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緑色の瞳

作者: Remi

Twitterで開催されたNotR18企画(http://revolution.twinstar.jp/NotR18/)に投稿した作品『手当て』(http://revolution.twinstar.jp/NotR18/work/034.html)と対になる作品です。同じシチュエーションを、『手当て』は少女の視点(一人称)で、この『緑色の瞳』は青年寄りの視点(三人称)で書いています。

 久々にそれなりの規模の町にたどり着き、少しはのんびり過ごせそうだと彼は感じた。だいたいの進む方向は決まっているが、期限があるわけではない。交易が盛んな場所らしく、物資は豊富にある。何日か過ごしても退屈することはなさそうだ。

「……アレックスは今までたくさん働いてきたんだもの、ここでちょっと休みましょうよ」

 にぎやかな市場をひととおり眺めたあとで彼が提案すると、旅の仲間はそう言った。明るい緑色の瞳が彼を見る。

「私が偉そうに言えることでもないけれど、あなたくらいの人なら、こちらが積極的に動かなくても、すぐに依頼が来ると思う」

 彼女の言葉に背中を押され、彼は決めた。

「――じゃあ、そうしよう」

 そう言うと、少女は安心したような笑顔になった。しばらく途切れずに依頼があったので引き受け続けていたのだが、一緒に行動する彼女にとって、負担になっていたのかもしれない。

 そういう話をしているときに、ふと、周囲の気配が今までとは変わったことに気づいた。その理由はすぐに分かった。

「――危ない!」

 背後で誰かがそう叫ぶ声と、それまで気付かなかった鈍く重い音が聞こえる。慌てて振り返ると、予想もしなかった光景が飛び込んできた。何にもつながれていない荷車が、ゆるやかな傾斜を下って、二人に向かって動いていたのだ。速さがあるわけではないが勢いがついていて、彼らだけで止められるようには見えなかった。

 二人は即座に反応し、荷車を避けようとした。荷車はこちらに向かってきてはいるが、冷静に見ると彼自身は進路から少し外れていると判断できた。だが、隣にいる少女は……彼は少女の腕をつかむと、多少乱暴かと思いながらも引き寄せた。

 直撃は免れたものの、ぎりぎりのところで避けた荷車が、背中をかすめたような音がした。彼女は倒れこんだが、頭はなんとかかばうことができた。

 彼女の一応の無事を確認してから、彼は荷車を追った。勝手に走らせておいたら大変なことになる。近くにいた男たちと協力して、荷車の動きを止めることができた。それなりの人数が集まったからか、思ったほどの手間や時間はかからなかった。荷車とロバをつないでいた部品が壊れ、外れてしまったのが今回の騒ぎの原因だったようだ。周囲を取り巻いていた落ち着かないざわめきが、ようやく静まる。

 一連の騒動が落ち着いたのに安心して、彼は少女のもとに戻った。声をかけようとしたところで、彼女の姿に息を飲んだ。

 少女は体を起こしてはいたが、座り込んだままだった。あっという間に起きたできごとについて行けず、呆然としているように見えた。

 そして何より、彼女が着ている服の背中にはっきりとついた血のしみが痛々しかった。ぶつかったときの音から、荷車はかすめた程度だと思っていたが、そうではなかったらしい。彼は、彼女を一人きりにしてしまった自分の読みの甘さを悔やんだ。

 とは言え、本人が気づいているか分からない背中の怪我をいきなり話すのはためらわれ、黙ったままで彼女の前に立つしかなかった。少女が彼の存在に気づくまで、少し時間がかかった。

 顔を上げた少女と視線が重なる。顔面蒼白という言葉がふさわしい状態だった。先ほどまで美しい宝石のように輝いていた緑色の瞳から光が消えているのも、なおさら痛々しい。

「……血が出てる」

 力は入っていないが、驚くほど冷静な口調だった。さすがに自分の身に起こった異変に気づいたのだろう。彼は黙ってうなずくしかなかった。

 今度は周囲の人々が、少女の怪我に気づいた。心配そうに遠巻きに見ている。

「――あんた、彼女の連れか?」

 不意に背後から声をかけられ、青年は振り向いた。恰幅の良い中年の男性が立っている。

「ああ」

 彼が言うと、男性は彼に包帯を手渡した。

「迷惑をかけてすまない。これを使ってくれ」

「助かる。感謝するよ」

 はっきりとは言わなかったが、荷車の持ち主だろう。彼はそれ以上は要求せず、包帯を受け取った。この町の住民だったらもっと扱いは違っただろうが、得体のしれない旅人が相手ということを考えると、これでも十分に親切だった。

「……これも使うといいよ」

 近くにいた見知らぬ女性が、端切れを差し出してくれた。

「ありがとう」

 まったく無関係だった人からの親切はとてもありがたいし、使えるものはもらうに越したことはない。彼はそれも受け取った。

「動かないで」

 座り込んだままどう動けばいいか分からない様子の少女に声をかけ、少女の前にひざまずいた。何度かたたんで小さくした端切れを、血で汚れた部分にそっと当てた。その瞬間、彼女は体を小さくびくりと震わせた。

「痛いっ」

 彼女が思わず発した声は大きくはなかったが、青年の耳に刺さった。思わず彼女の表情を確認したところで視線が重なる。力を失った緑色の瞳を見て、何と声をかければいいか、すぐには分からなかった。辛い思いをさせるのは本意ではないが、今の作業を続けないわけにもいかない。確認できないだけに、怪我の状態も気になる。

「すまない。すぐに終わるから」

 そう声をかけると、傷を押さえるように少女の体に包帯を巻く。当然ながら、彼女は怪我をしたときの対処法を知っているはずなのだが、作業に協力的というより、なすがままという状態だ。

「少し痛いかもしれないけれど、我慢して」

 出血が抑えられるように、少しきつく包帯を結ぶ。少女は少し顔をしかめたが、声は上げなかった。

 そして、道具が十分にそろっていない状態では、これが限界だった。

「……歩けるかい?」

 青年が声をかけると、少女は黙ってうなずいた。涙のにじむ瞳が、いつもとは異なる複雑な光を放っている。声を上げるのは我慢できたが、やはり痛みは続いているのだろう。

 彼が手を差し出すと、少女はその手を支えに立ち上がった。気のせいかもしれないが、いつもより彼女の手が冷たく感じられる。とりあえず、彼女が自力で立ち上がれたことに安心した。とは言え、ここから先はまだどうなるか分からない。

「宿の近くで良かった。部屋に戻って、手当ての続きをしよう」

 彼の言葉に、少女はようやく返事ができた。

「――分かった」

 相変わらず力のない声だったが、呆然自失というほどの状態ではなかった。ゆっくりと慎重に、確かめるように歩を進める。いつもより時間はかかったが、通りを歩くだけでなく、階段も、彼の手を借りずに上ることができた。

 部屋に戻ったところで、青年は自分の荷物から手当てに使う道具や塗り薬を取り出した。その途中で何気なく視線を動かしたところで、少女が寝台に座ったままの状態でいることに気付いた。

「怪我したところに薬を塗るから、準備をして」

 その言葉に、半ばぼんやりとした感じで彼の様子を見ていた彼女の表情が、こわばるのが分かった。彼自身もそう言ってから、それが意味することに気付いた。

 ……彼女は、今着ている服を脱いで、彼に背中を見せなければならないのだ。二人はそれなりの期間、一緒に旅をしてきているが、こういう事態になるのは初めてだった。

「俺が見ている前で準備をしろ、なんて言わないよ」

 彼が言うと、少女は黙ってうなずいた。

「きみが準備している間は、そっちを絶対に見ないから」

 だが、彼女は動かない。

「……こんな言い方はしたくないけれど、恥ずかしがっている場合じゃないんだ」

 そう言うと、再びうなずいた。聡明な彼女は、思いがけない事故でいつもと違う状態とは言っても、そんなことはとっくに分かっているはずだ。そして、何をすべきかも。

「全く同じとは言えないけど、俺が怪我をしたときは、きみに何度も手当てしてもらってるし……一緒に旅をする仲間は、俺ときみと二人きりなんだから、きみが怪我したら俺が手当てするしかない」

 もう一度、彼女は黙ったままでうなずいた。

「それに俺には、下心なんてまったくない。きみの怪我が心配なだけだ」

 彼自身はそのようなことを疑われる行為をした覚えはまったくないが、念のため重ねて言った。その言葉に少女はうつむいた。彼はそれ以上は急かさず、彼女が動くのを待つことにした。

 少し経って、少女は視線を上げた。青年をまっすぐに見る。いつもは緑色の瞳が強い意思を感じさせるように輝いているのだが、今日ばかりは不安定に揺らいでいた。

「余計な気を遣わせちゃって、ごめんなさい。今、準備するから……」

 その言葉に彼は安心した。だが、彼女はこう続ける。

「だけど、あなたがいるところで服を脱ぐのは、やっぱり恥ずかしいの」

 彼女からの信頼が得られていないらしい自分に、彼は失望した。その表情が顔に出たのか、少女は慌てて首を振る。

「お願い、誤解しないで。あなたが信じられないわけじゃない。心から信頼してる。この言葉が嘘じゃないのは、わかるでしょ?」

 彼は彼女の言葉に小さくうなずいた。

「でも、それとは別なの。自分でも奇妙だとは思うけど、たとえ相手があなたでも、のぞき見たりする人ではないと分かっていても――」

 彼女の瞳からみるみる涙があふれ、頬をつたった。彼も驚いたが、彼女自身も驚いたかのようなしぐさと表情で、頬を流れる涙を急いでぬぐう。

「ごめんなさい……男の人がいる部屋で服を脱ぐのは、ものすごく恥ずかしいの。分かって」

 そこで少女は息をつく。今までよりいくぶん弱々しい声で、彼にこう尋ねた。

「……私が呼ぶまで、部屋の外にいてくれる?」

 彼女の願いを拒む理由は、彼になかった。

「分かった」

 彼が笑顔で応じると、少女はほっとしたように息をついた。

「きみの気持ちを、もっと考えるべきだったね。悪かったよ。俺はすぐに忘れてしまうけれど、きみはそういう年頃の女の子なんだ」

 座ったままだと辛いかもしれないから寝台にうつ伏せになって、と彼女に伝え、ひとまず部屋を出ることにした。手当てに必要なものは既に準備できている。

 宿の薄暗い廊下は、あれこれと考えをめぐらせるのにぴったりだった。

 まったくの偶然から、妹よりも年齢の離れた少女と一緒に行動するようになって、だいぶ時間が経っている。互いにまるで家族のように思っているが、こういう状況になると、実際は赤の他人なのだと強く実感する。

 とは言え、たとえ彼が血を分けた実の家族であっても、同じ空間にいたら、服を脱ぐのは恥ずかしいに違いない。そして、そういう気持ちを伝えること自体も、勇気が必要だろう。彼は先ほどの少女の涙を思い出した。彼自身が言ったように、年齢差からついつい子供扱いしてしまうのだが、彼女は既にそういうことを敏感に感じられる年齢だ。自分の配慮のなさを反省すると同時に、それが腹立たしくも感じられた。

「――アレックス、準備できたわ」

 そんなことを考えているうちに、部屋の中から少女の声がした。扉越しに聞いてもはっきり分かるほど、その声は震えていた。彼女がどんな思いで服を脱ぎ、手当てを受ける準備をしたか。彼自身には想像もつかないことだった。

 彼は、この状況で自分がすべきことをするしかない。

「入るよ」

 そう言ってから、彼はゆっくりと扉を開いた。

 寝台に横たわる少女の白い背中が、薄暗い室内でぼんやりと浮かび上がっていた。彼女は顔を扉とは反対側に向けていて、表情は分からない。

 さっきまでは意識しなかったが、空気が重い。張り詰めるような緊張感が、この部屋を支配している。青年は寝台に向かって歩いた。これまでまったく気にならなかった床のきしむ音が、驚くほどうるさく頭の中に響く。そして、寝台の脇に置いてある椅子に座る。白い背中に目立つ傷に目を向けた。

 よくよく確かめてみると、確かに出血はあったが、考えていたほど傷は深くなかった。出血もほぼ止まっている。それ以外の、骨折などの負傷はないように思われた。大事にはなっていないことが分かり、彼は安心した。

 ……そこでようやく、傷以外のところに彼の意識が向いた。若い娘らしく長く編んだ亜麻色の髪を頭の上でまとめ、白く細いうなじがあらわになっている。手当てのときに邪魔にならないように、気遣ってくれたのだろう。彼自身は髪を伸ばしたことがないので、そういう指示に考えが及ばなかった。

 白くなめらかな肌に覆われたうなじと背中が描く曲線は、まるで美しい芸術作品のようだった。だが、その美しい背中はわずかに震えている。彼女はきつく目を閉じていた。部屋に入ったときから感じていた緊張感が緩む気配もまったくない。

 少女は、彼に見せたくてそんな姿をしているわけではないのだ。たとえ美しさに心を動かされたのだとしても、余計な時間を費やすのは失礼なことだった。彼女が不本意な状態でいる時間は、少しでも短くしなければならない。彼は大きく呼吸をしてから、こう話しかけた。

「……よかった。傷は深くないみたいだ」

 そう言ってから、液体の入ったビンと布を手にする。

「出血は止まっている。念のため傷をきれいにして、薬を塗るよ」

「――分かった」

 少女の声はかすれていた。緊張のあまり、声も思うように出せないようだ。

「……さっきより、痛みを感じると思う。我慢してくれ、としか言えないのが申し訳ない」

「大丈夫」

 ビンの中身は蒸留酒だ。普通の酒より強いぶん高価だが、傷口をきれいにするのに役立つので、彼らは切らさずに持っているようにしている。だが、これは他の液体でも同じことかもしれないが、傷口に使うと沁みる。彼女もそれは覚悟しているようだった。

 彼は、蒸留酒を拭きとるための新しい布を傷の近くに置いた。布越しでも、彼女の肌のなめらかさ、肉体のみずみずしさが伝わってくる。それと同時に、その体がこわばっているのも分かった。

 刺激が強いのもあるが、気前よく使えない金額のものということもあって、使いすぎないように慎重に、彼女の傷に蒸留酒をかける。

 その瞬間、彼女の体が大きく動いた。彼はその動きに、陸に打ちあげられた魚を思い出した。自由を奪われ、そのままでは生きていけない環境に置かれた存在。蒸留酒は相当沁みているに違いない。彼女の細い指が、シーツをぎゅっと握り、震える。体がますます硬くなる。声を出すのを我慢するためなのは明らかだった。呼吸までできなくなっていて、その姿は痛々しかった。

 ずっと呼吸を止めているわけにはいかないので、少女は肩を動かして息を吐きだした。それと一緒にこらえきれなかった声が漏れる。

「ああっ……」

 シーツを握っていた指から力が抜け、ゆっくりと開いた。視界の隅に、きつく閉じたままの彼女の目から涙があふれたのが見えた。

 すべては短い時間でのできごとだった。彼は急いで、布で蒸留酒を拭きとる。よほど辛かったのだろう、あっという間に背中に汗が浮かんだ。

「――痛いときは、痛い、って言ったほうがいいよ」

 青年はそう声をかけた。少女は黙ったままだ。そもそも会話ができるような状態ではないことは、容易に想像できた。こういう状態でなければ、いつものように彼女の手を握ったりして気持ちを落ち着かせるところだ。しかし今は、気軽に彼女に触れられる雰囲気ではない。この状態でいるときに、彼が直接体に触れるというのは、彼女にとって恐怖でしかないだろう。

 傷口に使う塗り薬を準備しながら、彼は言葉を続ける。

「確かに、痛くなるのはどうしようもできないから、そのことは我慢しなくちゃいけない。でも、痛いことを痛いと言うのは、我慢しなくていいんだ」

 使い慣れた塗り薬の独特の匂いが、部屋に漂う。商売柄大小さまざまな怪我の多い彼を気遣って、少女が自分の知識や経験を活かし、工夫したものだ。

「……黙ったまま自分の中に抱え込んでしまうより、声に出したほうが、楽になれるから」

 彼がそう言うと、少女は大きく息をついた。

「……ふぅ」

 やっと声を出せる状態になったようだ。とは言っても、まだ弱々しい声だった。

「分かった。でも、あなたの言葉、そのままあなたに返すから」

 その言葉に、彼は思わず苦笑した。確かにそうは言ったものの、彼自身が実行できていないことを指摘されたのだ。

「ありがとう。覚えておくよ」

 彼はそう言いながら、布に薬を塗った。液体がしみこみにくいようにできている布で、しっかりと薬を塗るのに都合がいい。その布を、そっと少女の背中の傷の上に置いた。

「あっ……」

 彼女は体をわずかに震わせると、小さく声をあげた。それからゆっくりと息を吐く。

「――痛い」

 彼女の声や体からは、既に力が抜けていた。先ほどの痛みに耐えるのに、気力を使いきってしまったのだろう。少女はため息まじりに言った。

「でも、今までに比べたら痛くない」

 先ほどの彼の言葉を聞き入れて、きちんと『痛い』と言ってくれたのも嬉しかった。

「良かった。傷にしっかり当たるように、薬を布に塗って貼ったよ。この薬を使うと、すぐに傷が治るから、俺はすごく助かってる」

 気になっていた傷が見えなくなったところで、彼は彼女の白い背中に浮かぶ汗が気になった。このままでは、服を着るときに不便かもしれない。そう思った彼は再び布を手に取り、なめらかな肌をなでるようにそっと拭いた。

「きゃあっ」

 その直後、少女が突然体をびくんと震わせて、声をあげた。彼女自身にまったく自覚はないだろうが、今まで以上に甘い響きがひそむ声だったことも、彼を驚かせた。

「――どうした?」

 彼が慌てて尋ねると、少女は急いでシーツにぎゅっと顔をうずめる。

「ありがとう、大丈夫よ。予想していなかったから、びっくりしただけなの」

 シーツに顔をうずめたまま、少し早口でこう言う。くぐもっていてはっきりとは聞き取れない。表情はまったく見えないが、自分の出した声に驚き、恥じらっているのは容易に想像できる。

「先に言うべきだったね。驚かせて申し訳ない」

 彼女にとって、今の姿は恥ずかしいだけでなく無防備だ。だから、いつもの感覚で接してはいけない。たとえ布で隔てていたとしても、手当てで必要なところ以外に、勝手に触れてはいけないのだ。なぜここまで来て、そういう不注意なことをしてしまったのだろう。あれこれと気を遣っているつもりで結局思慮の足りない自分が、苛立たしくさえ感じられる。

 そう思っているところで、彼女のつぶやくような声が耳に飛び込んできた。明瞭に聞こえたわけではないし、ひとりごととも彼に向かって発せられた言葉とも判断がつかなかった。

 彼にとって嬉しい言葉ではあったが、彼女が返事を求めているかどうかは分からない。彼は結局、彼女の言葉もそれに対する彼の返事も、胸にしまっておくことに決めた。それが正しいかどうかは分からなかったが、迷うのはやめた。

 彼は手当てに使った道具をざっと片付けると、最後に、包帯を傷に重なるように置いた。

「あとは、この包帯を巻けばおしまいだ」

 そう言って椅子から立ち上がると、床がギシギシと鳴る。

「これで、俺は外に出る。1人でできないなら手伝うけれど、大丈夫だろうから」

「たぶん大丈夫。ありがとう」

 少女の返事は、今までよりもしっかりしていた。その言葉に彼は安心し、扉に向かう。やはり床がきしむ音が響いたが、不思議なことに、ひどくうるさいとは感じなかった。

 再び彼は、薄暗い廊下で待つこととなった。だが先ほどよりは心が軽い。傷の具合が確認できて、きちんと手当てができたのは大きかった。

 彼が考えていたよりは少し時間がかかったが、ゆっくりと扉が開いて、少女が顔をのぞかせた。いつものような明るさはまだないが、彼を見て安心したような笑顔になる。彼もその表情を見て安堵した。

「いつもの元気がだいぶ戻ったみたいで、良かったよ。さっきは顔が青ざめていたからね」

 その言葉を聞いた少女の笑顔に、恥ずかしげな表情が混じる。それでも緑色の瞳は、取り戻しつつある輝きを失うことはなかった。彼自身も、その姿を微笑ましく見られる心の余裕を取り戻したことに気づいた。

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