さんの孫の四~五歳の時の写真でして、十五年近く前のものですな、娘夫婦と孫を交通事故で亡くしてまして…」
「そうでしたか…」
刑事が辞去して二人になると、愛子は拓也のベッドに腰掛けて物思いに耽る彼に話しかける。
「忘れましょう、思い悩んでも仕方ないわ」
「ん、ああ、いや、田舎のお袋にたまには電話しなきゃなあって」
あら、という顔になってふふっと笑う愛子。
「そうね、今度二人で遊びにいっちゃいましょうか」